忘れじのノートテイカー(5)



 九州の青学の付属外科医療センターでは、さすがに東京の主治医からの連絡が行き届いていたようで、早速改めてMRIを撮るなど検査の段取りが整っていた。
 画像診断の結果、肘も肩も、骨や腱などの明らかな異常は見られない。ただ、負荷を与えてのテストの結果、肩への筋肉への疲労の蓄積は大きく、それを癒した上で可動域を戻してゆくトレーニングをしなければならないという事だった。
 そう、つまり現段階で、国光の左肩は今までのように上がらないのだ。
 持ち上げようとすればするほどに痛みを伴う。
 一通りの検査と診察を終えると、国光は医師の指導のもと理学療法室に通い、理学療法士と共にトレーニングを行っていった。

 一人、病院の個室で過ごすというのは、国光にとって初めての経験だった。
 もとより一人でいるのは嫌いではない彼だが、何より故障した腕を抱えて、戦線離脱した状態でこうして過ごすというのはさしもの国光でも楽ではなかった。
 何をしていても24時間、頭に浮かぶのは思い通りにならない自分の左腕と、東京にいるテニス部の皆。
 治療に専念できる状態といえばそうなのだが、あせりがないかといえば嘘になる。
 できうる限りの努力をしている国光に、彼の体は思うような反応を見せなかった。
 そのような状態は、トレーニングをすればするだけ強くなってきた彼には、もどかしい事この上ないのだった。
 こうして試合の最前線から一旦遠のき、体を休めていれば筋肉疲労も癒え、肩も上がるようになるはずなのだ。それなのに、一向に改善される様子はない。それどころか、彼があせればあせる程、肩のこわばりが増してくる気さえする。
 画像や徒手テストからしても、状態は改善してきている、との医師の言葉さえも信じられなくて、普段冷静な彼が診察室で立ち上がって大声を出してしまう事すらあった。

 俺は全国大会に間に合うのか。

 そんな心の声は、日々大きくなるばかり。

 しかし、意外な事から彼の活路は開けたのだった。




 その、彼にとってすばらしい出来事のあった日の夜、久しぶりに清々しい気分で国光が病院の自室にいると、携帯電話が鳴った。
 見知らぬ番号だ。
「はい、手塚です」
 通話ボタンを押し、いつもの静かな声で応えた。
「……あの、ですけれど……」
 電話の向こうからは聞きなれた、おずおずとした声。
 国光はしばらく声が出なかった。
「あの、もしもし? 手塚くん、だよね?」
「……ああ、すまない、俺だ」
 彼女の声とともに、あの丁寧な文字で埋め尽くされたノートが目に浮かぶ。そして、あのいつも少しはにかんだような笑顔が。
「病院でしょう? 電話、大丈夫?」
 彼の声に、はほっとしたように続けた。
「ああ、許可の得られている個室だから平気だ」
「腕は、どう? 順調?」
「順調では、なかった。しかし、テニスでも何でも、ずっと練習してまったく上手くいかなかったのに、ある時突然ふっと格段に上達する時がある。今回はそんな感じだった」
 国光は懐かしい声に、入院してからしばらくの焦るばかりの日々の事、そして最近出会ったミユキという少女とのトレーニングから、どうやって活路が開けたのかという、その日の出来事までを珍しく饒舌に話した。
「俺は、自分の強い部分も、弱い部分もわかっていたつもりだった。しかし、俺の臆病さが理由で肩が上がらないのだなどと、思ってもみなかった。情けない話ではあるが、それでも……それが分かって、ひとつ、自分が前に進んだ気がする」
 彼の言葉に、受話器の向こうのが柔らかく微笑むのを感じた。
「……俺は、負けず嫌いで臆病な男なんだ」
 そして国光は、の言葉を待たずに続けた。
「……私も、臆病。だって、手塚くんに、なかなか電話できなかったもの」
 そう言いながら笑う彼女は、きっといつものような恥ずかしそうな顔をしているのだろうと、まるで目の前にいるかのように思い浮かんだ。そして、国光はぎゅっとシャツの裾を握り締めて手のひらににじむ汗をぬぐった。
「……その……すまなかった。ずるい事をして……」
 少し考えて言葉をさがしてから、そう言った。
「んん?」
 彼女は言葉の意味を尋ねるように問うけれど、わかっていたろうと思う。
 九州に発つ日、国光は彼女に借りたノートを返した。
 彼はそこに、ひっそりと自分の携帯の電話番号を書き添えていたのだ。
 ついに、彼女と連絡先の交換もできぬままだったから。
「あ、うん、本当は私も電話番号聞こうと思ってたの。ノート、きっと夏休み中に見たいでしょ? いつ帰ってくるのかなあって、思ったし。……聞けなかったんだけどね、臆病だから」
 言って、またおかしそうに笑った。
「すまなかった……いや、ありがとう」
 国光はシャツの裾を握り締めたまま、腹の底から搾り出すように言った。
「うん、あの、よかった。じゃあね、おやすみなさい」
 照れくさそうに口早に言う彼女は、多分、本当は電話が苦手なのだろうなと国光は感じた。
「ああ、おやすみ」
 ツーツーという電子音が流れるのを確認してから、彼も通話ボタンを切った。
 そして、切ってから、いつ帰るのかという肝心の事を話すのをすっかり忘れていた事に気付く。
 が、国光は口元をゆるめたまま、彼女の番号が残った電話を握り締める。
 構わない。
 また改めて、自分が電話をして伝えれば良いのだから。
 彼女のノートに黙って電話番号を書いて東京を去った自分は、一年の時に何も言えずに席がえを迎えた自分と何も変わっていないじゃないかと思っていたけれど、少し違う。昔と変わらぬ自分と、そして新しい自分が一緒にいる。一人がむしゃらにテニスをしていた頃の自分と、皆を全国に率いる部長としての自分が同居しているように。



 九州でと電話で話した三日後、国光は東京へ帰った。
 そして東京に戻った彼は、全国大会対戦組み合わせの抽選会場で、久々に公の場に姿を現す事となる。
 一ヶ月近く最前線から退いていたという事は、国光の年齢では非常に長いブランクにも感じる。しかし、試合をしたわけではなくとも、氷帝や立海、大阪の強豪・四天宝寺らの面々と、ピリピリした空気の中で顔を合わせるという事は、彼の中のブランクをも吹き飛ばす心地よい緊張感を与えた。やはり、抽選会場に行ってよかったと、国光は思う。

 抽選会場から帰宅の途中、バスを降りると国光はそこから家に向かわずバス停のベンチに腰を下ろす。腕時計をちらりと見た。
 その行為を数回繰り返した後、彼ははっと顔を上げる。
 道路を横断してくる人影。
 ふわりと涼やかなワンピースをたなびかせて小走りでやってくる、だった。
「ごめん、待った?」
「いや、さっき着いたところだ」
 国光は立ち上がって言った。
「突然電話してくるから、びっくりしたじゃない。帰ってきてたんだ」
 少し息を切らして言いながら、彼女は国光に紙袋を差し出した。
「はい、手塚くんが休んでいた間のノート。返してくれるの、いつでもいいから」
「ありがとう」
 彼はそれを受け取ると、いつものように礼を言った。
 そしてそれを鞄にしまうと、別の、小さな箱を鞄から取り出した。
 それは、二年間、国光の机の引き出しで眠っていたものだった。
「これを……」
 国光はそれを彼女に差し出す。
「ん? なあに? 九州のお土産?」
「いや、違う。すまない、九州の土産はないんだ。時間がなくてな。それより……これは……一年の時にノートを借りた礼にと、当時、俺がに用意したのだが渡しそびれていたものなんだ。よかったら受け取ってくれ」
 彼女は驚いたようにそれを受け取ると、その小さく平べったい箱をそっと開けた。
「……なあに、これ、何だかすごくきれいね?」
 一瞬彼女は不思議そうにしたが、すぐに顔をほころばせて言った。
 何なのかわからないのも無理はないだろう、と国光は苦笑いをする。
「それは、一年の時俺が祖父に習って作ったフライフィッシング用の毛針だ。羽虫に似せて作る、疑似餌なのだ。多分当時の俺なりに、きれいな物だから女子が気に入るのではと思ったのだろう。おかしな物ですまないな」
 国光は照れくさい思いを押し隠しながらさらりと言った。はビーズと鳥の羽で作られた毛針を興味深そうに指で触れながらじっと見ていた。
「ううん、本当にきれい。手塚くん、器用ね」
「今なら、もっと上手く作れる。……負けず嫌いで臆病な男だが、手先は器用なんでね」
 彼が言うと、は毛針の箱を大事そうに握り締めて笑った。
「負けず嫌いで、臆病で、そして勇敢なひとね。全国大会……腕を治して、ちゃんと間に合ったじゃない」
「……勇敢な男は、臆病でいてもいいのか?」
 国光は彼女の不思議な言葉を頭の中で繰り返した。
「臆病と勇敢は、一緒にいるものなんじゃない? 私は大体いつも臆病だけど、ほんの時々勇敢になる。一年の時、手塚くんにノートを貸そうかって話しかけた時とか、この前九州に電話した時とかね。きっと、強いひとは、臆病さと勇気とを同じくらい沢山持っているんだと思う」
 そして、見慣れたあの恥ずかしそうな笑顔。
「だったら、日本一、負けず嫌いで臆病で勇敢な男たちを決める戦いを、観に来ないか?」
 思わず大きな声を出してしまう彼を、は小箱を握り締めたまま見上げた。
「いや、観に、来てくれ」
 彼女の驚いたような顔に、国光はあわてて声のトーンを落として続ける。
 ジャージの下で、つつ、と汗が流れるのを感じた。
 彼女は口元をほころばせて、一瞬うつむいてからまた顔を上げた。
「今ね、試合を観に行ってもいい? って、聞こうと思ってたの。なんだか私、いつもワンテンポずつ遅れるね、手塚くんに」
 そう言って、は国光が手渡した小箱を大切そうにバッグに仕舞った。
 そして、どちらともなくゆっくりと歩き出す。
「……いや、良いペースだ」
 国光は静かにつぶやいた。
 次に彼女の元を留守にする時、自分は彼女に何を頼もう。
 高い空をバックに迫ってくるような入道雲を見上げてから、彼は考えた。
 離れている間の彼女を、今度はノートの文字からだけではなく、もっと……もっとリアルに感じたい。
 自分のために、彼女の時間はゆっくりと流れ続けてくれるだろうか。
 そんな事を考えながら、負けず嫌いで臆病な男は、隣を歩く少しだけ勇敢な彼女を見つめるのだった。

(了)
「忘れじのノートテイカー」

2007.10.21




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