忘れじのノートテイカー(3)



 アスリートには、実にシンプルな結末しかない。
 勝つか、負けるか。
 しかし国光は、このところ第三の局面に気付かされる事になる。
 戦線離脱だ。
 つまり、故障などで選手としての生命が危ぶまれる状態になる事。
 そんな事は中学生の自分には無縁だと、彼も考えていた。
 去年の秋に、左肘の違和感に気付くまでは。
 一年の頃に左腕に受けた負傷は、たいした事のない打撲という事で済んでいたはずだった。しかし、その後の彼のトレーニングでの負荷の蓄積により、その何という事ないはずの古傷は『故障』とまでなり彼を苦しめる事になったのだ。
 その事に気付いた国光は、副部長である大石秀一郎の助けを得、今までかけて十分な治療を行ってきた。尚、その事は部員に心配をかけてはならないと、彼ら二人と顧問の教師だけしか知らない事実である。
 一年の頃に幼稚な『我』を通した事による顛末が、こうして皆を引っ張ってゆく立場になった頃、その役割に大きく影を落とすなど皮肉なものだと、国光は大和部長の穏やかな顔を思い出すのだった。



「一年の時、手塚くんが怪我してきたときはびっくりしたけど、さすがに最近はもうああいう事ないんでしょう? 部長が怪我したら大変よね?」

 ある日の休み時間、が何気ない話の流れでふとそんな事を言った。
 国光は言葉につまり、じっと彼女を見てから自分の手元に視線を落とす。
 彼のそんな態度に、が心配そうな顔をするのを感じた。

「……丁度、タイムリーな話題だ」

 国光は顔を上げて切り出す。
 彼は関東大会を控えた今、左肘の治療の仕上げをすませた。そして、完治をしたと医師から太鼓判を押してもらった。
 しかし、どんな検査でもはっきりしない、何とも言いようのない違和感が……左腕のどこかにあった。どこがどう痛いのかなどとはっきり言うこともできないような、微妙な違和感だ。
 しかし、去年の秋に最初に腕の不調に気付いた時から、国光は自分の体から出るサインには敏感になろうと心に決めたのだ。
 明日は平日であるが、世話になっている医師に再度診察をしてもらう予約をした。
 これは大石にも内緒でだ。

「実は左腕の調子が完全ではない。明日、病院の予約を取っている。だから……欠席する分のノートを、また見せてもらえないか?」

 国光は静かな声でそう続けた。
 明日の欠席は、大石や顧問には家の都合で、と言ってある。
 が、どうしてかには本当の事を言っておかないといけないような気がした。
 ひとつには欠席の間のノートを借りるのだからという事に対する、国光の律儀さ。それと、彼女とこうして話すようになってから、ゆっくり積み上げてきた会話の数々。その、決して多くはないけれど一つ一つが輝く中に、嘘をまぎれこませる事を国光は望まなかったのだ。

「うん、もちろんノートはいつでも貸すよ。……安心して行って来て」

 はしばし心配そうな顔をしたが、またすぐいつもの穏やかな笑顔に戻って彼にそう言った。
 ああ、そうか。
 国光は、納得した。
 国光は乾や菊丸のように饒舌なタイプではないが、決して口下手な方ではない。理路整然と話す事が苦手なわけではない。が、自分にとってまだ明確でない事や、自分の中で気持ちの決まっていない事を、そんな段階で人と話して共有する事が苦手だ。だから、他人と何気ない和気あいあいとした会話を弾ませるという事を、普段あまりしないのだ。
 は自分の事を少しずつ話したり、国光の話を聞いてくれたりする。しかし、国光がまだ上手く話せないような事を、あれこれと聞いてきたりする事はない。
 もちろん、国光の左腕の事を彼女が多分に心配しているであろう事は伺い知れる。が、例えば、これが大石だったら心配のあまり、『どんな具合なんだ? 練習は控えた方が良いのではないか? 治療の計画はどうする?』と思いつく限りの言葉を投げかけてくるだろう。勿論それは副部長として無理からぬ事だし、有難い事なのだ。が、時には彼女のようにすっと抑えて、彼が納得し終えてからの言葉を待ってもらえるのも良い。
 彼女の、そういう感覚が心地よかったのだと、国光はわかった。
 と話している時、彼は知らず知らずのうち、『部長』の手塚国光と、一年の頃と変わらぬ個人としての手塚国光を、好きなように行き来していた。
 昨年、三年生が引退してから、彼は、それまでのように自分の技術を磨く事のみに徹したプレイヤーではなく、部を率いる者としての自覚を改めて強く持とうと自らを戒めて来たのだが、当然の事ながらそれは全く違う自分に生まれ変わるものではなかったのだ。
 大和部長は、熱心なテニスを愛好するプレイヤーとしての個人と、そしてテニス部を率いる部長としてのバランスが見事に取れていた。
 結局、チームというのは個人の集まりなのだ。国光の示す方向性で、皆は動きを見せる。そして彼らがまた、国光を熱くする。
 彼は、自分自身が勝ちたいと、全国で優勝したいと思う。そしてチームの一人一人が同じように感じる、その思いが彼の元に集まり、いつしか自分が勝ちたいという事のみならず『青学を優勝させたい』という思いに昇華してきたのだ。
 未熟で熱かった一年の頃のあの自分も、また、今の自分の中で生きていても良いのだ。
 それは部長としての国光を支えている、根幹の一つなのだから。
 なぜだか唐突にそんな事を頭で考えていた国光は、当然黙ったままで、そんな彼をは不思議そうに眺めている。
 彼は何も取り繕うような事は言わないけれど、どこかしら満足な気持ちだった。そんな表情を読み取ったのか、はふうっと息をつくと軽く笑って机に向かってテキストを広げた。



 その日、学校を欠席して主治医の元を訪れた国光は、見慣れた自分の左腕の単純レントゲンやMRIの画像を医師とともに子細に眺める事となる。
「うーん、MRIを何度も撮っているけどね、前も言ったようにこれといった異常は見られないんだよ。骨の不整面もみつからないし……」
 主治医は副部長の大石の身内の者であり、国光には親身に接してくれる腕の良い信頼できる医師であった。そんな彼も首をひねる。
「ただ、手塚くんの言うように、まだどこかしら違和感があるというのなら、それは無視せずに自分で注意しておいてほしい。無論、過剰に安静にする必要はない。が、プレイ中に何か異常を感じたら、すぐに中断する事を約束してほしいんだ」
 国光は少し考えて、黙ってうなずいた。
 うなずきながらも、本当に自分にそれができるか、自分の中ではまだわからなかった。
 例えば、大事な一戦の間にそれが起こったら?
 自分は試合を中断する事ができるか?
 心の中でそんな自問自答をしていると、医師は続けた。
「もしかすると、肘を痛めていた間に肘以外の他の部分に負担がかかっていたという事も考えられるからね。試合はいつなんだい?」
「関東大会の初日が、今週末になります。それが三週続き、その後に全国大会が」
「そうか。全国大会には万全で出たいものだな」
 医師は少し考えて、机の引き出しから封筒と便箋を取り出した。
「もしも手塚くんの感じている左腕の違和感が強くなるようだったら、すぐにもう一度連絡をくれないか」
 そう言いながら、さらさらと便箋に何かを書き出した。
「九州には青学の附属医療センターがあるだろう。そこの整形と理学療法には、スポーツ医学を専門とした良い医師がいる。君が腕に明らかに異常を感じ、更なる治療を決意してご家族の同意も得られるのならば、その時にはすぐにでも受け入れてもらえるよう連絡を入れておく。これは紹介状だ」
 主治医は書き上げた書面を封筒に入れ、封をして国光に手渡した。
 その表には青春学園附属外科医療センター外科部長御机下、と記してあった。
「何かあった場合は、私に電話一本くれて、そしてそのまま九州に飛ぶといい。画像などの資料はすぐに私から病院に送付する」
 医師は暖かく国光に言った。
 国光は紹介状を握り締め、深い感謝の心持で頭を下げた。
「ありがとうございます。感謝の言葉もありません……。ああ、ただ……」
 顔を上げた国光は、はっとしたように一瞬口をぎゅっと結んだ。
「この件はまだ、大石……秀一郎くんには内密に願えますか」
「ああ、勿論わかっている。あいつは心配性だからね」
 医師は、国光を安心させるような微笑を見せた。
 
 病院から帰宅する途中、携えた小さな封筒は彼の中で暖かい熱を発していた。
 しかし同時に、それが役に立つ事がなければ良いと、彼は祈っていた。

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2007.10.19




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