忘れじのノートテイカー(2)



 国光は、自分自身、すでに一年の頃とは違うのだという事をよく分かっていた。
 今でも、一年の時に出会った大和部長の事を忘れた事はない。
 二年前の彼は、勿論、自身がテニス部の部長になる事など考えもしなかったし、考えていたのはひたすら己がテニスをする事だけだった。自分がレギュラー選手になる時代には必ず青学で全国へ行こうと思いつつも、『皆で』という思いは漠然としていて。
 そんな彼に、大和部長という人物は衝撃的だった。
 正直なところ、テニスプレイヤーとしては凡庸としか言いようのない三年生だ。しかし、真摯にテニスを愛し、そして部員となった者の一人一人を丁寧に把握し思いやり、かつ部全体のあり方・方向性を明確にしてゆく能力は、突出していた。
 今、当時の彼と同じ三年になり、同じく部長になった国光は、自分には彼ほどの『部長』としての能力はないと感じている。
 ただ、高い技術を持った、そして同じ志を持った心強い仲間に恵まれている事は実感しており、それが彼の部長としての責任感と自信を支えてくれた。
 今の国光は、一人のプレイヤーとしてがむしゃらに走っていただけの一年生の頃とは違う。青学テニス部を全国大会優勝に向けて率いる柱の一人なのだ。
 一年の時の左肘の負傷は、当時の彼の人間としての未熟さを感じさせる、苦い思い出であった。
 は、彼にそんな昔を思い出させる。
 しかしそれは、不思議と嫌なイメージではなかった。
 は、相変わらず静かで積極的に話すというタイプではないが、教室で国光と顔を合わせるとにこりと笑って挨拶をかわす。
 一年の時は、席が離れてから口をきく機会もなくなり、言葉を交わすのは今回、多分一年の時の席がえ以来だった。
 国光はもともと口数の多い方ではないし、表情豊かな方でもない。そんな彼の態度が、もしかするとの気を悪くしたかもしれないと思ったりもしていたが、挨拶をする時の彼女の雰囲気からするとそうでもなさそうだと、彼は感じた。
 ある日、いつものように挨拶を交わした後、自分の席について机にテキストをしまいはじめる彼女に、国光はゆっくりと言った。

「……一年の時、ノートを見せてくれただろう。あの時は、どうもありがとう」

 相変わらずにこりともせず言う彼を、は驚いた顔で見上げる。

「手塚くん、覚えてたんだ」

 そして次には嬉しそうな笑顔。
 忘れるはずがない、という言葉を国光は心の中でだけつぶやいた。
 彼女にとっては、国光が忘れていてもおかしくない程度の出来事だと思っていたのだろうか。国光は勝手に、彼女も忘れているはずがないと思っていたので、一瞬気持ちがふらつく。そのふらつきの意味するところを、彼は自分でもよくわからなかったが。

「……これから、部の遠征で欠席をする事が出てくるかもしれない。その時は、またノートを見せてもらえるか? のノートは丁寧で非常に見やすいし、とても参考になった」

 一瞬のふらつきを抑え、彼はすぐさまそう続けた。
 はまた目を丸くして驚いた顔。そしてその後の、照れくさそうな笑顔。

「うん、私のノートでよかったらいつでも言って」

 彼女の言葉に、国光は小さく息をつく。
 ノートの当てが確約されたという事と、彼女の笑顔が見られたという事に。



 と隣同士になった席は、一年の時と同じような席だが、違うのはあの頃よりもよく彼女と話すようになったという事だ。
 ノートの約束を取り付けてから、二人は他愛無い事を話す機会が増えた。
 一年の時、国光は今思えば我ながら自意識過剰とも思えるような妙な理由で、彼女に話し掛ける事を控えていた。つまり単純に言えば、彼女と親しげに話せば、クラスメイトに妙な誤解をされ彼女が何か言われたりするのではないか、という事なのだが。
 もちろん、三年生になった今だってそんな可能性がないとはいえない。
 けれど、思春期に突入しかけたぎこちない一年生の年頃に比べれば、まだ今の年齢くらいの方が、誰しも男女で話す光景に慣れてきている。
 今ならば国光も、にクラスメイトとして自然に話す事ができる自信があった。
 国光は学年を重ねるごとに、女子生徒からの人気も高まり、思いを打ち明けられる事も多々ある。が、依然として彼は女子生徒と恋愛関係を結ぼうという気にはならず、毎回断りの言葉を伝えている。彼とて、華やかで愛らしい女子生徒を好ましく思う事もある。しかし、そんな気持ちは常に他人事のようで、そこから一歩進めて関わりを持って行こうという程には、なかなかならないのだった。
 国光がに興味があるのかどうか、彼は自分でもよくわからなかった。
 ただ、一年の時に、もう少し話しておけばよかったと思う事が時折あったのは確かで、今、その時にできなかった会話を取り戻したいという気持ちなのかもしれない。



 と話をするのは、思いのほか国光にとって楽しい時間だった。
 彼女と話が弾む理由の一つに、が国光と同じく祖父と同居をしているという事があった。部員も同級生も、祖父母と同居して頻繁に交流をしているという者は少なかったからだ。は若干人見知りなところがあったようだが、少し親しくなると、その静かな口調で楽しそうによく話すようになった。

「美術部だったのか。絵を描くのか?」

 ある時、彼女の部活動についての話になった。国光のテニス部の話から、じゃあの部活はどうなのかと、ある時国光は当然の疑問を問いかけたのだ。そういえば、彼女の所属部を知らなかった。

「ううん、私は絵は描かないの。ほとんど、幽霊部員」

 そしてまた照れくさそうに笑って話す彼女。

「焼き物……陶芸をね、ちょっとやってる。だから、窯に連れて行ってもらえる時くらいしか、まじめにやらないなあ。ほら、うちのおじいちゃんが陶芸が好きだから、それでね」
「ほう、うちの祖父も植木の鉢を自分で焼いている。は土も自分で採りに行ったりするのか?」
「ううん、おじいちゃんはそうしろって言うんだけど、めんどくさくて、つい先生が用意してくれる土しか使わない」
「うむ、自分で採りに行った方が良いぞ。俺は祖父に頼まれて、山に行って一歩きしてから土を採って来たりするが、運動になって景色も眺める事ができるし、一石二鳥だ」
 彼が力強く言うと、はおかしそうに笑う。
「手塚くん、うちのおじいちゃんとおんなじ事言うねえ」
 そんな風に言いながらも、は国光がする山の話やなんかに興味深そうに耳を傾ける。
 多分、彼女はこんな風に祖父の話を聞いているのだろうなと、国光は時折思ってはおかしくなった。そのうち、『手塚くんはうちのおじいちゃんみたい』などと言われてしまうのではないかと思ったりもするのだが、彼女とはテニスの話をするほかに、父と登った山の話、祖父とテントを張って寝た話などをするのも楽しかった。
そんなわけで、国光はに常にテニスの話をしていたわけではないのだが、テニス部の活動は学内でも有名なため、は手塚が何も言わずとも、校内ランキング戦やそして勿論大会の結果などを知っている事が多かった。
 春の陽射しが、新緑のざわめきと共に暑さへと変わって来る頃、週明けの教室で顔を合わせたは嬉しそうに国光を見た。
「おめでとう、都大会で優勝したんだってね? さっき友達が言ってた」
 彼女が普段仲良くしている友人は、テニス部の練習やなんかを熱心に見学に来るタイプだ。なんでも、不二周助にご執心なのだとか。そんな友人から聞いたのだろう。
「ああ。今年は元気の良い一年がレギュラーで入っているからな。俺は大分楽をさせてもらっている」
 正直なところ、都大会は全国への通過点でしかなく、重要なのはこれからだった。
「次は、関東大会なんだっけ? 次々と大変だけど、楽しみね?」
 まっすぐに嬉しそうな笑顔を向ける彼女に、国光は、ああ、と答えるだけ。
 彼のそんなクールな態度はいつもの事なので、はさして気にした風はなかった。
 けれど、彼の胸の中には、関東大会から全国大会に向けての今、くすぶるのをやめない火種のような、そんな懸案があった。

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2007.10.18




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