忘れじのノートテイカー(1)



 三年に進級した手塚国光の新しいクラスでの席は廊下側の窓際だった。
 その落ち着いた場所の席を、彼は好ましいと思った。
 鞄を置いて腰を落ち着けると、『あ』という小さな声と同時に隣に人の気配。
 顔を上げると、女子生徒だった。

「あ、隣、手塚くんね。よろしく」

 窓から差し込む日差しがまぶしいのか、少し目を細めて微笑む彼女に、彼は一瞬間を置いて軽く頭を下げた。

「ああ、こちらこそよろしく」

 国光は彼女の名は尋ねない。
 知っていたから。
 という名だ。

 彼女は静かに席に着くと、ノートや教科書を丁寧に机に仕舞い始めた。
 彼女を知っているというのは、何という事はない、一年の時に同じクラスだったのだ。
 そして、同じような窓際の席で隣同士になった事があった。
 それでも型どおりの挨拶以外に言葉が出ないのは、国光にとって彼女には少々特別な思い出があったから。
 その件を自分自身どう捉えて良いのか未だにはっきりせず、無口な彼は必要以上に彼女に対して無口になってしまうのだ。

***************

 それは一年の時だった。
 国光はテニス部のトレーニングにおける先輩とのトラブルで左肘を痛めていた。
 後に彼を苦しめる故障のきっかけとなったそれは、当時に深刻な異常をきたしたわけではなかったが、数日は冷やしつつ患部を安静にという指示を受けていた。
 勿論部活は休まねばならなかったのだが、左利きの彼は授業にも若干の支障をきたしていた。それは当然、ノートを取る事においてだ。
 国光は右手でノートが取れない事もない。が、利き手よりも若干スピードが落ちる。
 授業のノートをこまめに取る彼は、利き手が使えない事がもどかしかった。
 そんな時、休み時間に声をかけてきた者があった。

「あの、手塚くん」

 それが隣の席のだったのだ。

「……怪我、してるの? 私のノートでよかったら、見る?」

 彼女は遠慮がちに先の歴史の授業のノートを差し出してきた。
 歴史の教師は、板書の他に口頭での説明も多く彼の授業ではいつもノートを取るのが忙しいのだ。

「ああ、すまない。助かる」

 国光は彼女の突然の申し出に少々驚きつつも、感謝の意を表してノートを受け取った。
 ぱらりと、ノートの一番新しいページをめくった。
 柔らかで丁寧な、女子にしては少し大きめの字で埋まっているそのノートは、ちょうど国光がメモを取りたいと思う説明などがきちんと記されていた。
 休み時間を使って、彼女のノートを見ながら自分のノートを補足し、そして授業が始まる前に彼女に礼を言ってノートを返却した。

「もういいの?」

 彼女は穏やかに笑ってそれを受け取る。

「手塚くん、すごいね。利き手じゃなくても、ノートとれるんだ」
「ああ、少し時間がかかるが……」

 国光はそれだけ言うと、軽く頭を下げた。
 それ以来、彼が左手を固定している間は毎回、がノートを貸してくれたのだ。
 彼女のその行為は、決して恩着せがましい風でもなく、また目立つ振る舞いでもない。国光はテニス部での活躍もあってクラスでは目立つ方であったが、彼女とノートの貸し借りをしている事を、おそらく周囲の誰も気付いていなかっただろう。貸し借りをする時にちょっとした言葉と笑顔をかわすだけの、そんな彼女の振る舞いは、国光にとって心地よかった。

 そんなある日、もうすぐ彼の左手の固定は外れるだろうという頃、理科の授業の前にが申し訳なさそうに国光に声をかけてきた。

「あの、手塚くん」

 いつものような静かな声に、いつもより照れくさそうな表情。どうしたのだろうかと、彼は、うむ、とつぶやきながら彼女を見た。

「ごめん、理科のテキスト忘れてきちゃったみたいなの。他のクラスの友達に借りに行く時間もないし、見せてもらっても良い?」

 ああなんだ、そんな事かと、国光はうなずいてみせた。
 するとはほっとしたように立ち上がって、机を彼のそれに寄せてきた。
 くっつけた机の真ん中に教科書を置いて、授業を受ける。
 今日は物理の分野の授業なのだが、は物理は苦手なのか、難しい顔をして授業を受け、教師の説明のたびにあわててノートに書きとめている。それは国光にとっては、メモをする必要のないような部分でも。彼は物理は苦手ではなかったから、そんなのやけに一生懸命な様子をなんとはなしに、ちらちらと観察していた。
 その時、ふと、彼の左腕に彼女の右手が触れる。

「あっ、ごめん」

 珍しく彼女はあわてて、手をひっこめた。
 国光はついクセで、利き手でテキストをめくったりする。
 そしてその時、一生懸命ノートを取る彼女の右手とちょうどぶつかってしまうのだ。

「大丈夫、構わない」

 国光は静かに言った。
 は恥ずかしそうにぺこりと頭を下げて、また熱心に授業に集中する。
 しかし、数分もたたぬうちに、彼女はまた『あっ』と声を上げた。

「手塚くん、ごめん!」

 小さな声で謝罪をしてくる彼女の視線の先には、国光のテキスト。
 
「つい、自分の教科書みたいなつもりになっちゃって……」

 テキストの中の図に、矢印と説明書きを、彼女が書き込んでしまったのだ。
 国光は軽く笑って彼女を見た。

「構わない。俺も、書き込みたかったんだが、ノートを取るのに精一杯で、できなかったんだ。が書き込んでくれると、助かる」

 そう言うと、彼女はほっとしたように恥ずかしそうに、そして嬉しそうに彼を見て笑うのだった。

 そんな事があった次の日、めでたく彼の左手の固定は外れ、少し痛みは残るが自由に動かせるようになった。
 そして彼女からノートを借りる日々も終わった。
 助かったし、とてもありがたかったのだと、国光はに何か改めて礼をしたいと思い、手渡そうと用意したちょっとした物があった。
しかし、固定の外れた彼に、『あ、動かせるようになったんだ、よかったね』とさらりと笑う彼女を見ていると、どうにもいつも通りの礼の言葉を述べる以上に何もできなかった。
 それは、何と言ったら良いのだろうか。
 国光は、自身がいろんな意味でクラスメイトから注目されているのは自覚していた。そして彼自身の意向に関わらず、女子生徒からも注意を向けられているのを知っている。国光は必要以上の事を女子生徒と話したり、交流をするタイプではなかったが、自分がそういった立場にある事は十分わかっていたのだ。
 そんな彼が、に親しげに接したりすれば、きっとはクラスメイトからの注目を集める事になってしまうだろう。この、いつも静かに楽しげにすごしている彼女が。
 だから、国光はいつもどおりの礼を一言伝るだけで、彼女とのノートの貸し借りを終えた。
 そして、彼女はそれまでどおり、特に用事がある時以外はなにも国光に話しかけたりはしない。
 理科の授業の時、ぱらぱらと教科書をめくると、いつもそこでついつい手が止まる、が書き込みをしたページ。
 あの時の彼女の真剣な顔と、そして恥ずかしそうな笑顔。彼女とぶつかりあった左腕。
 それが頭に浮かぶたびに、鞄の底に入れっぱなしの、彼女に手渡すはずだった物の存在を思い出すのだが、彼が部活を再開する頃まもなく席替えとなった。
 そして、彼の鞄の底にあったものも、いつしか自室の机の引き出しの中へと静かに収まっていったのだ。

***********

 三年生になって改めて間近で見ると、はひどく大人っぽくなったような感じがした。勿論国光自身も第三者から見ると相当身長も伸びたし大人びたと思われるだろうが、彼女を見ていると、国光はあの頃に先輩と口論をしていた子供じみた自分に戻ったような気分になってしまう。
 そして、彼女だけが、大人の女性になっているような気になる。
 身長も髪もあの頃より伸びたは、女性らしい美しさが増し、当時からの大人しい印象に加え、落ち着いた雰囲気を感じさせるようになっていた。
 それでいて、話す時に少し恥ずかしそうに笑う様なんかは、当時のままだ。
 今や、テニス部の部長を務めるようになった国光は、おそらく一年の頃よりもクラスメイトと会話をしたり、人と接するのもそつなくこなせるようになっている。
 それなのに突如甦る、未熟で不器用な自分自身に、国光は若干の戸惑いを感じた。
 そして今ではすっかり忘れていた、机の引き出しにしまいっぱなしの彼女に手渡し損ねたものを思い出し、更に戸惑うのだった。

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2007.10.17




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