昨日までとは打って変わって晴天の空の下、俺たち青学テニス部を乗せた列車は暢気に走っていた。
これから、千葉の六角中との合同合宿に向かう。
車窓からの景色は、検見川・稲毛を越えて千葉大を通り過ぎ、少しずつ千葉らしい長閑な雰囲気へと変わって行くが、俺の手元の文庫本は一向に読み進まない。
早く到着して身体を動かしたいと、俺はジリジリした。
周りの奴らは楽しげに菓子を食ったりしゃべったり、この小旅行を楽しんでいた。
俺はあまりしゃべりたい気分ではなかったので、乾先輩と向かい合わせの席を選んだ。
乾先輩も俺と同様、静かに手元に目を落としているが、俺と違うのは先輩の手元はどんどん動いていて、本やノートのページが次々めくられているという事だ。
「……海堂、どうかしたのか? 本、ぜんぜん読み進んでないな」
俺が何気なく乾先輩の手元を見ていると、先輩が突然に言った。
俺はびくりとする。
「あ、ああ、いや、慣れないモン読んでるんで……」
俺があわてて適当にページをめくると、乾先輩はふっと笑った。
「『阿房列車』か。面白いの読んでるな。でもその分じゃ、まだ大阪にも到着していないだろう?」
昨日の薦めで図書館から借りてきた内田百閧フ紀行文は、乾先輩の言うとおり、乗車券を買うくだりからまったく進んでおらず、俺はあまりの図星に照れくさくて思わずそっぽを向いて窓の外を見た。
俺が返事をしないでいても、乾先輩は特に気分を害したようでもなくまた自分の作業に没頭してゆく。
本がつまらないわけじゃない。
電車が嫌いなわけじゃない。
今の俺には、こういう時間は最悪なのだ。
考えないようにしようとしている事がどんどん勝手に頭で広がってゆくような、こういう宙ぶらりんの時間は。
俺が列車の窓から流れる景色を見ても、手元の本を見ても、頭の中に広がるのは昨日のの熱、そして別れ際のあの驚いたような呆れたような顔。
多分、彼女は怒ってはいないし、俺を拒んだわけでもないとはわかっている。
けれど……俺が頭の中で何度もイメージしたのは、あんな風なやり方じゃなかったはずなんだ。もっと余裕を持った、優しいやり方。
あれじゃあ、俺が逆ギレしたみたいじゃないか。
焦るなといつも自分に言い聞かせているのに、やはり今回も焦っていた。
今日から晴れた日が続く。
合宿に、全国大会。
ひとつの傘の下で、の髪が手に触れてくすぐったい思いをしながら歩く日は続かないと、ここ最近の俺は少しずつ焦っていたのだ。
太平洋高気圧がやってくる前に、俺は彼女にきちんと触れておきたかった。
二人の間の確かなものを、確認しておきたかった。
ほんの一瞬、かすったくらいにしか触れなかったの唇の柔らかく甘い感触は、とてもリアルに俺の中で甦る。
あまりに柔らかくて、暖かくて、驚いてしまったのだ。
何度も頭の中で繰り返し練習していた手順なのに、実際の彼女の唇は想像していたよりもずっと俺には衝撃的で、あんな風に飛びのいて走って逃げてしまった。
俺は本を閉じて、乾先輩に聞こえないようにため息をついた。
あの後、は一体どんな事を思っているだろう。
俺のした事は、彼女に何を残しただろう。
ガキみたいなやり方に呆れただろうか。
あまりに一瞬のバカみたいなやりかたで、印象にも残っていないだろうか。
それとも、俺のように何度も思い返してくれているだろうか。
俺はブンブンと頭を振った。
チクショウ、この俺がなんだってこんなうじうじした考えを繰り返しているのだろう。
合宿が終わったらまたそのうち会って、一言話せば良い。
きっと顔をあわせれば、彼女は俺を落ち着かせてくれる。
とにかく、俺は太陽の下で早く体を動かしたい。
何も考えられなくなるくらい、へとへとになるくらい、身体を動かしたい。
さて、わざわざ俺が切望するまでもなく、現地に到着早々俺の願いは実現した。
六角中が使っている広々としたトレーニング場での、特別メニューでのプログラム。
俺は誰よりも精力的にメニューをこなしていった。
「海堂、電車の中では元気なさそうに見えたが、調子良いじゃないか」
メニューを作成した乾先輩はご満悦気味に言う。
「当然っスよ、全国大会を控えてるんスからね」
俺はほんの少ししゃべったりする時間さえも惜しんで、次のメニューへ取り組んだ。
気がついたら夕暮れで、飯・フロと続く。
やっぱり体を動かすのは良い。
電車に乗っていた時の、数十倍ものスピードで時間が過ぎてゆくような気がする。
俺はできればこのまま眠ってしまいたかったのだが、雑魚寝の部屋ではまだまだ部の奴らが騒がしくて、眠らせてもらえそうにない。
仕方がないので、文庫本を持って食堂に行った。
食堂では六角の連中がなにやら楽しげに話していた。
俺はひとつ離れたテーブルに麦茶を持ってきて飲みながら、文庫本に目を落とす。
落ち着いて読んでみると、一文無しで暢気な文豪の紀行文は、なかなかに面白かった。
「バネさん、ついに彼女とチューしたんスかー!!」
ようやく本に没頭しかけた俺の耳に、葵剣太郎のすっとんきょうな声が飛び込んできた。
俺はつい顔を上げる。
「バーカ、それくらいでいちいち騒ぐなっつうの。お前とは違うんだよ」
バネさん……黒羽春風の得意げな嬉しそうな声が続いた。
俺は本を読むふりをして、ついチラチラと奴らの話に耳をそばだてる。
「へえ、上手くいってるみたいでよかったね、バネ」
そして佐伯さんの落ち着いた声。
「へへ、まあな。今日から合宿だし、これから全国大会で忙しくなるし、ここらでちょっとキメとかないとな、やっぱり。昨日、ガツンといったところだぜ」
「いいっスねえ、バネさん〜!」
葵は相変わらず裏返った声を出してもだえる。まったく相変わらずガキくさいやつだ。
「ふうん、昨日ねぇ」
ふふっと笑うように佐伯さんの声がかぶさった。
「……良いような悪いようなタイミングだね、バネ」
声の調子は変わらないのに、そしてその優しげな表情も変わらないのに、佐伯さんの口調には何かやけに面白がるような、そんな匂いがした。こういうところ、ちょっと不二先輩に似てるんじゃねぇか……。
俺はドキリとしながら、耳を傾け続けた。
「何だよ、悪いようなって……」
俺と同様に思ったのか、バネさんの不安そうな声が響く。
「だってさ、バネ。そういうのって、二度目が大切なんだよ。昨日、キスしたところなんだろ。今日からしばらく会えないって……」
佐伯さんはクスクスと笑った。
「そうやって間を空けちゃうと、彼女を不安にさせちゃうし、場合によってはなかった事にもなっちゃうしね」
佐伯さんの言葉に、俺は思わず顔を上げた。
バネさんは深刻な顔で佐伯さんを見ている。
「へええ〜、さすがサエさん、いろいろ知ってんな〜」
葵は暢気な声を上げた。
「マジかよ!」
バネさんは大声で怒鳴ると、立ち上がった。
「俺、ちょっと、今から会いに行って来るわ!」
そう叫ぶと、バネさんは携帯を手に掴みそのまま走って食堂を出て行った。
俺は驚いて彼の後姿を見送りつつも、『がんばれ、バネさん』と心でエールを送った。
そして、俺も他人事ではないのだ。
ゆっくり本を閉じると、佐伯さんと目が合った。
「……ふふ、悪いね。本を読んでるトコ、騒いじゃってさ」
俺はすぐにでも寝室に携帯を取りに行きたかったのだが、ごくりと麦茶を飲んで何でもないように佐伯さんを見た。
「あ、いや、別にいいスよ」
「海堂さんて、彼女いるんスか!」
そしてまた勢いよく尋ねて来るのは、葵剣太郎。
「いや、まあ、いるっつうか……いるけど……」
「ああー、いいっスねえ〜、やっぱりキレイな人なんですかあ? 俺、なかなか彼女できないんですよ〜」
クソ、相変わらずギリギリのところで絡んでくる奴だ。
俺はしばらく、葵と佐伯さんと下らない話をして、そして頃合を見て寝室に携帯を取りに走った。
今頃、バネさんは彼女と会っているのだろうか。
走っていけば会えるところにいるのが、うらやましい。
俺は携帯の画面で、のアドレスを開いた。
しばし悩んでから、メールの画面を開く。
電話をするには、少々時間が遅くなってしまったからだ。
『合宿が終わったら、また図書館に宿題をやりに行かないか』
俺は悩んだあげく、そんな一行を打って、何度も何度も読み返してから送信した。
送信してから、当然俺はなかなか寝室には戻れない。
返信がないか胸をジリジリと焦げ付かせながら、宿舎の外に出た。
高気圧に覆われてすっかり晴れ渡った夜空には、沢山の星が広がっていた。
そんなに遠くに来たわけでもないのに、東京よりもだいぶ空が澄んでいるような気がする。
俺は大きく深呼吸をして、玄関の明かりで本を読もうかと文庫を広げた瞬間。
電話が震え出した。
あわててメールの着信を確認すると、からの返事。
『天気が良くて何よりね。私は明日から、母親のおつかいで長野のおばあちゃんの家に行きます。来週には帰ってくるかな。海堂くんの練習の合間に、また図書館行くのを楽しみにしてます』
彼女の返信は、まったくいつもどおりの雰囲気だった。
ほっとしたのと同時に、俺はぎょっとする。
長野?
俺が東京に戻っても、はしばらくいないのか?
走って会いに行けるバネさんとは大違いだ。
俺は、焦ったって仕方がないと分かっているのに、クソーッとつぶやいて頭をかきむしってしまった。
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2007.8.10