翌日、合同トレーニング中のバネさんは元気一杯でご機嫌のようだった。
きっと昨夜の脱走デートは上手く行ったのだろう。
俺はというと、とにかく余計な事は考えないように練習に集中する。
なんだかんだ言って、こうやって一日トレーニングをしていられるのは練習好きの俺にはとにかく楽しくて充実していた。
もうすぐ全国大会だ。
俺は二年生になって、改めて思う。
トレーニングをする事っていうのは勿論肉体や技術を磨くものであるけれど、自分の『こころ』の状態を常にピリピリとした物にしておくために、俺にとっては必要なのだ。
俺は負けない。
俺は諦めない。
負けることを恐れない。
俺は生まれ持った特別の才能があるタイプではないけれど、そうやって気持ちを集中して高めてゆく事にかけては自信があった。
そこが俺の長所で、トレーニングを重ねて行く事で、それはどんどん磨き抜かれてゆくはずだ。
合宿所での就寝前、この日も本を広げてみるのだが、やはりなかなか読み進まない。
やる事がなくなると、どうしてもの事を思い出してしまうから。
本を読み進めさえすれば彼女にその感想なんかをメールできる、と考えるのにそれでもどうしても集中できないのだ。
クソ、テニスの事ならあんなに集中できるのに、トレーニングが終ってしまえばこのザマなのか。俺はつくづく、ガキなのかもしれないなとため息をついた。
その時、俺のポケットの携帯が震えた。
からのメールだった。
俺はドキリとして画面を開く。
『今日、長野に着きました。すごく涼しくて気持ちいいよ』
それだけの文章なのに、俺はの声や表情を思い出しながらじっといつまでも見つめる。
返信するのが惜しいような気がして、ずっと彼女のメールの画面を開きっぱなし。
だって、俺はとにかくメールをつなげるのが下手で、大概いつも俺の返事で終らせてしまうからな。
俺は考えに考え抜いて、こんな返事をした。
『よかったじゃねーか。風邪ひくなよ』
何度も推敲を重ねた上、送信した。
俺にしては少々愛想の良すぎるメールで、非常に照れくさい。
しかし、案の定それ以上彼女からの返信はなくメールのやりとりは終わった。
まあ、もあっさりしている方なのでいつもの事なんだが。
いつも通り。
『場合によっては、なかった事にもなっちゃうしね』
佐伯さんの言葉が蘇った。
俺は頭をブンブンと振って、その悪魔のささやきを振り払う。
は落ち着いた女だ。
きっと、ちょっとやそっとの事じゃ動じない。
だから、普段どおりのメールのやりとりになるのだって、当然の事なんだ。
俺がこんなにうろたえていてどうするんだ。
自分に言い聞かせ本に集中すると、紀行文の中の作家はようやく切符を手にして列車に乗る事ができたのだった。
六角との合宿を終えて、俺たちは日焼けした肌をヒリヒリさせながら帰りの列車に乗った。帰ったら、また練習だ。
夕暮れ時に川に入って手ぬぐいを振る事を想像すると、千葉での日中のトレーニングより少しは涼しいだろうな、と俺は思った。
ひとまず母親に頼まれた茹で落花生を持って帰って、今夜はゆっくり眠ろうと俺は列車の中でも目を閉じた。
はいつ長野から帰ってくるだろう。
俺の荷物の中には、母親から頼まれたより一袋余分に茹で落花生がある。
彼女が帰ってきたら、まずそれを渡すために会いに行こう。
俺は心の中で堅く誓った。
と二人で図書館から帰ったあの日以来、毎日晴天だ。
天気予報はよく当たる。
俺は心の底からほっとしていた。
のいない雨の日、今の俺がどんな気持ちになってしまうのかと思うとあまり考えたくはなかった。
そんなわけで俺は蒸し暑さをものともせず、トレーニングに励んでいた。
千葉から戻った三日後の夕方、俺が川の中に入って手ぬぐいを振っていると、川原に置いてある手荷物の上で電話が鳴った。
俺はチッと舌打ちをしてそれを取りに上がる。
飯の時間っていう家からの連絡だろうか、と画面を見るとからの電話だった。
俺はタオルで手をふいて、あわてて通話ボタンを押した。
「おう……」
「あ、海堂くん。ごめん、トレーニング中だった?」
俺のぶっきらぼうな返事も気にする事なく、のやわらかな声が受話器から俺の耳に侵入した。
あの雨の日の件はまだほんの少しの前の出来事なのに、ものすごく久しぶりに声を聞くような気がして俺は鼻の奥が熱くなる。
「ああ、でも自主トレだからかまわねーよ」
懸命に冷静な声を作って言った。
「あのね私、今、長野から帰ってきて、これからバスに乗るの。お土産買ってきたんだけど……なま物だから、よかったら……練習の途中にでもバス停に寄ってもらえる?」
の、落ち着いているけれど少し遠慮がちな声が響いた。
今朝目覚めた時は、まさか今日に会えると思ってもみなかったから、俺は急にどきまぎしてしまった。
「……ああ、かまわねーよ」
俺はそれだけ言って、バスの時間を聞くとあわてて家に走った。
急いでシャワーを浴びて、着替える。
柄にもなく、ふと何を着ようかなどと一瞬悩んでしまう。
そういえば俺は学校の外でと会う時、マトモな私服で会った事なんかないな。
制服か、トレーニングウェアだ。
けど今回も「トレーニングの途中でバス停に寄った」という設定なのだ。
いや、別にその設定どおりにする必要はないのだが、俺はに会うため服を選んだりする事がやけに照れくさくて、結局トレーニング用のハーフパンツにアンダーアーマーのウェアを着て、いつも通りバンダナを頭にきつく巻いた。
そして茹で落花生の袋をつかむと、バス停に走った。
当然俺はバスの到着時間よりも早めに着いてしまい、トレーニングウェアで茹で落花生の袋を手に携えるという間抜けな姿でベンチに座るに事になる。
蚊に食われないようにするのが一苦労だった。
三匹ほど蚊をやっつけた頃、駅からのバスがやってきた。
降車扉が開くと同時に、が飛び降りてきた。
「お待たせ!」
そう言うと嬉しそうな顔で俺の前に立った。
オフホワイトの涼しげなワンピースに薄手のカーディガンを羽織って、まさに夏休みの女の子という感じだった。
本当に待ったぜ。
俺は心でそうつぶやいて、落花生の袋を差し出した。
「千葉のお土産? ありがとう、嬉しい。茹で落花生って美味しいよね」
彼女はそう言って受け取ると、それと引き換えに俺に紙袋をよこす。
「これ、長野のブルーベリー。無農薬よ。すごく美味しかったから海堂くんにも食べてもらおうと思って買ってきた。冷凍しても美味しいよ」
紙袋の中には、小分けのプラスチックパックに入った見事な粒のブルーベリー。
「おう、サンキュ」
俺はそれを受け取って、そしてのもう片方の手のボストンバッグも奪い取った。
彼女は不思議そうな顔をする。
「荷物、重いだろ。家まで送る」
「練習はもういいの?」
「ああ、もう終ったトコだから」
俺たちはいつもの道をゆっくり歩いた。
「長野の、どのあたりだったんだ? ばあちゃんの家って」
「大町のあたり。白馬よりもちょっと東京寄りのとこよ、わかる?」
「ああ、前、スキーに行く時通った事あるな」
「それにしても海堂くん、焼けたねー」
「昼間っからずっと外でトレーニングだったからな。もちょっと焼けたんじゃねーの」
「うっそ、日焼け止め塗ってたのに」
そんな他愛無い事を話しながら歩き続けた。
しかし雨が降ってないと、俺と彼女の距離は微妙に遠い。
今までは毎回雨に感謝していたけれど、俺はふいに自分の気持ちを左右する雨が憎たらしくなった。
オイ、別に雨なんか降ってなくてもなあ、海堂薫はなあ!
俺はの荷物を持ったまま、早足になる。
「どうしたの?」
が俺の後を追いながら、不思議そうに尋ねてきた。
「ブルーベリー、食って行こうぜ」
俺はよく学校帰りにと立ち話をする公園に寄った。
ベンチに荷物を置いて、水道でブルーベリーを丁寧に洗う。
「ふーん、海堂くん、ちゃんと洗うんだ」
それを背後から見てがつぶやく。
「いや、だってフツー、野菜や果物食う時、洗うだろ?」
「男の子って、あんまりそういうの気にしないのかなーって思ってた」
そう言ってクスクスと笑う。
合宿中、よく皆でトマトをもいで食べたりしていたのだが、一人念入りに洗ってから食べていた俺はしょっちゅう六角の連中に笑われたもので、ふとそれを思い出して少々ムッとした。
水を切ったブルーベリーの入った容器をベンチに置いて、俺とはそれを挟んで座る。
「ごめんね、からかったわけじゃないの。海堂くんはきれい好きだなーって、感心してるだけ」
俺がよっぽど不機嫌そうな顔をしていたのか、はあわてて言った。
「別に怒ってるわけじゃねーよ」
俺は照れ隠しにまたぶっきらぼうに言って、ブルーベリーを一粒つまんで口に入れた。
少しすっぱいけれど、甘くて深い味がする。
「美味いな!」
俺が言うと、は嬉しそうな顔で俺を見た。
「そうでしょう? あとの2パックは家に持って帰ってね。ヨーグルトと混ぜたりしても美味しいよ」
「も食えよ」
「うん」
俺たちは薄暗くなりかけた公園で、しばらく黙ってブルーベリーを食べつづけた。
「合宿、楽しかった?」
「ああ」
言われてみて、俺は毎晩の事を考えては、やきもきしていた事を思い出す。
『悪魔のささやき』を聞いて以来、一刻も早くに会いたいと思っていた事も。
そして、突然そんな俺の前に現れた。
合宿の初日の夜、バネさんは彼女に会いに行って何て言ったんだろうな。
聞いておけばよかったと、俺は少々後悔した。
今日は絶対に、このまま帰るわけにはいかない。
これで帰ればこの前の雨の日の出来事は、あのまま溶けてしまう。
そして、この夏の日差しで蒸発していってしまう。
けれど、何も言葉は思い浮かばず、二人の間のブルーベリーはどんどんなくなってゆく。
俺が最後の一粒に躊躇していると、は迷わずそれをつまんでぱくりと食べた。
「これ、捨ててくるね」
空になった容器を持って立ち上がろうとする彼女の腕を、俺はつかんで止めた。
「俺が捨ててくるから、は座ってろ」
険しい顔で言う俺をは不思議そうに見たけれど、そのまま俺の言うとおりにした。
俺はゴミ箱に容器を捨てると、指先にかすかにこびりついたブルーベリーの果汁を水道で丁寧に落とす。
そしてハンカチで手を拭くと、の隣りに座った。
彼女はじっと俺を見上げていた。
そう、俺には分かっている。
は落ち着いているけれど、でも不安じゃないはずがない。
きっと、この数日間。
男の俺が、彼女を不安にさせていて良いワケがねー。
「なあ、。俺は、雨が降らなくても……」
俺は言って、膝の上で拳を握り締めた。
その後の言葉が上手く出てこない。
「……雨が降らなくても、なあに?」
しばらくの沈黙の後、は静かな声で俺に聞き返した。
その表情は優しくて、ああそうか言葉の続きを探す必要なんかないのだな、と俺は急にふうっと落ち着いた。
俺はの顔を覗き込むようにして、ゆっくり唇を重ねる。
同時に彼女は静かに目を閉じた。
彼女の唇からは、自分の口の中と同じブルーベリーの味がした。
長野の太陽を浴びたブルーベリーの甘さは俺と彼女の境界線を曖昧にし、やわらかに溶け合わせる。
俺は相変わらずとんでもなくドキドキしてはいるのだけど、この前のように弾かれたりはしない。
ゆっくりと顔を離して、蚊に食われた足をぼりぼりと掻いた。
「雨が降んなくても……大丈夫だ」
俺がボソッと言うと、は少し顔を赤くしてうつむきながら本当に嬉しそうに笑っていた。日焼け後でヒリヒリしている俺の顔や首筋は急に熱を持つ。
俺はもうちょっと何か彼女に気の利いた言葉を言ってやりたいと思っているのだが、それを邪魔する奴がいた。
「クソッ…キンカン持ってねえか?」
何箇所か蚊に食われた足を掻きむしっていると、は笑ってバッグからキンカンを出して俺に貸してくれた。
俺の体温は、よりも相当高くなっていたらしい。
どんどん蚊が寄ってくる。
「……帰るか」
キンカンを塗りたくってピリピリした足をばたつかせてから、俺はの手を取って立ち上がった。
雨の日じゃなきゃ、蚊、と来たか。
オウ、上等じゃねーか。
海堂薫をナメんじゃねー。
俺は雨なんかに頼らねーし、太平洋高気圧も、蚊も気にしない。負けはしない。
そんな俺でも、の手についているブルーベリー果汁は少々気になったので、彼女の手を引いてそのまま水道で洗うと、彼女はまたおかしそうに、でも幸せそうに笑うのだった。
(了)
「恋の予想天気図」
2007.8.11