恋の予想天気図(1)



 本格的に夏休みに入った八月。
 我が青春学園のテニス部は関東大会で優勝を飾り、全国大会への出場が決まった。
 そしてその全国大会までの期間、私は天気予報といつもにらめっこ。
 雨が降れば、海堂くんと図書館で夏休みの宿題をやる事になっているから。
 それが私と彼の、ささやかな夏の逢瀬。

 その日は朝から雨で、開放されている学校の図書館に二人で待ち合わせた。
 二人で同じ科目の宿題に取り組み、早くできた方が遅い方のひっかかっているところを教えあう。男の子とそんな風に勉強するのは初めてで、それでもそれは思っていたよりも楽しいしなかなかはかどるやり方で、私は彼とそうやって過ごすのが好きだった。
 時に、海堂くんと町に出て買い物に行ったりしてみたいなと思う事もあるけれど、でも静かに二人で過ごすのが、私たちには合っていると思う。
 そして雨の日に彼と会う事の楽しみのひとつは、その勉強を終えた帰り道。
 勿論私も傘を持っているのだけど、帰りはいつも海堂くんの傘に入る。
 この時だけは、私が彼のすぐ隣を歩いて手や肩が触れても、彼は照れずに一緒に歩いてくれるから。
 彼と一緒に歩けるなら、どんなに肩が濡れても、ふくらはぎに泥が跳ね上がっても、かまわない。

「へえ、明日から合宿なの? 千葉で? いいねえ」

 今日も図書館の帰り道、彼の掲げる傘の下で私たちは話をしながら帰った。
何でも彼は明日からテニス部の合宿なのだそうだ。
 部活動に所属していない私からすると、運動部の合宿なんて想像もつかなくて、なんだかとても楽しそうで他人事なのにわくわくしてしまう。
 きっと海堂くんの事だから、ものすごく真剣に充実した日々を送るのだろう。
 
「六角中のヤツと合同なんだ。ホラ、が見に来た試合、関東大会で俺たちと当たってただろう?」

「うん、覚えてる。なんだか元気の良い楽しそうな人たちだったね」

「ああ、いい奴らだ」

 私たちはそんな風に話しながら家路についた。

「今朝、天気図見たけど、太平洋高気圧が来てるんでしょ。きっと明日からは当分晴れるね。合宿から全国大会まで、きっと天気良いわ。よかったね」

 私は夏の真っ青な空と高い雲を想像して、少しワクワクした。
 けれど海堂くんを見上げると、思いがけず浮かない顔。
 全国大会をひかえて緊張しているのだろうか。
 でも、きっと彼は大丈夫。いつも努力している人は、それが支えになるから。
 そんな事を思いながら、私は自宅の玄関の前で足を止めた。

「じゃあ、合宿、気をつけて行ってきてね」

 そして彼の傘から出て、自分のアイボリーの小さな傘を開いた。
 ここで自分の傘に入って、彼が帰って行くのを手を振って見送るのが私の習慣。
 けれど、今日は彼は浮かない顔のまま、なかなかその場を去ろうとしなかった。
 私が少し不思議に思って、傘をさしたまま彼を見ていると彼は自分の傘を広げたまま、それを地面に放った。
 そして次の瞬間、体をかがめて私の傘に入って来ると、傘の柄を持っている私の手の上からぎゅっと力強く傘を握り締めた。
 彼はその勢いのまま、私の顔を覗き込んでふわりと、私の唇に彼のそれを重ねる。
 私に、目を閉じる余裕も与えないまま、すぐに彼は私から離れて自分の傘を拾った。
 傘の下からのぞく表情は、眉間に皺をよせて眉の端を吊り上げた、怒ったような不機嫌そうな顔。
 でも、彼が怒っているわけじゃない事くらい私には分かる。
 これは、彼が最高に照れている時の表情だった。
 そんな険しい顔のまま、彼は私に向かってちょいと頭を下げると、水たまりの水を跳ね上げながら走って行った。

 私と彼の初めてのキスは、こんな具合にあっという間の早業だった。



 私は足元の汚れをシャワーで落とした後、自分の部屋で着替えをした。
 私の唇にはさっきの余韻が残ったまま。
 海堂くんの唇は、思ったより柔らかくて、あったかかったな。
 時間がたつにつれ彼とキスをしたんだという実感がわいてきて、照れくさくなってくる。
 彼が自分の傘を放って、そしてまたそれを拾うまで多分ほんの数秒。
 私と唇を合わせていた時間なんて、瞬きをする間もなかったと思う。
 なのにその瞬間の出来事は、スローモーションのように、何度も何度も私の頭の中で勝手に再生が繰り返されるのだ。
 私の唇、皮がむけてたりガサガサしてなかったかな。
 そんな事を考えては、また一人、照れくさくてソワソワしてしまう。


 どうして彼が突然にあんな事をしたのか?
 私は、彼の考えていた事がわかるような気がする。
 だって。

 もうすぐ太平洋高気圧がやってくる。
 明日からはきっと晴天の毎日だろう。
 そして明日からの合宿、その後の全国大会。
 今年の夏は今まで雨が多かったけれど、夏休みの私たち、これからは多分今までみたいには会えない。
 彼はきっとそれがわかっていて、ここしばらくでは最後になる雨の日の今日に、勇気を出してくれたのだろう。
 彼の気持ちはとても、よくわかる。
 そしてそれは私の胸を、ぎゅうぎゅうと締め付けるように熱くした。

 わかるのだけど、でもやっぱりそれは男の子の発想だ。

 私は、自分の部屋の窓から外を眺めた。
 海堂くんはわかっているのかしら。
 明日からしばらく会えないという事の意味を。

 私は海堂くんのあのふっくらとした唇の柔らかい熱を思い出しながら、自分の唇をなぞった。
 学校のある時期なら、また明日会える。
 少しばかり照れくさくても、顔を合わせて話ができる。
 そして、お互い戸惑いながらも、きっと今日みたいな事は少しずつ私たちの日常に現実として溶け込んでゆくのだろう。
 でも、こんな余韻を私に残したまま会えない日が続いたら、どうなる?
 私に限らず、初めての恋を不器用につむいでいる中学生は、きっとみんな多少なりとも不安になるに違いないと思う。

 あれは、その場の勢いでのまちがい?
 ちょっとした気の迷い?
 きまぐれ?

 そんなはずはないと思っていながらも、きっと時間がたつにつれ、悪魔のささやきが聞こえてくるのだ。すでに、今だって。
 私も彼も、まめに連絡を取り合う方じゃない。
 だから私はこれからの自分の、ドキドキするような甘い不安を伴う日々が容易に想像できた。
 
 だけど海堂くんも、私と同様きっと手負いのまま合宿へ行く。
 彼は……男の子は、こんな事の後、一体どんな気持ちで過ごすのだろう?
 私には想像がつかなかった。

 合宿では、彼が昼間の太陽の下で私の事をすっかり忘れるほどに練習するといいなと思う。
 そして、夜、寝る前にほんの少し私の事を、私とした事を思い出して胸を焦がすといいなと思う。

 外は雨がやんで、空は晴れ渡ってきた。

 甘い痛み、甘い不安を抱えて、彼との次の逢瀬を待つ夏の過ごし方も悪くないかもしれないと私は自分で自分に言い聞かせながら、また唇を指でなぞった。

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2007.8.9




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