恋の大予言(1)



 初めて彼女を見た時、ああ『キレイなおねーさん』だなと思った。
 そんだけ。
 だって、そんなもんっしょ。
 三年生の教室にまぎれこんだ二年坊主の考えることなんて。

 俺は立海大付属テニス部の噂の二年生エースで、しかしながら二年生なんで、やはり三年生の先輩のところに走って行ってお伺いをたてなきゃなんねーことなんて山ほどある。特に行くことが多いのは、やはり副部長の真田先輩のいる教室。今、幸村部長は病気療養中で休みだから、部の事は実質的には真田副部長が取り仕切っている。ちなみにこの副部長、テニスのことだけじゃなくて俺のテストの成績だとか普段の生活態度とかにもウルサくて、俺はいつもしかられてばかり。だから、真田副部長のクラスに行くのはまったく憂鬱なのだ。
 そして真田副部長のクラスに行くのと同じくらいの頻度で俺がお邪魔するのは、ジャッカル先輩のクラス。
 この先輩はほんと、いい人なんだ。俺、大好き。
 もちろんジャッカル先輩もよく俺をしかるけど、なんだかんだで俺の愚痴も聞いてくれるし、ちょっとしたわがままを聞いてくれたりもする。俺はそういう人をかぎわけて懐に入り込むのが上手いっつうか、まあそういう末っ子タイプなんで、よく真田副部長にしかられてはジャッカル先輩のところに愚痴を言いにいって、時には更にしかられたり時には慰められたり、そんな具合に仲良くしてもらっている。



 その日の俺は真田副部長にしかられたとかそんなんじゃなくて、俺の緊急事態の用件を抱えてジャッカル先輩の教室へ走った。
 ジャッカル先輩の教室の、廊下に面した前の入り口に近い方の窓をがらっと開けてジャッカル先輩の姿を探す。確か廊下から三列目の前から三番目あたりが先輩の席。
 しかしそこには見知らぬひょろっとした男。
 俺が窓を開けるとすぐに目に付く窓際の席の、いつもジャッカル先輩を呼んでくれる眼鏡をかけた優しい女の先輩もいなかった。
 どうやら席替えをしたようだ。
 俺はきょろきょろと教室を眺め回した。
 ジャッカル先輩はあのとおり目立つ風貌だから、すぐ見つかるはずなんだが。
 ていうか、見つかってくれないと俺は困るんだ。
 俺が迷子のガキみたいに焦った様子できょろきょろしていると、いつもの眼鏡の先輩が座っていた席に、英語の辞書を持った女の人がやってきて腰をおろした。
 すらりと背の高い、きれいな人だった。
 でもこの場合、彼女がきれいだとかきれいじゃないとかは俺にはどうでもよくて、俺は必死で彼女に声をかけた。
「あのっ、スイマセン、ジャッカル先輩いますか?」
 見渡したところいないのはわかってんだけど、どうにも焦った俺はそんな風にしか言えない。休み時間のざわざわとした空気の中、俺の声はきちんと彼女に伝わってはいるようで、彼女はふと顔を上げた。
「ああジャッカルなら、今日は日直だから配布物を取りに職員室にでも行ってるんじゃないかな」
 彼女は見るともなしに辞書をぱらぱらと指でもてあそびながら俺に宣告した。
「マジすか! あああー、俺、終ったー!」
 俺はもじゃもじゃ頭をかきむしって思わず叫んでしまった。
「えっ、どうしたのよ」
 彼女は少々驚いたように辞書を机に置いたまま、体を俺の方に向ける。まあ驚くのも無理はない。だって突然やってきた二年生が、終ったー! なんて悲壮感たっぷりに叫んでいるんだから。
「……いや、その、今日までの英語の提出課題、俺すっかりやってくるの忘れちまって、俺この前の中間テストの点も最悪だったから、これミスるとめっちゃヤベーんすよ。補習確実っつうか……。そうすると、これまた副部長にどんだけしかられるか……」
 俺は思わずその見知らぬ先輩にとうとうと語ってしまう。
「クラスの友達に見せてもらえばいいじゃない」
 彼女は淡々と言った。
「そうなんスけどね。俺のツレ、バカばっかりであてになんねー。休み時間中に確実に間違いなく完成させるには、ジャッカル先輩の手を借りるしかないんスよ! なのにこんな時に限っていねーだなんて!」
 きいい! と俺はまた頭をかきむしる。と、彼女の机の上の英語の辞書が改めて目に入った。
「先輩!」
 そして俺は窓からぐいっと教室の中に身を乗り出した。
「先輩、英語得意っスか!」
 俺の言わんとすることを察してか、彼女はちょっと身構えたような困ったような顔になった。
「えー、正直言って苦手。っていうか、私もバカなんだよね」
「けど、三年生っしょ!? 俺よりはマシなはず!」
 俺はそのまま、ひょいっと窓を乗り越えて教室の中に飛び込み、彼女の机に身を乗り出した。
 その俺の突然の行動に、彼女は呆れたようにちょっと口を開けたまま顔を上げる。
「この、英作文スよ! もう俺、ぜんぜんお手上げ! お願い、教えて下さい!」
 俺がプリントを広げて両手を合わせると、彼女はええーっと困ったように声を上げながらも、パラパラと辞書をめくるのだった。
 その辞書には、『』と、名前が書いてあった。

 しかし、俺は本当に人に頼みごとをするのが上手い。
 というか、なんとか聞き入れてくれそうな人を嗅ぎわけるのが上手い。
 あの先輩は、辞書を引き引き四苦八苦しながらもなんとか俺の課題を手伝ってくれた。休み時間が終るぎりぎりになんとか完成し、俺は結局自己紹介もしないまま礼だけ言って、また窓から飛び出して廊下を走って自分の教室に戻ったのだった。俺は大体がいつもこんな風にギリギリだから、廊下を走るところを真田副部長に見つかってはまたしかられるんだが、今回は見つからずにラッキー。授業にも間に合って、無事課題を提出する事ができた。
 ああ、あの先輩に感謝。
 ていうか、ジャッカル先輩、ちゃんといてくれよな。
 なんて勝手な事を思いつつ、その日は補習の心配なしにゴキゲンに部活にいそしむことができた。



 そして、俺が再度ジャッカル先輩の教室を訪ねたのはその翌週。
 ガラガラッといつもの窓を開けると、あの先輩は近くの席の友達と楽しげにおしゃべりをしていた。廊下に背を向けた彼女は、ちょっとの間俺に気づかない。おしゃべりの仲間から、、と呼ばれているのが聞こえた。うん、あの辞書に書いてあった名前、『』センパイ、でいいんだ。そんなことを考えていたら、彼女ははっと振り返って俺を見た。
「ああ、ジャッカル? ジャッカルは……」
 彼女が言いかける前に、俺はくしゃくしゃのプリントをポケットから取り出して彼女に見せた。本日返却された、この前の提出課題だ。
「先週、どうもありがとうございました。なんとか補習まぬがれたっス」
 俺は言ってぺこりと頭を下げた。
 やっぱ、礼はちゃんと言っとかねーとな。
「あ、そう。よかったじゃん。私がやったとこどうだった?」
 彼女は俺の手からプリントを取り上げて、赤の入ったそれをまじまじと見た。
「……ううーん、結構減点されてる……ショックゥ」
 彼女が英語苦手って言ってたのは、謙遜でもなんでもなくそのとおりだったようで、彼女が四苦八苦して書き上げてくれた英作文は、まあ俺が自分でやったりツレのを丸うつしするよりはだいぶマシってくらいのモンで、容赦なく赤が入っていたのだ。
 彼女は大げさに天井を向いてためいきをついた。
「いや、いいんスよ。これくらいの方が俺の提出課題らしくてリアリティがあって」
「なにそれ、さりげなく失礼ね」
 彼女はくしゃくしゃのプリントをポイと俺によこして苦笑いをした。
「きみ、いつもジャッカルんとこ来てはなんやかや叱られたりしてるけど、テニス部?」
 サラサラの少し明るめの色の髪を耳にかけて、彼女は俺を見上げて言う。まつ毛、長いんだな、と思いながら俺は彼女を見下ろして答えた。
「テニス部の噂の二年生エース、切原赤也とは俺の事スよ。二年生でレギュラー。結構有名なんスけど」
「へえ、マジで? いつもジャッカルに怒られてるし、アホっぽいダメダメな子かと思ってたよ」
 からかうような彼女の言葉に、俺はめげたりしない。
「ま、勉強の方はイマイチですけどね、テニスは強いんスよ。そのうち練習でも見に来てくださいよ。課題のお礼に、ジュースくらいおごりますし」
 そして、俺だってこれくらいの社交辞令は言えるのだ。
 彼女も社交辞令的な笑みを浮かべて俺にひらひらと手を振って見せた。
 俺はプリントを丸めてポケットにしまうと、ニカッと俺らしい笑顔を残してその場を去った。
 彼女が俺の練習を見にテニスコートに来るかどうか、それはわからないけれど、気さくに話ができるキレイな三年生の先輩、というのが俺の知り合いに加わったのは悪い気分じゃなかった。



 彼女とそんな話をした、一週間後くらいだろうか。
 のど元過ぎればなんとやら、で、俺は英語の補習をギリギリの低空飛行ですり抜けたことなんかすっかり忘れ、テニスの試合に向けてのトレーニングに夢中になっていた。だから彼女との会話もほとんど忘れかけていたのだけれど、その少々蒸し暑い日の放課後、トレーニングのインターバルで水でも飲みに行こうとしていたら、コートの外、沢山の見学者の女子から少し離れて立っている人が目に付いた。
 『』だ。
 フェンスから少し離れたところに一人鞄を持ったまま立っていて、帰りがけにちょっと寄ったという風情だった。
 俺はラケットを持ったまま、タオルをひっつかんでコートの外に走った。
「よっ! 見に来てくれたんスか!」
 俺が元気良く走り寄ると、彼女は目を丸くして俺を見上げる。
 彼女は長身な方だけど、もちろん俺よりは背が低い。
「うん、まあね。どんなんかなーって、ちょっと寄ってみた」
 照れくさそうに笑って言う。
 へえ。俺の気のせいかもしれないけど、教室の外だと、あんまり『先輩』って感じがしないもんだな。
 俺は得意げにラケットを人差し指の上に立ててクルクルとまわした。
「どうでした? 俺のサーブとか、結構イケてるっしょ」
「ええ? うーん、切原くんてやっぱり強いの?」
「どう思いました?」
 俺がラケットをまわしたまま聞き返すと、彼女はその回転するラケットを見たまま、少し考える。
「……ちょっと、びっくりした」
「何が?」
「だって、アホの子だと思ってたのに、あんなにテニス上手だなんて。切原くん、結構やるじゃん」
 そう言うと、ちょっと恥ずかしそうに笑うのだ。
 切原くん、と俺の名を呼ぶ彼女の声は、俺にとってやけに甘くてくすぐったかった。
 『キレイなおねーさん』だと思っていた彼女は、なんだか可愛い女の子みたいで。
 俺は末っ子で、テニス部では三年生に混じってただ一人の二年生レギュラーで、だからか知らないけどなんだか他人が俺をどう思ってるのかとか、妙に鼻がきく。そして、それは大抵の場合外さない。
 俺は予言をするね。
は俺に恋をする。
っていうか、多分もう、ほとんど惚れてる。
「赤也、でいいっスよ。俺、二年だし。ね、センパイ」
 俺がそう言うと彼女は一瞬目を丸くして、でもその視線はまたクルクルと回るラケットに戻され、そして小さな声で『赤也、か……』とつぶやくと恥ずかしそうに笑った。

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2008.2.17




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