● 純愛だけど朝帰り(4)  ●

「もっと強く来んかぁ!!」

 恐ろしい怒号と共に、吹き荒れるビンタの嵐。
 私が目にしたのはとんでもないものだった。
 夢の中でふたたび幸村くんと電車に乗って、立海大附属中に案内された私はまたもやテニス部の面々のいる校庭に向かったわけだけれど、なんと、決勝でリョーマに負けた真田副部長が、レギュラー全員から鉄拳制裁を受けているのだ!
「俺は無敗での3連覇を掲げた。幸村が戻ってくるまでな。だが昨日の関東大会決勝、ルーキーのチビ助に負けた。きっちり制裁を受けんと俺の気が済まん!」
 なんて言っちゃってね。
 ひえぇー。
 これは明日発売のジャンプに収録されてるのだろうか。
 漫画で読んだら、『真田が殴られてるの図か〜。萌え〜』なんてくらいかもしれないけど、なんかこうリアルに目の当たりにすると、あまりの壮絶さにびびってしまう!
 私は思わず幸村くんのコットンのシャツの裾を握り締めた。麻混のような感じのそれはさらりと手触りがよくて、でもこんなに握り締めてたらシワになっちゃうかなーと思いつつも、ま、夢の中だしいいかと。
「……真田はさ、そりゃもう他人に厳しいんだ。だけど、それは自分が他人の何倍もの努力をしているという自信から来ているものだし、他人に厳しく接する事すなわちそれが相手に対する礼儀だとわきまえている。そして、勿論自分自身にも厳しいし、関東大会での敗北という屈辱はきっとどれだけ皆から鉄拳制裁を受けたとしてもおさまるものじゃないだろうね」
 幸村くんは冷静な顔で、それでもじっと、部員から頬を張られる真田副部長を見つめていた。それを見届ける事が自分の義務であるかのように。冷酷なようにも見えてしまうけれど、これが部長たる者の顔なのだろうか。
「……関東大会の決勝、彼らがどんな風に負けたのか僕にはわからないけれど、きっと皆、敗戦からは計り知れない程大きなものを得ているんだと思う」
 そう言いながら、胸元のチョーカーをぎゅっと握り締めた。
 なんだか、それは彼の癖みたい。
「早くこいつらと一緒にコートに立って、全国大会で戦いたいよ」
 一見華奢で女の子みたいに綺麗な顔なくせやけにクールで、そして立海の部長っていう、いかにも一筋縄ではいかなそうな幸村くん。
 そんな彼だけど、そう言ってまぶしそうにコートの少年達を見つめる横顔は、本当に『男の子』っていう感じがした。テニプリのボスキャラ候補ね、っていうんじゃなくて、なんだか同じクラスの同級生の男の子みたい。
 だって、漫画なんだから絶対病気は治って、全国には出場に決まってるじゃない、幸村って。そうじゃなきゃ登場した意味ないでしょ。そんなに切なそうに悩まなくたってさ。
 私は心でつぶやいてみるんだけど、隣の男の子の顔を見ると私までぎゅっと胸が苦しくなって、ずっと握り締めていた彼のシャツの裾をまたまたぎゅっと握った。
「うん、幸村くん、早くテニスできるといいよね」
 お愛想でじゃなくて、なんだか本当に。
心からそう思って、つぶやいた。
 彼は何も言わずに、チョーカーを握り締めてる。
 私たちを包む空気はぎらぎらと暑くて、そういえば最初の夢では冬空の寒さや風なんてほとんど感じなかったのに今の夢では少しずつ周りの空気が現実味を帯びてきた感じ。夏の運動場の石灰混じりの匂いが、ツンと鼻をくすぐった。

 真田副部長のビンタシーンを見た後、私と幸村くんはぶらぶらと夏休み中の校庭を歩きまわった。私の学校と違って、高校と大学も附属の立海はそれはそれは広くって物珍しくてきょろきょろと見回してしまう。そんな私をおかしそうにしながらも、幸村くんはあれこれと説明をしてくれた。
「海原祭っていう学園祭があって、去年は中等部はここの建物を使ったよ。なかなか盛り上がったな」
「そりゃ、こんな大きな学校だったら盛り上がるだろうねえ、いいな」
「今年の学園祭は、さんも来れば?」
 そう言って私を見ると、くすっと笑った。
「……何?」
「いや、さんてさ、キャラクターTシャツ好きなの?」
 言われてみて私は自分の胸元を改めて見た。今日のは、おさるのジョージ。キュリアス・ジョージがバナナを食べてる柄のTシャツだ。あーあ、私はなんでまたよりによってこんなTシャツで登場してるんだろ。ま、好きなんだけどさ。
「あー、うん、まあ好きだねー」
 何も言い訳する気にもならず、力なく答えた。彼は相変わらず笑ってる。
「別にガキっぽいって言うわけじゃないんだけど、なんかさんって、従妹の小さい子とか、妹みたいだよ。『さん』って呼ぶのもなんだかくすぐったくて……ああ、って感じだね」
 男の子に下の名前を呼び捨てされるなんて多分初めてで、でもそれは決して色っぽかったり押付がましい感じじゃなくて、本当に妹や従妹を呼ぶような響き。ちょっとどきっとしたけれど、やけに自然で私はいやじゃなかったし、居心地も悪くなかった。
 彼の呼ぶ『』っていう音を反芻してみる。
 うん、悪くない。
「結局、子供っぽいって言ってるのと同じじゃん」
 だけどちょっと照れくさいものだから、そんな風に言ってみる。
 彼は特に弁明もせずくすくす笑ったまま。
 目が覚めたら、私が住んでる町の隣に立海大附属中があればいいのにな。
 そして、全国大会の試合や学園祭を見に行くの。
 我ながら恥ずかしい発想だけど、その時は本当にそう思ったんだ。
 私たちは歩きながら校舎の近くの花壇で足を止めた。
 ラベンダーが咲いていて、ほんのりいい香りがただよっていた。
「あ、だめだな。雑草が伸びてるよ」
 幸村くんはしゃがみこんで、ひとつふたつ、背の高い雑草を抜いた。
 そして、そのまま彼は座り込んだまま雑草取りに熱中してしまった。
 仕方なしに私も隣に座って、恐る恐る雑草を引っこ抜く。『それは、花の芽だよ!』と怒られやしないかひやひや。
 そういえば、ファンブックに幸村の趣味はガーデニングって書いてあったなあ。ま、そういうのを見たからこそこういった夢の展開なんだろうな。
「……花壇、よく手入れされてるね。よく幸村くんもやってるの?」
「うん? いや、園芸部だよ。俺は時々ひやかすだけ」
 言いながらも、手馴れた風に作業をしている。
 花壇にはラベンダーの他にも、いろいろときれいな花が植えてあって、その他に鉢も置いてあった。そこには白い小さなランみたいな、かわいい花が咲いている。
「……これ、なんていうの?」
 私はその花をさして尋ねてみた。こんな小さいランって見たことない。スミレみたい?
「ああこれ? これはフウラン。風の蘭って書く」
「へえ。名前もかわいいね」
 フウラン、か。人差し指で、つんとその華奢でかわいらしい花をつついて揺らした。
 幸村部長と二人で花壇で草むしりなんて、なんか、せっかくテニプリキャラの夢を見てる甲斐がないないっていうか。
 フツーにデートみたいじゃん。あっ、普通デートで草むしりなんてしないか。でもなんか、男の子とこんなの初めてで、ドキドキするけどのんびりしていいなあ。
 そんな事を考えながら、ぷちんぷちんと草をむしる。
 時々ちらりと幸村くんの横顔を見て。
 うつむいた彼の胸元にはいつものチョーカーの先に青い石がぶらぶらと揺れていた。
「……幸村くんのそれ、いつもしてるね。お気に入り?」
 言うと、彼は手を止めて私の視線をたどる。
「ああ、これか。以前、家族で旅行に行った先の雑貨屋でね、お店のおばあさんに勧められたんだよ。お守りになる石なんだって。なんだったかな、ラピスラズリっていう石で『神につながる石』とか『願いを実現する奇跡の石』とか言われてるらしい。ま、石って何でもそんな風に上手いこと言うのかもしれないけどね。でもそんなに高いものでもなかったし、結構気に入ったから自分で買ったんだ。お守り代わり」
「へえ。彼女からのプレゼントか何かかと思った」
 私はつい自然にそんな風に言ってしまった。いや、ほら、幸村ってモテそうじゃん。すると彼はクスクスとおかしそうに笑う。
「残念ながら、そんなんじゃないね」
「でも、幸村くんってモテそうじゃん。彼女いるんでしょ?」
 すると彼はまた更におかしそうに笑った。
「さあ、どうだろうね?」
 いやー、絶対いるな、こりゃ! よりどりみどりでしょ!? なんて言いながら、私たちは笑って草むしりを続けた。
 さえないデートだけど、結構楽しいじゃん。こういうの。


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 目を覚ました私が真っ先にしたのは、布団から両手を出すことだった。
 だって、土いじりをしてて泥だらけ!
 ……なわけはなくて、あわてて起き上がって見た私の手は寝る前と同じきれいなまま。
 さっきまで指でつまんでいた草や土の湿った感触はそのままだけど。
 ふううっとため息をつく。
 二週も続けて幸村の夢を見るなんて。
 よっぽどの立海好きになってしまった?
 ぶんぶんと頭を振って、これから一週間の学校生活を迎えるため冷静な頭を取り戻そうとする。いやだ私、そんなに妄想癖のあった方じゃないのになあ。
 時計を見ると、丁度目覚ましをかけたほんの直前の時間。アラームをストップして、部屋を出た。母親には『あら、すんなりおきてくるなんて珍しい』なんて言われながら、さっさと顔を洗ってご飯を食べた。いつもより早めに家を出るために。
 なぜなら、普段は学校帰りに買うジャンプを、朝読みたかったから。
 幸村、手術、無事終ってるんだよね? 
 という期待とともに読んだ今週のジャンプの私の感想は、『青学も六角もみんな、いいカラダしてるなー』というものだった。
 立海その後、どころか青学の夏休みでした、今回は。
 考えたら、そりゃそうか。
 関東を優勝で終った主役の青学だもんね。
 わくわくの夏休みの回を楽しませてもらいました。
 けど、この夏休みの回の舞台の千葉とはぐるりと離れた神奈川では、幸村部長が闘病してて、真田副部長がビンタをされてるのかなんて思うと、それはそれで妙にしみじみする。
 関東大会、勝った学校もあれば負けた学校もあるんだもんね。みんな、それぞれの夏を一生懸命に生きてるんだ。
 夏休みが終った私は、漫画を読みながらそんな風に妙にしんみりとしてしまうのだった。


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 ぼんやりと目を開けた僕の視線の先にはベッドの横の床頭台があって、そこにぶらさげてあるお守り代わりのチョーカーがまず目に入った。雑貨屋のおばあさんが、『神の石』だとか『幸運の守り神』だとかありとあらゆるありがたい事を言ってたっけ。別に信じているわけじゃないけど、その石の深い青が気に入ってお守り代わりに病院にも持ってきた。僕は本当はもう少し淡いブルーが好きで、そういう色の石を選んでたんだけど、店のおばあさんは僕にはこっちをと勧めてくれたんだったな。
 ベッドに横になったまま、そんな事を思い出していた。
 ゆっくりと、点滴につながれた手を自分の顔の前にかざした。
 手が、泥だらけになってるといいなという僕のちょっとした期待は当然ながら裏切られ、テープの跡がベタベタとついているばかり。
 のTシャツのサルの絵を思い出して、僕はくすりと笑う。
 テニスコートやラベンダーの匂いがやけにリアルに僕に残っていた。
 手術の後、立て続けに夢に出てくる、さえないけれど可愛らしくて憎めない彼女は一体何なんだろう。
 とてもじゃないけれど、スピリチュアルな何かには思えないし、とまた思わず笑ってしまった。


 手術後、約48時間たった僕の行動範囲はぐっと広がった。
 まず病棟のリカバリールームから自分の元の個室に移動する。もちろん、僕は自分で歩いてだ。同じ病棟の顔なじみの小学生の男の子が、『幸村さん、手術、終ったんだね!』と廊下で嬉しそうに声をかけてくれる。
 昨日よりも格段に動けるようになってきた僕は、それとともにやけに焦ってしまう。
 そりゃあ、昨日は立ってほんの少し歩ければ御の字だった。
 けど、こうやってもっと歩けるようになると僕の頭に浮かぶのは更に積極的なリハビリ。
 夢の中で、あんな真田たちを見たところなのだから。
 あれは夢に過ぎないかもしれないけれど、きっと間違いなくあいつらはああして必死に時間を惜しんで全国に向けてのトレーニングをしているはずなんだ。
 僕は自室で、夕方になる頃ようやく心待ちにしていた医師の回診を迎えた。
 胸の傷をぐっと押さえているサポーターを外して、先生はそうっとガーゼを取った。
 自分の傷を、僕は初めてこの目で見た。
 胸の正中線に、胸骨に沿ってまっすぐ伸びた一本の傷。
「うん、傷はきれいだし、血液検査の結果も問題ない。胸のドレーンは血液の量やレントゲンの結果を見ながら、一週間くらいで抜けると思うよ」
 先生は穏やかに僕の顔を覗きこんで言った。
「そうですか、よかった。先生、それでリハビリの方ですが、僕は全国大会に向けてなるべく早くスタートしたいのですけれど」
 僕が待ち構えていたかのように言うと、先生は一瞬戸惑ったような顔をする。
「そうだね、リハビリは勿論少しずつ始めていくよ。ただ、テニスの全国大会ってこの夏だったね? 幸村くんの手術は、前にも言った通り胸骨を切っているわけだから、つまり骨折と同じようなものなんだ。切った胸骨はワイヤーで留めているけれど、骨折を治すには安静が一番だときみもわかるだろう? つまり上半身を激しく動かす運動はちょっとすぐには無理だよ。下半身を使うリハビリからあせらずにやっていこう。説明したとおり、病気の症状も手術後一時的に悪化する可能性もあるわけだし、無理は禁物だ。テニスは今年の夏がだめでも、まだ来年があるしね」
 先生の説明は、親切で丁寧で理路整然としたものだったと思う。
 けれど僕には、その後に話された検査のスケジュールやなんかはさっぱり頭に入って来なかった。主治医の先生と副担当の先生、そして回診の担当の看護師さんがカートを押して部屋を出て行った後も、僕の頭はさっぱり動かない。
 上半身のトレーニングがまだ無理だって?
 じゃあ、一体僕は何のために手術をしたんだ?
 来年だって?
 立海の3連覇は、来年じゃだめなんだ。
 今年しか。
 そう、この夏しか、ないんだ。
 気持ちが焦れば焦るほど、僕の胸は痛む。
 切った骨が、ギシギシとずれてきしむような、いやらしい痛み。
 僕は震える手でナースコールを押した。

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 2008.3.7

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