「幸村くん! 幸村精市くん!」
ぼんやりしたままの僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
なんだか体中が重い。
さっきまであんなに軽やかに歩いていたのに、僕はまた去年の冬の日のように倒れてしまったのだろうか?
そうだ、女の子が一緒にいたはずだ。
倒れてしまったりして、彼女を心配させてしまっているかもしれない。
僕はあわてて起き上がろうとすると、僕の腕をぎゅっと握る手があった。
「幸村くん、深呼吸できる? 手術、無事終ったわよ」
聞き覚えのある看護師さんの声だった。僕の腕をしっかりと握っている。
目を開けて声のする方を見るけれど、薄暗い中マスクで顔が覆われていてよく見えない。
「順調に人工呼吸器も外れたから、集中治療室じゃなくて病棟のリカバリールームに戻ってきたよ。今、お家の人、呼んでくるね」
そういえば、手術が終ったらしっかり深呼吸をするようにって言われてたっけ。
そうっと息を吸うと、空気を含んで盛り上がる胸の真中あたりが痛んだ。手術の傷跡だろう。
左手には点滴がつながれていて、胸の横のところがずきずきと体の芯に響くように痛む。ああ、管がつながれるんだって説明を受けたっけ。
のどの奥がひりひりするのは、人工呼吸器の管が入っていたせいだろうか。
そうやって、僕は自分の体の状況をひとつひとつ点検していった。
生きているなって。
さらりとした薄着で、軽やかに歩いていた夢。
ついさっきまでの夢はやけにリアルだった。
夢の中で、まるで僕のガイドのようにずっと一緒にいた女の子。
黄緑色のビーサンにジーンズ、ピングーのTシャツを着て、ふわっとした髪をテキトーにゴムで結んだりして、なんだか年下の従妹みたいな、でもちょっと可愛らしい子だったな。スピリットガイドとやらにしては、やけに迂闊っぽい子だったけど。
頭はガンガンして少し吐き気はするし、さっきまでの軽快な感じとは全く違うのに、その夢の中の女の子を思い出すと僕は少しばかりいい気分になった。熱い夏の日に、キンキンに冷えたレモンの味のサイダーを飲むような、そんな気分だ。
麻酔から醒めた僕には、勿論まだ痛み止めが注入されているようで、多分これでもだいぶ痛みは抑えられているのだろう。
看護師さんに連れられて、僕の父と母、そして妹に祖母が面会にやってきて、担当の医師が手術の経過について説明してくれたけど、痛み止めのせいか僕はすっかり頭がぼうっとしてしまって、話が終る頃にはまた重たく粘っこいような眠りについてしまった。
今、眠ったら、またあのビーサンの女の子に会えるだろうか。
僕のそんな甘い考えは打ち砕かれ、夜中ほぼ一時間おきに周りでがさがさと僕の体をチェックする看護師さんや先生の物音で、僕は眠っているのだかおきているのだかよくわからないまま朝を迎えた。
電動ベッドを起こされて、ゆっくりと頭を上げると麻酔の後遺症か相変わらずの頭痛に吐き気。まあ、仕方がない。
「うがいして、むせないようだったらちょっとお水飲んでみる? お昼から、お粥が出るわよ」
看護師さんは僕の顔を覗き込みながら言った。
そういえばのどがカラカラだ。
うがいをしたあと、氷を入れてもらった水を少し口に含み飲み込むと、とても美味しい。
食欲はないけど、水はいけるな。
「幸村くん、痛みはどう? 麻酔もさめてきて、ちょっと痛んでくる頃かな?」
「そうですね、咳をしたり大きく息を吸うと痛みますけど」
「うん、でもしっかりと肺を広げて呼吸をしてもらわないといけないし、今日はできれば立ってベッドの周りくらいは歩いてもらわないといけないからね」
僕は一瞬ぎょっとして看護師さんを見た。まあ、手術の前から説明はされていたけど、こんな状態でもう歩けというのか。
自分の体からいくつも伸びている点滴や管の類を見てため息をついた。
僕の胸から出ている、まるで自分の指の太さくらいある管の先には吸引機がついていて、ぼこぼことコーヒーサイフォンのような音を立てて僕の体の中にたまった血液を吸い出しているのだ。
「管や点滴は歩きやすいように整理してあげるし、オシッコの管はもうすぐ先生に抜いてもらうから。今朝から点滴で痛み止めをずっと入れてるからね、痛みを抑えて、歩くようにしよう。そうしたら早くよくなるから」
僕は枕もとのカレンダーを見た。
そうだ、僕は全国大会にはテニスコートに立とうという人間なんだ。
こんなことで負けてられない。
点滴のついていない方の右手で、僕はそうっと胸の真中をさすった。
傷のある、あたり。
さて、そんな風に手馴れた看護師さんのサポートで僕は午後にはすでにベッドの周りをぐるぐると歩き回っていた。もちろん、昨日の夢の中でのように軽快にというわけにはいかなくて、あれこれくっついて重たい点滴台をゴロゴロ押しながら、そうっとゆっくりだけど。
そんな僕を見て、面会に来た母親はびっくりして腰を抜かさんばかりだった。
そりゃあ、昨日はまるで死にかけみたいにベッドにいた僕が、もう歩いてるんだからね。
そしてそんな母が持ってきたニュースは、昨日の関東大会、我が立海大付属は青学に負けて準優勝だったという事だ。
僕はすぐに、昨日の夢で見た真田たちの顔を思い出した。
とてもリアルだったんだ。
自分が病に倒れた後、僕のために無敗を誓ってくれた彼らの熱が。
そんな彼らが、負けた。
母親が残念そうに伝えてくれたそのニュースを、僕は意外なくらいにあっさりと受け止めた。
もっと元気な時であれば、一体あのメンバーでどういった状況で負けたのか? 相手の布陣は? とすぐにでも分析したくなるところだろうが、今はさすがにそんな気にもならない。
そして、まっ先に頭に浮かんだのは、『やっぱり俺がいないとダメじゃないか』って事。
その考えは、自分にとってやけに甘美な発想だった。
同時に、我が立海の敗北を聞いて、とっさにそんな事を……つまり自分の存在価値の大きさにかえて考えてしまう事を、恥じてしまう。
昨日の夢で、部室で無敗を誓う真田たちを見た時の、複雑な自分の中の気持ちを思い出した。そして、その後に必死に僕を見て何かを言おうとしていたあの女の子の顔。
そうだ、夢の中で名前を聞いたっけ。
……。って言ってたな。
歩きながらその名前をつぶやくと、不思議に胸の傷の痛みが和らぐような気がした。
ひどく、リアルで印象深い夢を見たものだ。麻酔のせいだろうか? 夢の中に知らない子が出てきて、名前まで覚えてるなんて。
手術をして一日目の日は苦しいながらも慌しくて、僕は少々張り切りすぎてしまったためか、夕方には熱が出てしまった。『手術の後はね、回復の段階として熱が出るものだから、幸村くんの場合は感染とかじゃないし大丈夫よ。ドレーンからの血液もきれいだし』と、これまた看護師さんは手馴れたふうに説明してくれる。ま、こんなものなのかもしれないけれど、しんどいものはしんどいんだ。痛みもずきずきと増してくる。ちなみに僕のこの痛み止め、注射薬を点滴で投与されるのは3日くらいらしい。きつい薬を続けると、呼吸器や消化器によくないとかで。
それにしても、痛い。僕がそう訴えると、看護師さんは先生に確認をして点滴の痛み止めの投与スピードを少し早めて増量してくれた。これが、痛みが強くなった時の対処らしい。
自分の血管の中を、痛み止めの薬がしゅうしゅうとと流れていくのをイメージする。
それは血管壁から吸収されて全身に行き渡るのだ。
僕はふわっと脚が暖かくなるような感覚を覚えると同時に、頭がぼうっとして体の痛みが和らぎ甘い何かに包まれているような気分になった。そうしようと思わなくても、目を閉じて、体が溶けてベッドの中に沈んでゆく。
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ガーッ!
学校が始まった!
私、別に学校嫌いなわけじゃないけど、夏休みが好きだったから。
気象部の皆で天体観測したり、楽しかったのにー。
8月が終って学校が始まった最初の週、あの8月の終わりに見たおかしな夢の事は少しずつ私の中で薄くなっていった。
だって、漫画キャラがあんなに濃いぃ感じで出てくる夢を見ちゃうなんて、ちょっと変じゃない。変っていうか、いい歳して恥ずかしい。もう中三だっていうのに。
それにあの日曜の夜以来、もうああいう夢は見てない。
ま、そうは言いつつテニプリを読み返して幸村精市が出てくる回なんかを見て、この部長、涼しげな顔をして『苦労かける』とか『迷いはない』なんて言いつつも、やっぱり私と同じ中三なんだしいろいろ悩んでたのかなー、なんて考えたりした。
そして手術、上手く行ったのかなあっていうのは気になるんだ。
私が小学生だったら、ジャンプ編集部に電話とかしちゃうかもね。
ま、今はもう中三だからさすがにそんな事はしないけど。
っていうか漫画なんだし、ぜったい上手くいくし全国には幸村、出てくるにきまってるじゃん!
そう自分に言い聞かせても、夢から覚める直前の、あの幸村くんの顔がどうしても頭から離れなかった。
私、ヤバイ。
痛い人になってるかもしれない!
そんなこんなで学校が始まった最初の週はあっという間に週末がやってきた。
気象部の後輩のレポートとかをチェックしたり、勿論自分の宿題を提出したり、そんな日々。
日曜の夜、私はちょっとドキドキしながらベッドに入った。
明日のジャンプ、どうなってるのかな。
関東大会の閉会式あたり?
立海の面々が、幸村の病院に面会に行って無事手術が終った事を確認しつつ、涙の敗北報告、って感じのシーンでもあるといいんだけどなー。真田、なんて言って報告するんだろ。
眠りについたはずの私は、ハッとやけにクリアな頭で自分の足元を見つめている事に気付いた。
休み中いつも履いてたビーサン。もちろん素足。
学校が始まっても、うっかりそれを履いていっちゃいそうになったっけ。
相変わらずのジーンズに、Tシャツ。
はっと私は顔を上げた。
ヤバイ!
この感覚、あの時の夢と同じだ!
あわてて立ち上がると、近くの木陰に男の子が立って私を見て笑っていた。
幸村精市だ。
「やあ。今日は暑い日みたいだね」
私はあわてて髪を抑えて、ゴムを外した。
私ってばどうしてこう、ヘンな格好でしか登場できないんだろう。
やっぱり普段のファッションセンスが反映されるわけ?
オタオタしながらも、私は幸村くんのところへ駆け寄った。
「ね、手術、どうだったの?」
そうだよ。私の服なんかどうでもよくて、そっちが気になるっつの。
思わず声を荒げて駆け寄った私に、幸村くんは街路樹の陰のところのベンチを指して歩き出した。
私も黙ってついていく。
この前の夢とちがって、今は夏みたい。空の色は濃いし、辺りを歩いている人も皆軽やかな夏服だ。幸村くんはコットンのシャツに、この前と同じチョーカーをぶらさげてて、相変わらずおしゃれ。それにひきかえ、私ときたら……。
「手術、終ったよ。目が覚めて点滴やら管やらついてて、びっくりしたけど、まあ順調みたい。張り切って歩いたら、夕方にはなんだか熱が出ちゃってさ。痛み止めを追加してもらったら頭がぼーっとしてあっという間に眠ってしまったみたいだ。それで、こうしてまた夢を見てるのかな」
彼は軽やかな身体を楽しむかのように、思い切り伸びをした。
夢かー。
それにしても、何日も日を置いて同じ登場人物が出てくる夢なんて、初めてだよ。
そんで、ちゃんとこの前の続きになってるみたいなんだから、すごい設定だ。
「あっ、そうなんだ。よかった。……この前の夢でさ……あの後、幸村くん、どうなったのかなーって気になってたから」
言いながらも、あの夢から私は一週間経ってるんだけど、幸村くんはまだ一日って事なのかーと妙に冷静に考えてしまう。
「うん、心配かけたけど、大丈夫だよ」
よかったよかったー。
私は、ふーっと大きく深呼吸をしてベンチにもたれかかった。
「だけど……」
と、彼が続けるので、えっ、何かあったの!? ウンコ出なくて困ってるとか!? ウチのおばあちゃん、手術の後にそれで大変なことになったっけ! とびっくりして体を起こした。
「俺の手術の日、テニス部の関東大会の決勝だったんだけど、あいつら負けたらしい。東京の青学が優勝だってさ。まだ皆は面会には来れないから会ってはいないけど、母親が教えてくれたよ」
ああ、それは私、知ってるんだ。ジャンプでまさに読んだところだもの。あれ、悔しいよねえ。と思いつつ、ハイハイ知ってるよ、とも言いにくくて私が黙っていると、幸村くんはベンチに置いてあった新聞を手に取った。サラリーマンが読んだ後、放置していったのだろう。
「そっか、今は関東大会が終った後、夏休み中なんだな。よし、行こうか」
「え?」
「ウチの学校だよ。負けた奴らの顔を見に行ってやるんだ」
彼は立ち上がると、太陽を背にしてさわやかに笑った。
さわやかな笑顔をして、ズバリとした事を言うんだなあ、幸村部長!
この人、やっぱりボスキャラだ。
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2008.3.5