● 純愛だけど朝帰り(2)  ●

 ま、私の姿は幸村くん以外には認識されないんだっていう事はわかってるんだけど、どうもヨソの学校に入り込むなんてすごく緊張する。
 そんな私に構うことなく幸村くんはずんずんと校庭へ入ってゆく。ま、自分の学校なんだから当たり前か。
「……ねえ、どこ行くの? 私、その辺で待ってよか?」
「いや、一緒においでよ」
 てか、なんで一緒に連れてきたんだろうなあ。私はまあ、好奇心つーのはあるけど……。
 彼は正門をつっきって、反対側の門の近くの部室棟のようなところで立ち止まった。
 そしてベンチに腰掛ける。私にも座れってことか。
だまって腰をおろした。
 ちょうど授業が終った頃のようで、校庭には少しずつ部活を始める生徒達がいた。
 皆、私の同級生と同じような子たちだ。
 それにしても、これって変な感じ。いや、さっきから変な感じばかりなんだけど。
 私の夢の中だけど、こうやって立海大付属中があるって事は、これは幸村くんの世界? だけど、幸村くんはこの世界の人には認識されない? まあ、それもひっくるめて私の夢って事なわけだけど、まるで私と幸村くんは世界と世界の間のおかしな隙間に入り込んでしまったみたい。
「……こうやって、ここにも俺の通ってる中学は存在してるわけだけど、どう思う? 俺のチームのテニス部もやっぱり現実と同じようにあるのかな。この世界でも俺が部長で、部員達も同じメンバー? じゃあ、こっちの俺はどうなんだろう。この世界では俺は病気なんかにならず、元気にテニスをやっているんだろうか。それとも、現実と同じく入院してるのかな」
 彼は、本当に私に尋ねたいというような風にでもなく、静かに言った。
 そうか、彼にとっての現実は私の現実じゃなくて、手術を受けているそっち世界が現実なんだ。
 細かい夢で、ややこしいな! でも、私の隣のこの男の子は確かにここにいるんだし彼には彼の現実があるのも当たり前なのかも。
「……そこ、テニス部の部室なの? だったらさ、そのうち皆部活に来るんじゃない? そしたらわかるじゃん」
 私が言っても、彼は返事をしないまま校舎の方を眺めていた。
 12月の初め、空の色や木の葉の乾いた感じは確かに冬だ。でも、半そでから伸びた腕は不思議と寒さを感じなくて、これはやっぱり夢なんだって実感する。夢を実感って、ヘンな言い方だけど。現実的なのに、明らかに夢。ほんと、こんなにハッキリした夢なんてはじめて。
 隣の幸村精市をちらりと見て、また空を見上げる。漫画やなんかの登場人物が夢に出てきた事は今までにもあるけど、こんな風にはっきりしていてまるで本当にいる人のようにそばにいるっていうのも初めてだった。きっと、この夢はなかなか忘れないだろうな。
 と、ふと幸村くんがぴくりと背筋を伸ばした。
さん」
 そして私の名を呼ぶ。
「あそこに歩いてくる奴、いるだろう?」
 彼が指す方には、姿勢の良い長身の男子がいた。あれは確か……柳蓮二?
「あれ、ウチのテニス部の柳蓮二っていう奴なんだ。ちょっと行って、声をかけてみてきてくれないか」
 あっさりと言うのだ
「えええ!?」
 私が思わず声を上げて彼を見据えると、彼はシッというように人差し指を口元に当てた。
「多分、俺やきみは認識されないと思うんだけど、もしも万一認識されてしまうようだったら、もしかすると面倒な事になるかもしれないだろう? ほら、俺が生霊か何かと間違えられるかもしれないし。だから、まず面識はないだろうさんが行ってくれ」
 もしかして、それで私を連れてきたの!? いやいや、きれいな顔して結構やるなあ!
「えええー、でも何て言えばいいのよ」
「何でもいいよ。ファンです、でも良いし。多分、認識されないだろうからさ」
 彼はさらりと言うと、すっと木陰に隠れた。行って来いという事か。やれやれ。
 私はやむを得ず、部室に入っていこうとする柳蓮二を小走りで追った。
「あのー、参謀!」
 声をかけるが、まあ案の定無視。
「すいません、マスター! 柳蓮二さん!」
 柳蓮二は思ったより背が高くて、ぴしっと背筋を伸ばして、そして結構きれいな顔をしていた。目は漫画の通り細いけど、こりゃ男前だね。私は調子に乗って背中をバンバンと叩いてみるけど、まったく無視。彼はまったく私の存在を意に介さず、部室へ入っていった。
「幸村部長! 柳蓮二は私には目もくれませんでした!」
 私は木陰の幸村くんのところに走って戻るとさくっと報告をした。
「そうか、じゃ、やっぱり俺やさんの事は認識しないんだね。そして、俺の現実と同じ立海大付属中テニス部員は存在するらしい、と」
 彼は首から下げているチョーカーをきゅっと握り締めると、歩き出した。
「じゃ、行こう」
「え?」
「部室だよ」
「私も?」
「まあ、何かあった時のためにね」
 何かって一体、何よ。と思いつつも、やっぱり知らない学校で一人って心細いからついて行くのであった。
 テニス部の部室はきちんと片付けられていて、男子運動部の部室に入るなんて初めての私にはちょっと意外だった。中のミーティングテーブルでは、先ほどの柳蓮二が制服のままで難しい顔をして何やらファイルを眺めていた。幸村くんは部室の中のホワイトボードを見て回ったりうろうろしている。やっぱり柳蓮二は幸村くんに気付かないみたい。
さん」
 突然に私を呼ぶものだから、私はどきーんと飛び上がらんばかりに驚く。だって、部室には柳蓮二が一人きりでしーんとしているんだもの。聞こえないとわかっていてもドキドキする。
「なに?」
「やっぱり、この世界でも俺は存在して、そして病気で入院しているみたいだ」
 彼はホワイトボードを指した。その先には日付と共に『幸村部長 入院』と書いてあった。
 私は黙ってうなずく。だって、それって良い事なのか悪い事なのか、わからない。
 この世界では、幸村くんは病気なんかにならず元気でいるっていう方がいいのか、それとも今私の隣にいる幸村くんの世界と同じく、ここは彼にとっての単なる過去であるっていう方がいいのか。
 幸村くんはまた首から下げているチョーカーの石をぎゅっと右手で握り締めていた。
 彼にだって、わからないだろう。
 どっちがいいのかなんて。
 ここで、病気をしてない元気な自分っていうのを見るのも辛いかもしれないしね。
 ジャンプを読んでた時も思ったけど、本当にわからない。
 どんな気持ちなんだろうな。私と同じ歳で、難しい病気になって手術なんて。だって、同じ歳の他の男の子はこうして元気でいるのに。そして今、こんなはざまの妙な世界にいながらも、幸村くんの現実では彼は手術中なわけだから。
 私たちが押し黙っていると、部室のドアが大きく音を立てて開かれた。
「ちぃーっす! 今日は最初にミーティングなんスよね?」
 大きな声で入って来たのは切原赤也だった。おお、これがあの生意気でちょっとおっかない二年生かー。いや、彼からは私が見えなくてよかった。なんか目が合ったら恐そう。
 彼の登場を皮切りに次々に部員が揃う。
「待たせたな、ホームルームが長引いてしまった。すまない」
 そして、ずずいとやってきた大柄な男の子に私は思わず、うわっと声を上げる。
「ああ、真田だよ。副部長の。迫力あるだろう」
 幸村くんは私を見ておかしそうに笑った。いや、漫画で見てたけど、こう立体で見ると迫力あるぅ! なんていうか、私の脳のイマジネーションも結構すごいな。夢でこうまでリアルに再現するとは。いや、ほんと目が合うとかがない状況でヨカッタ。こりゃおっかないわ。そして真田副部長に続いてやって来るのは、紳士・柳生。これはほんと穏やかそうな人だ。こういう人はアリだよね。
 そうやって続々と立海レギュラー陣が揃うのだった。
 夢なんだからさ。
 私ももっと気楽に、「わー、仁王の髪ってホントきれいだなー」とか呑気にじろじろ見てればいいのに、なんだか妙に緊張してしまう。でも夢って、そんなもんだよね。目が覚めてから後で、もっと楽しめばよかったーって思うの。見てる時は妙に真剣になっちゃうの。私、そもそも苦労症だし。
 っていうかさ、こう緊張してしまうのはこの場の皆の雰囲気なんだ。
 皆、制服のままでミーティングテーブルを囲み、真田副部長を中心に難しい顔をしてる。
 なんだか恐くなってきちゃって、隣の幸村くんを見上げた。
 彼も、じっと息を殺すように皆を見てるだけ。
 私たち、別にしゃべっても皆に話し声は聞こえないのに。
 空気につられるように、私も自分の手をぎゅっと握り締めて、部員の皆と幸村くんの顔を交互に見つめた。
「皆も居合わせたからわかっているだろうが、幸村はしばらく入院の後、療養生活を送ることとなる」
 重苦しい空気の中、低いけれどよく通る真田副部長の声が響いた。
 そしてその後には沈黙。
 うわあ、やっぱり常勝立海って厳格だなあ。すごい緊張感だよ。
 その時、ふううっという幸村くんの吐息が聞こえて、私はどきりとした。それはこの静かな部室の中に響き渡ったから。もちろん、私以外には聞こえはしないはずなんだけど。
さん、楽にしときなよ。きっと真田の話は長いからさ」
 幸村くんはまるで他人事みたいに言って、にこっと笑った。ミーティングテーブルをぐるりと歩いて皆の顔をちらりと見て回る。座っている彼らのすごく近くを歩くものだから、大丈夫ってわかっていてもなんだかはらはらしてしまう。
「手術を受けたらよくなるんだろぃ?」
 丸井ブン太が沈黙を破った。今はさすがにガムを噛んでない。
「幸村くんの手術は……」
 紳士・柳生が静かに言った。
 すると、彼の顔を覗き込む幸村くんが、なんと紳士の眼鏡をすいっと外してしまう。
「わっ、ちょっと幸村くん、何すんの!」
 私は思わず叫んでしまった。
「大丈夫。柳生は、眼鏡してるけど視力はそんなには悪くないんだ」
 あっ、そうだよねえ。仁王と入れ替わって眼鏡なしでテニスしてたもんねえ。っじゃなくて、こんな場でそんな事して大丈夫なの? 私は意味もなくあわててしまうけど、紳士は眼鏡を外された事にまったくお構いなしに話を続けていた。
「幸村くんの場合どうなのか詳細はわかりませんが、幸村くんと同じ病気の場合、まずは病気の進行状態を詳しく検査して、そして年齢等との兼ね合いで、手術適応となるかどうかを検討する事になるでしょう。しばらくは投薬治療が続けられると思います。今すぐに手術をして、という事は無理でしょう」
 ああ、紳士って医者の息子なんだっけ。さすが詳しいなあ。それに、眼鏡取るとオトコマエー。優しそうだし、現実にいたらこういう人が好きかも。
「……さん、柳生みたいなのが好きなの?」
 私が思わず紳士をまじまじと見ていたら、幸村くんがずばりと言ってくる。
「え!? いや、別にそういうわけじゃないけど……」
 いやいや、ハイ結構好きですって言えばいいのに、私いつもなんだかこういう時、意味もなく『そんな事ないよー』って言っちゃうんだよなー。だからずっと彼ができないのかも。ヨシ、どうせ夢なんだしここは『柳生くんみたいなの好き』ってちゃんと言ってみるか。紳士には聞こえないんだしさ。よーし、勇気を出してー……と思ってると、幸村くんはさっさと柳生くんの傍を離れて歩き出していた。
「って事は春からの大会はどうなんだ?」
 語気は強いけど、心配そうに丸井ブン太が続ける。
 幸村くんは、今度は丸井ブン太の傍で、彼の鞄のポケットを探ってガムを取り出した。
「はい、さん、どうぞ」
 そして一粒私に手渡してくれる。えーっ、夢の中で食べ物を食べた記憶はないけど、どうなんだろう、と思いつつ私は包み紙を開いて口の中に放った。おお、噂のグリーンアップル味! 夢の中でも食べれるもんなんだなあ。妙なところで感心してると、幸村くんはどんどん歩いてゆく。
「春からの復帰は難しいかもしれない。……間に合ったとしても、全国大会からだと覚悟しておいた方が良いだろう」
 先ほどの柳蓮二が落ち着いた口調で言った。
「赤也にはレギュラーとして頑張ってもらわなければならないぞ」
 彼が言うと、切原赤也は感極まったように立ち上がる。
「俺、やるっスよ! 絶対に幸村部長が戻ってくるまで、立海の勝利を守るっス!」
 おおお、やんちゃな奴だと思ってたけど、結構いい子じゃないの! 私がちょっと感心していたら、幸村くんは今度は切原赤也の鞄をゴソゴソ探る。
「ちょっと、幸村くん! 今、せっかくいい話してるんだしさ、いくら後輩のだって言っても勝手に鞄をいじるなんて……」
 さすがに私がとがめだてしようとすると、彼は何やら紙切れを取り出した。
「……やっぱり赤也はあいかわらずだな。ほら」
 幸村くんが見せてくれたのは、英語の小テストの答案。なんと、5点! 赤也が英語苦手ってのは定説だけど、こりゃひどい。
「張り切るのはええが、赤也は空回りする事もあるからのぅ。まずは落ち着いて先輩の言うことをきちんと聞くことからじゃな」
 いきり立った赤也をなだめるように言うのは仁王。さすが、落ち着いてるなー。
さん、それちょっと貸してよ」
「え? 何?」
「その、髪をしばってるゴム」
 私の髪は緩くしばってあっただけなので(まあ、つまるところは全体的に非常にだらしない格好なわけ)、私の意向にかかわらずひょいと伸ばしてきた幸村くんの指でするりとその髪ゴムは奪われてしまった。うわ、男の子にこんな事されたの初めてだよ。緊張するとともに、ちょっとその強引さに憤慨してしまう。つか、ゴムなんて何するのよ、と思っていると、幸村くんは仁王くんのきれいな色の髪のふわりと長い後ろ髪をほどき、二つに分けておさげにしてしまう。えー、一本の尻尾が二本になっただけとはいえ、ちょっとそれでは仁王のイメージが! ちなみに、そんな事されても仁王くんは気付かず、真面目な顔をして話を続けてる。
「おいおい、俺を見て言うなよな。ま、しょーがねえなあ」
 と、ジャッカル桑原が口ほどには嫌そうではなく、優しげな声で言う。わー、やっぱりジャッカルっていい人そうだなー。見た目だけはこわそうだけどね。
 私がハッと幸村くんを見ると、幸村くんはどこからか持ってきたマジックを手にして、そしてジャッカル桑原の後頭部に向かうのだった。
「幸村くん! それだけはやめてあげて!」
 彼のやらんとしている事はおおよそ想像がついたので、私は必死に幸村くんのマジックを持った腕にしがみついた。だって、ジャッカル、不憫すぎるよ! ハゲに落書きなんて!
「なに、さん、ジャッカルが好み?」
「あ、ええと、好みっていうかさー、後輩の面倒見たりしてるんでしょ、この人。ただでさえ大変なんだから、悪戯するのやめてあげようよー」
 私は赤也の不始末で真田副部長の鉄拳を受けていた回を思い出し、マジで不憫になってしまったのだ。
「……ま、ジャッカルの頭に落書きなんて、やろうと思えば罰ゲームでいつでもできるしね」
 そう言うと幸村くんはカポンとマジックのフタをした。私はほっと胸をなでおろしつつ、いつもそんな事されてるんだーと更に不憫に思ってしまった。
「とにかくだな」
 真田副部長の声が再び響く。
「勿論我々は、誠心誠意幸村の回復を心より願う。が、正直なところ、我々にあいつの回復を助けてやれる事は何もないのだ。いいか、俺たちに幸村のために出来る事は、目の前の試合ひとつひとつに必ず勝つ事だ。練習試合であろうと、この先立海が負ける事があってはならない。勝利のひとつひとつを、幸村に捧げてゆこう。それが俺たちの生きている証であると、きっと幸村には伝わるはずだ。いいな!」
 簡潔な真田副部長の言葉に、レギュラー一同は静かに肯いた。みんな、強い目をしているな。漫画ではこういうシーンなかったけど、なるほど、立海が勝利にこだわるのも納得だ。夢の中ながら、私は妙に感心してしまった。
「いくぞ!」
 そしてその真田副部長の声に続いて、『無敗を誓うぞ!常勝立海大!』と全員が大きな声を響かせた。それは本当にお腹の底に響くような大きな声で、私はビリリと驚いてしまう。
「よし、それでは全員トレーニングを始め!」
 その声を合図に皆、ロッカーに向かった。ちょ、ちょっと、着替えはじめちゃうよ。私がおろおろしていると、幸村くんはくすっと笑って私の手を引っ張り、部室の外に出た。
 背後からは、『うむ? 赤也! この答案は一体なんだ!』という、真田くんの怒鳴り声と、切原赤也の蚊の泣くような声が聞こえてきた。幸村くんてば、あの答案! まったく、結構いたずら好きなんだなあ。
「俺がどういう病気かって、話したっけ?」
 外のベンチに腰掛けて、幸村くんがつぶやいた。
「え? あ、ううん、聞いてない」
 知ってるけどね。
「体中の筋肉の力が弱って行く病気なんだ。この時期に、まったく前触れもなく突然かかったんだよ。びっくりしちゃうだろ? それまで、無敵のテニスプレイヤーって言われてたのに」
「……そっか……そりゃびっくりだよねえ……」
「あんなふうに、真田たちが俺のために勝利を誓ってくれた事、わかっているんだ。だから、俺もそれに応えようと手術を受ける決心をして手術を受けた」
「うん」
 私が相槌を打っても、幸村くんの目は遠い何かを見ているようだった。
「病気になって半年以上たって、大分ふっきれたと思ったけど、この時期に戻ってみると思い出してしまうな。……皆、俺を励ましてくれたけど、正直、病気になった俺からすると健康そのものの皆がねたましくて仕方なかったよ。どうして俺だけ、こんな病気になるんだってね。今だって……」
 幸村くんはしばらく黙った後、ぐっと空を見上げた。
「今、あらためて真田たちがあんな風に誓ってくれたんだって目の前で見て、こんなに胸が熱いのに、それでもまだ俺には『あいつらは健康でうらやましい』なんて気持ちがあるんだ。あんなに、あんなに俺をおもってくれてるのにな」
 私はほどけた髪が風で吹かれるのを手で押さえながら、じっと彼を見た。
 漫画ではさ。
 怪我をしたり病気をしたり、死んだかと思われてたキャラが見事に復活!って、しょっちゅうじゃん。幸村精市の病気&手術ってのも、きっとそんなドラマティックな演出の一つだからって、思ってたのに。
 私はいつのまにか、唇をぎゅっと噛んでいた。
「ええと、ええと、そりゃ元気な人がうらやましいなんて、当たり前じゃん! 幸村くんさ……」
 思わず言ったものの、この先なんて続けたらいいのかわからなくて、手をぎゅうぎゅうと握ったり開いたりして、バカみたいに彼をじっと見つめてしまった。
「ええと……」
 すっかり言葉につまってしまった私を見つめ返す幸村くんは、くくっと笑った。
さん、髪、しばってない方がかわいらしいんじゃないの?」
「え!? はっ!?」
 マジメな話をしてたっつのに、何を言うんだ、この美少年は!
 私はあわててぼさぼさの髪を両手で抑えて、彼の端正な笑顔を見た。
 漫画界のキャラからすると、私みたいな普通の人の顔ってどんなんに見えるんだろ。ヘンじゃないかな? なぜだか、まるで片思いの男の子といるみたいなそんな気分になってしまった。突然。
 夢とはいえ、もっと可愛い格好して、髪ももっとちゃんとなってればよかったのに。
 あー、これって普段の心がけがだらしないからかな。



 がばっとベッドから起き上がった私は、両手で髪を一生懸命いじっていた。
 えっ! ああ! 目が覚めちゃった!
 時計を見ると8時。まあ、いい時間。
 いや、せっかく幸村の夢見てたのに、あっさり目が覚めちゃった!
 私は珍しくさっさと洗面所に行った。
 だって、夢の中でだらしない格好でいたの、今になって急に恥ずかしくなった。
 なんだかすごくリアルな夢だったよ。
 夢の中で、じっと私を見て笑っていた幸村の顔を思い出す。
 本当についさっきまで男の子といて、朝帰りをしたみたい。
いやいや、そんな経験ないんだけど!!
 歯を磨こうとして、ふと私の口の中にグリーンアップル味が残ってる事に気が付いた。ああ、ブン太のガム? いやだ、気のせいにしてもすごいリアルだなあ。
 歯を磨いた後、顔を洗おうとして髪をしばるゴムを右手首に探した。あれ? いつも寝る前に手にはめてるのに、ナイ。そういえば夢の中で幸村に取られちゃったけど……。
 グリーンアップル味に、なくなった髪ゴム。
 グリーンアップル味なんてきっと気のせいだし、ゴムだって多分ベッドの枕もとあたりに落ちてるに違いない。だけど、それだけじゃなくて、ジャッカルに落書きしようとした幸村の手を掴んだ感触や、常勝立海大!って叫ぶ皆の野太い声が頭に残ってて、やけに生々しいんだ。私は妄想しすぎのアブナイ人なんだろうか。
 ドキドキとそんなことを考えながら、私ははっと気付いて飛び上がった。
 あの時、幸村は手術中だったはず。
 夢の中の自分が考えた、不吉な発想を思い出してしまった。
『もし手術が上手く行かなくて、幸村くんが目覚めないままだったら、彼はずっとここにいるって事?』
 私は勝手に目が覚めて夢を終らせちゃったけど、幸村くんはまだあの夢の中にいるんだろうか? あの、誰に話し掛けても反応をしない、自分たちがまるで透明人間になったかのような世界に、一人?
 ざばざばと顔を洗って急いで着替えると、母親が『ご飯、ご飯!』と叫んでるのを無視してコンビニに走った。
 ジャンプ!
 平積みになってる最新号を買って店を出ると、すぐにテニプリのページを開いた。
 ああ、まだ関東大会終ったとこまでしか描かれてない。幸村の手術が上手く行ったのかどうかは、描いてないよ! まあ、漫画だし、青学のライバル校の多分ボスキャラなんだしさ、上手く行ってるにきまってると思うんだけど……。
 なんだか夢と現実がごっちゃになってしまった私は妙に不安。
 幸村くんも、手術が終ってさくっと目を覚ましてるんだといいな。
 くそ、早く次号のジャンプを確認したい!!

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2008.3.4

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