● 死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ(4)  ●

「こら!」

 弦一郎は、休み時間に友人とおしゃべりをしているの背中を、通りすがりに持ってたノートでぴしゃりとはたいた。
「わ、何? 真田くん?」
 さすがに驚いた様子のが慌てて振り返る。
「姿勢が悪いぞ。普段から腹に力を入れて背筋を伸ばせ。そうすれば外腹直筋や脊柱起立筋が鍛えられる。お前もアスリートなら、常日頃からしゃんとせんか!」
 低く響き渡る彼の声に、も彼女の友人も思わず組んだ脚をしゃんと揃え、椅子に座りなおした。彼女達は背筋を伸ばして、居心地悪そうに互いに目を合わせるのだが、ついにがくくっと笑い出す。
「うん真田くん、確かに背筋、伸ばしてた方が筋肉も鍛えられそうだし、しゃきんとした気分になるけどなんだかねぇ。軍法会議でもやってるみたいじゃん。友達とおしゃべりする時には、なんか違うよ、これ」
 おかしそうに笑うに、弦一郎はフンと鼻を鳴らす。
「たわけが。普段からの心構えが、姿勢に出るのだ」
 そう言い捨て、自分の席にさっさと戻った。
 相変わらず小言のような事ばかりだなと、弦一郎は我ながら呆れてしまうが、いつもは閉口したふりを見せつつも本当に嫌がって怒る様子はなく、彼もついついあれやこれやと言ってしまう。
 いや、ただ自分は注意すべき事を注意しているだけなのだ。
 弦一郎は自身にそう言い聞かせつつ、大きく息をついた。
「そうそう、真田くん!」
 自分の席に戻った弦一郎に、が何かを思い出したようにやってきて声をかけた。
「何だ?」
 いつもの癖で、眉間にしわをよせて顔をあげる。
「今日、幸村くんのとこ、行くよね? 昨日から入院してるんだっけ?」
 は彼のそんな表情にはもう慣れたのか、気にする様子はなく続けた。
「そうだ。病院の方に行かねばならんな」
「私、場所わからないんだけど、真田くんが知ってるなら、今日は真田くんが行ってくる?」
 遠慮がちに言うに、弦一郎はしばし考えをめぐらせて答えた。
「来週は終業式だ。俺はまた試合前に幸村の元を訪れようが、お前も手術前に一度くらい顔を見せておいた方があいつも喜ぶだろう。今日も一緒に行くとしよう」
 彼が言うと、は素直に肯いた。
 結局、このところずっと精市への届け物にはと二人で行っていた。
 精市は、が気安く訪れる事をきっと喜んでいるだろうと、弦一郎は感じていた。そうやって彼女が気安く訪れるためには弦一郎が同行する方が良いようで、それで本来だったらどちらか一人が行けば良いような役目を二人で行っていた。それでよかったのかどうか、弦一郎にはよくわからない。が慣れたようなら、また一人で行かせればよかったのだろうか。今日も、病院の地図を渡して一人で行かせる方が良いのだろうか。
 彼にはどうにも判断がつかなかった。
 が、ただ一つ言えるのは、と二人で精市の元を訪れるのは、弦一郎自身にも大切な時間になっていたという事だった。
 結局のところ、彼自身がそうしたかったのだと、その事だけはどうにもごまかしようがなかった。
 そんなぬるい気持ちを振り払おうと、彼は眉間にしわを寄せたまま手元の教科書に目を落とす。



 部活を終えた後、いつものように校門で弦一郎とは待ち合わせた。彼女が弦一郎より少々遅れて来るのには彼もすっかり慣れて、もはや小言を言うのも諦めてやめていた。
 それでも彼女は以前どおり、『ごめんごめん』と言いながら走ってくる。
「今回は届ける資料多いから、忘れてるのないかなー」
 歩きながらは茶封筒の中をあらためた。
「そんな事は、学校を出る前に確認しておかんか」
「いや、一応見たんだけどね、うっかりしてないか心配で」
 は言いながら、中身を確認すると封筒を鞄に仕舞った。
 弦一郎は、精市が入院している病院には以前の入院時に何度も訪れており、場所も病棟もよくわかっていた。
 バスに乗って病院に着くと、弦一郎は慣れた様子で病棟に上がった。は病院には慣れていないようで、心配そうに周りを見渡しながら弦一郎の後を追う。
精市の入院している病棟へ行くと、ちょうど面会客の多い時間で、小児科病棟であるそこのデイルームはエレベーターホールはにぎやかだった。この時期は、夏休みを機会に治療に入ったり手術を受けたりする患児も多いようだ。
弦一郎は、慣れた様子で詰め所に挨拶をして精市の病室を訪れた。
個室の扉をノックすると、聞きなれた穏やかな声。
扉を開けて病室をのぞくと、寝衣をまとった精市が微笑んでいた。
弦一郎は精市が入院している姿を何度も見ており、慣れているはずだったのに、一気に病人の雰囲気をかもし出すこの環境はやはり苦手だった。
少し前まで、自宅の庭で笑っていた精市。
座って話している分には、どこが悪いのかなどまったくわからないくらいだったのに、今はまるでか弱い少年のように見えてしまう。
 ちらりと隣りのを見ると、彼女は精市のこのような姿を見るのは初めてのようで、少々戸惑ったような心配そうな様子だった。
「良い部屋じゃないか」
 窓の広いその部屋を見て、弦一郎は言った。
 精市はくくっと笑う。
「ま、どんな部屋でも同じだけどね」
 部屋の中に並んだ彼の私物はよく整理されていて、その必要最低限に揃えられた物品は入院慣れした様子が伺える。
「あ、幸村くん、これノートのコピーとか資料」
 がはっと気付いたように、精市の傍に行って手渡した。
 精市はベッドの端に腰掛け、それを受け取った。
 弦一郎はパイプ椅子を二つ出してきて、に腰を下ろすよう促す。
「……、病院とかあんまり来た事ない?」
 彼女の緊張した様子を感じたのか、精市はちらりと顔を上げて言った。
「うん、実はそうなの。身内で入院したってのもないし、こういう病室とかってね、初めて来るからなんか緊張する」
「そうか、慣れないと病院っておっかないよね。でもここ小児科病棟だから、結構小さい子もいて賑やかで楽しいよ」
 精市はそうやってに声をかけながら、ノートのコピーや資料に目を通す。
「夏休みの間についての資料はまた追加があるだろうから、来週、部の奴らと来る時に俺が持ってくる。部費の配分予定の資料は入っているだろう?」
 弦一郎に言われて、精市は中の資料をぱらぱらとめくってそれらしきものを探す。
 すると、あっ、というの声がして、彼女は自分の鞄をさぐった。
「ごめん、予算編成の資料、コピーし忘れてたよ」
 そう言ってファイルをめくる彼女を、弦一郎は険しい顔で見る。
! そのファイルも持ち出し禁だと言っておいただろう!」
「ごめん、学校でコピーしてそのまま教室に返すの忘れて持ってきちゃった。ええと、予算の資料これだよね」
 ファイルをめくって、弦一郎に示した。彼は眉間にしわを寄せたまま肯く。
「じゃあ、私、下の売店でコピーしてくる」
 ファイルを持って立ち上がる彼女を、弦一郎は制止した。
「待て! ファイルごとではなく、必要な分だけを持っていけ!」
 彼の言葉にはあわてて引き返し、ファイルからその予算の資料だけを取り出した。
「じゃあ、ファイル、真田くんが預かっておいてね」
 そう言って、二人に手を振るとあわてて病室を出て行った。
 精市は笑顔で彼女の後姿を見送ると、また弦一郎の顔を見た。
「楽しそうだね」
「何がだ?」
「真田と、だよ」
「別段、楽しくなどない」
 まるで心を見透かされたようで、弦一郎はびくりとし、険しい表情でそれを隠した。
「真田は、を好きだろう?」
 続く精市の言葉に、弦一郎はその表情を一層険しくして彼を睨みつけた。
「幸村! 一体、何を言い出す!」
「ふふ、思っている事をそのまま言っただけだよ」
「馬鹿な。そもそも、の事は幸村、お前が……」
 言いかけた弦一郎の言葉を、精市はいつもの冷静な何を考えているのかわからない笑顔でさえぎった。
「俺がを好きだったら、こんなにボヤボヤして時間を無駄にしたりしないよ。ねえ、真田。もし、俺が死んだらどうする?」
 精市の言葉は、またしても弦一郎を激昂させた。
「幸村! お前は、一体何が言いたいんだ!」
「死んだら、どうする? 泣いてくれでもするのか?」
 弦一郎の様子に構わず精市は穏やかに笑う。が、その目はしんと静謐で真剣だった。
「お前が自分でも言っていたように……死ぬような手術ではあるまい」
「別に、今回の手術でなんて話じゃないさ」
「そんな馬鹿馬鹿しい話など!」
 言いながらも、弦一郎は考えた。
 もし、死んだら? 精市が死んだら?
「まだ時間はあるだとか、これが終ったらだとか、そういう事はね、言い訳なんだよ」
 弦一郎の頭で答が出る前に、精市の言葉が続いた。
「立海の三連覇は、どうしても俺たちの手でこの夏にしなければならないようにね、この世には後のない事の方が多いだろう。時間が永遠にあって待ってくれているのだと思う奴は、そうやってただ座ったままで年老いて行けばいいんだ」
「俺はそんな風になど思っていない」
「ああ、わかっているよ。真田はそういう奴じゃない」
 精市はベッドから立ち上がると、窓の外を眺めた。
 弦一郎は椅子に座って、膝の上で握り締めた両の拳を見つめ、二人は黙ったまま時間が流れていった。

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2007.11.19

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