● 死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ(5)  ●

 二人の間で、どれだけ沈黙が続いただろうか。
 時間の流れが弦一郎の体にゼリーのようにまとわりついて来た頃、それを切り裂くように病室の外から軽い足音が近づいてきた。

「遅くなってごめん、やっぱりちょっと迷っちゃって」

 ノックの音とともに、が病室に入って来た。
「はい幸村くん、これ予算編成についての資料のコピー。真田くん、原本返しておくね」
 は弦一郎の手からファイルを奪うと原本をファイルに戻した。
 弦一郎はそしらぬ顔でそれを受け取ると、椅子から立ち上がった。
「……じゃあ、そろそろ帰るか。病院の夕食は早いからな、もうすぐだろう?」
 に一言告げると、精市の顔を見て同意を求めるように言う。
そして、あわてる風でもなく二つのパイプ椅子を片付けた。
 はそんな彼を、少々意外そうに見つめる。
「うん、二人とも、気をつけて帰ってくれ」
 静かに言って笑う精市に、があわてて改まって向かい合った。
「幸村くん、手術……」
 そしてしばし言葉につまる。が、精市はせかす事なく穏やかに見守ったまま。
「大変だと思うし私には何もできないけれど、また教室で一緒に過ごせるのを、本当に待っているから」
 ゆっくりとそれだけを言って、はじっと精市を見た。何か言葉を探して、それでもうまく見つからないような、もどかしそうな顔だった。
 精市は満足そうに目を閉じると肯いて、そして一瞬弦一郎に視線を移し、またを見た。
「ああ。じゃあ、またね」
 いつもと変わらぬ表情で、精市は二人を見送る。
「うむ、では精市、俺はまた来る。待っていてくれ」
 病室を出る前に弦一郎は精市をまっすぐに見て、そう告げた。精市は何も言わず、微笑んだまま肯くだけ。
 
 黙ったままの二人は病棟を降りて行った。
 弦一郎の頭には、精市と二人で話した時の彼の言葉が何度も蘇る。
 精市はなぜ、あんな事を言い出したのだろうか。
 そして、なぜ弦一郎は彼の言葉を一笑に付す事ができなかったのだろう。
 そう自分に問いかけつつも、その理由を、弦一郎はまったくわかっていないわけではなかった。そして精市の問いは、あいまいなまま流して良いものではないという事もわかっていた。
 病院の出入り口の向かうと、外からサイレンの音が聞こえ、徐々に近づいて来てそれがピタリと止まった。
 救急車だろう。
 二人が病院を出たところで丁度救急車のドアが開き、中から患者が搬送される瞬間だった。どういう状況かはわからないが、若い男性がストレッチャーで運ばれ、そしてその家族とおぼしき数名が心配そうな固い表情で後を追っていた。
 ふと隣を見ると、が不安そうな顔でぎゅっと拳を握り締めていた。
 弦一郎は歩くスピードを早め、と足早にその場を去った。
「……びっくりした」
「ああ、そうだな」
 はふううっと大きく息をつく。
 しばらく、そのまま黙って歩いた。
 バス停の手前に自動販売機があり、弦一郎はそこで足を止めた。
「何か、飲むか?」
 は少し驚いたような顔をして彼を見て、そして彼に倣い足を止めた。
 彼女の返事も待たず、弦一郎は自動販売機でスポーツドリンクを二本買い、一本を差し出す。
「……ありがとう」
 それを受け取ったはペットボトルのキャップをキュッと開け、その場で少しずつ飲んだ。しばらくすると、彼女はそれで落ち着いたようだった。
「なんだかね、私……」
 飲みかけのペットボトルを持ったまま、は戸惑ったような顔で静かにつぶやいた。
「ずっと、『病気になった幸村くん』に、どう接したら良いかわからなかったの。幸村くんは、あんなに何でもできてテニスも強くて元気だったのに、突然にあんな事……。なんだか、こわくなって」
 ゆっくりと話すの言葉に、弦一郎はさえぎる事なく耳を傾けた。
「勿論、幸村くんはいつでもずっと落ち着いてて、取り乱したりなんかしなくて、いつも通りなのに、馬鹿みたいに私だけが不安になって戸惑っちゃってね。何がこわいのか、よくわからないんだけど……。私は病気したことないし、周りにもそんな人いないし、どんな気持ちなのかわからなくて……何て言ったらいいのかわからない。頑張ってっていうのも、きっと良くなるよ、なんていうのも、なんか違うしね……。きっと、幸村くんはいつもどおりに普通に接してもらいたいんだろうなって思うんだけど、なんだかうまくいかなくて、私ってダメだなーって思ったよ」
 弦一郎はごくごくとスポーツドリンクを飲み干す。
「……幸村の気持ちなぞ、幸村にしかわからん。俺にもわからん」
 そして強く言い放った。
「他人にできる事なぞ、ない。ただ俺は勝つだけだ。それだけしか、できん」
 空になったペットボトルをゴミ箱に放る。さあ行くぞ、と促してもはしばらく立ち止まって彼を見上げたままだった。
「……そっか。私も、走ってればいいかなあ」
「うむ、そうだな。それが良いと思うぞ」
 弦一郎が言うと、はほっとしたように表情を緩める。
「幸村くんのところに、真田くんが一緒に行くとね、いつもほっとした。別に何を言うって訳じゃないんだけど、きっと幸村くんと真田くんはいつもこんな風に話してたんだなあって気がして、そんな幸村くんが見られてよかったし、真田くんってやっぱりすごいんだなって思ったよ」
「俺は別になにも、すごいと言われるような事などしておらん」
 ぎゅっと眉間にしわを寄せて言うと、はふふっと笑った。
「真田くん、いつも言ってるじゃん。普段から気を引き締めて行けって。真田くんは、どんな時でもきちんといつもどおりでいられて、それが、本当に周りを安心させるんだなって、そういうところがすごいって言ってるの」
 彼女の穏やかだけれどまっすぐなその目に、弦一郎が言葉をつまらせていると、丁度バスがやってくる。
 二人は慌てて走ってバスに乗り込み、病院を後にした。



 その日の夜、弦一郎は寝所に入ってもなかなか寝付けなかった。
 昼間の精市の言葉が、幾度も幾度も頭の中で繰り返される。
 弦一郎がに懸想するような気持ちなど一時的なもので、今はそのような事を考えている時ではないのだと、そう自分で自分に言い聞かせていた彼の心内をありのままに見透かす意味を含んだ、精市の言葉。

 精市が死んだら、どうするか。
 だと?
 死んだら?
 その問の答えを、弦一郎は頭の中で考える。
 反対に、弦一郎が死んだら精市はどうするのか?
 また、が死んだら? 
 死んだら?
 
 正体の分からない実感のわかない、イメージだけのその『死』という言葉は、少年にただただ言いようのない不安をもたらす。
 そして自分に与えられた時間というのは、長いのか短いのかという疑問。
 
 まだ時間はあるだとか、これが終ったらだとか、そういう事はね、言い訳なんだよ。

 精市の言い放った言葉が何度も頭の中で再生される。
 15歳の、この上なく健康な少年に『時間がない』など、誰が考えようか。
 しかし、弦一郎には精市の言葉は痛い程に実感できた。


*********


 7月も半ばを迎え、夏休みまでの日にちも数える程となった。
 テニス部のトレーニングのインターバルに弦一郎がドリンクを飲みながら顔を上げると、がトラックを走っているのが見える。運動部では夏を前に引退をする三年生も多いが、は結局続けるようだ。800メートル走の終盤なのだろうか、彼女は苦しそうな顔でそれでもしっかり前を見てスピードを緩めず走りつづけていた。一人、地面を蹴りながら。死にそうになるのだ、と言っていた事を思い出す。
 空気を切るように走り抜け、そして徐々にスピードをゆるめた。肩を大きく揺らしながら、クールダウンでゆっくりとトラックを走った後、少しずつ歩き始める。
 弦一郎はドリンクを持ったまま、彼女がクールダウンしているトラックへ足を向けた。

「調子はどうだ?」

 彼が声をかけると、やっと呼吸が落ち着いたらしいは笑って顔を上げた。
「ぼちぼちかな。全国は出られないけど、秋の記録会はエントリーする事にしたから、ちょっとこの夏の間も真面目にやろうかなって」
「そうか、それがいい」
「テニス部、準決勝も勝ったんだって?」
「当然だ」
 当たり前のように言う弦一郎に、はそうだね、と笑う。

 そして、弦一郎は彼女の名を呼んだ。
 そのいつもの低いはっきりした声に、うん? とは顔を上げる。

「……は、もし俺が死んだら、どうする?」

 彼の唐突な問いには目を丸くし、そしてきゅっと眉をひそめた。
 精市の病院で救急車を見かけた時のような表情。
「死んだらって、何、急に? どういう事?」
「俺が死んだら、お前はどうする?」
 弦一郎は続けた。
 は落ち着かない顔で、うつむいたり彼の顔を見上げたりして不安そうな表情をするが、また眉をひそめて怒ったような顔になり言った。
「突然、おかしな事を聞かないでよ」
 それでも弦一郎は変わらぬ表情でじっとを見る。そのまま何も言わない彼に、は戸惑ったようで、何かを言おうと口を開いては考え込んでしまう。
「じゃあ、真田くんは、例えば私が死んだらどうなの。泣いてくれたりするの?」
 そして困ったように続けた。
「俺か?」
 弦一郎はじっと彼女の目を見据えた。
「俺は、お前が死んだら泣いたりなどせん」
 低く静かに響く声で言った。

「お前が死んでも、涙など出ないくらい悔いなどないくらい、生きる事を共有したい。だから、お前も、もし俺が死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ」

 依然としてを睨みつけるようにさらりと言う彼を、彼女はぽかんと口をあけて、目もまん丸にして見上げる。
 弦一郎は眉間のしわを深くし、ドリンクのボトルをぎゅっと握り締めた。
「……それはお断りだというのなら、別に構わん。それでは、練習の邪魔をしたな」
 そしてそう言い捨てると、くるりと踵を返し、テニスコートに向かう。
「ちょっと、真田くん!」
 背後から響くの声に、弦一郎は足を止めゆっくり頭だけ振り返った。
「言うだけ言って、行っちゃうの?」
 は戸惑ったように、こめかみのあたりに手を当てながら一歩二歩彼に近づく。
「真田くんの言った言葉の意味を考える時間くらいちょうだいよ」
「……考えねばわからんような事か」
 不機嫌そうに言う彼に、は何度も自分のこめかみのあたりをさすっては困ったように瞬きをしてそして、笑った。
「真田くんねえ、こんな時くらい説教モードじゃなくて、何か優しい言葉とかないの?」
 うつむきながら小さな声で言う彼女を、弦一郎はぎゅっぎゅっと帽子の鍔をもてあそびながら見守る。
「無理だ。俺は、そんな言葉を知らない」
 自分勝手ね、と言いながらの手が弦一郎の背を押し、彼はと並んでグラウンドを歩き出した。初めて彼に触れたの手は、ジャージの上からだったので暖かいのか冷たいのかもわからない。けれど、すうっと彼の背を押したその手は思ったよりしっかりと力強くて、きっと彼をその胸に掻き抱くには十分な力があるだろうと、弦一郎は思った。


********


 さて夏休みも真っ盛り、立海大附属中学テニス部は、関東大会を準優勝で終え全国大会への出場を決めた。
 準優勝、つまり決勝で敗北を喫したのだ。
 が初めて観た弦一郎の試合は、負け試合であった。
 弦一郎は自分がすべき事はわかっていた。
 死にも等しい己の敗北を一から十まで認め、全身の毛穴が開くくらいに憤怒し悔しがる事だ。
 そして、己の全てをかけて次なる『生』つまり勝利をむさぼりに向かう事。
 暑い盛り、少年達は彼らにとっての『生』の象徴である『勝利』を手に入れ損ねた。
が、そんな彼らの元へ、幸村精市は軍神のように輝かしい命を携えて再び舞い降りたのだ。
 蘇った精市は、彼らにとって次なる勝利の象徴であった。
 弦一郎はテニスコートの精市を、そしてチームの皆を見つめる。
 一時の無駄もなく全てを出し切って、彼らとこの夏を過ごすだろう。
 誰が死んでも、泣く気にもならぬくらいに。
 グラウンドを見渡すと、暑い中あいかわらずトラックを走っているの姿が見える。
 時折そんな彼女を見つめる精市のまなざしは、あいかわらず優しげで、そしてほんの少し寂しげだ。
 いつだって精市の言葉には迷いがない。しかし、その本当の心は弦一郎にはやはりわからなかった。

 ただ、あの日、精市が弦一郎に尋ねた問への答え。
 弦一郎は結局答えぬままだった。
 けれど自分の答は精市に伝わっているのだと、弦一郎は確信を持っている。
 それだけは、それだけははっきりとわかるのだ。

(了)
「死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ」

2007.11.20

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