● 死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ(3)  ●

 翌日、授業が終って生徒が各々部活動に向かう時、弦一郎はに声をかけた。

 案の定、いつものように驚いた顔で振り返った。
「ああ、真田くん、なあに?」
 弦一郎は軽くため息をついて、テニスバッグを肩にかけた。
「昨日は悪かったな。俺が幸村と話し込んでしまって」
 は、なんだ、というように柔らかく笑った。
「ああ、そんなの別にいいよ。だって、そりゃいろいろ話したいでしょう?」
 言いながら彼女も鞄を手に持ち、どちらからともなく二人で部室棟の方へ向かって歩き出した。
「幸村くんの家の庭って、広くてすごく手入れされてるよねえ。いつもちらっとしか見てなかったけど、昨日じっくり見てびっくりしちゃった。テレビに出てくる、外国の庭みたいよね」
「……いつも、中に入って行かないのか?」
「あ、うん、そうだね。だって、幸村くんが疲れるといけないし……男の子の家って、ちょっと緊張するし。クラスメイトだし、別になんてことないのにねぇ」
 弦一郎の問いに、は恥ずかしそうに笑った。
「あっ、テニス部の関東大会っていつからなんだっけ?」
 グラウンドに向かいながら、は思い出したように尋ねた。
「7月13日から、三週にわたっての週末だ」
「そうなんだ。じゃ、丁度幸村くんの入院する期間になるの?」
「ああ、そうだな」
「そっか……」
 弦一郎は昨日の精市の言葉を思い出した。
「そういえば幸村が、の試合はどうだったろうかと、気にしていた」
 弦一郎が言うと、は歩くスピードを少し緩め、複雑そうな顔でグラウンドを見てから弦一郎をちらりと見た。
「ああ、うん……ミスしちゃってね、標準記録に達しなくて……全国中学陸上は出られないんだ」
 は静かに言って、弦一郎をちらりと見た後またグラウンドに視線を向けた。
の種目は……長距離だったか?」
 あの時、バックネットのところにいた彼女を思い出しながら、弦一郎は尋ねた。
「ううん、800メートル。一年の時は長距離だったんだけどね」
 くすっと苦笑いをする。
「初めて800をやったとき、死ぬかと思った。すごいしんどいもん。長距離の時よりももっとスピードつけて、そのままでずっと走り抜けないといけないし。しんどいからって、ちょっとでも甘くすると愕然とするくらいタイムは落ちるし。いつも、本当に死にそうになる」
 いつしか二人は、歩く足を止めていた。
「……でも、死にそうな方がいい。負けたら、本当に死んだみたいな気持ちになる」
 は静かな声で言いながら、きゅっと眉をひそめた。滅多に見ない、彼女のひどく険しい表情だった。
「親も先生も、また高校で十分頑張れるって言うけど、そんな言葉には意味ないのにね」
 トラックをみつめてつぶやくは、あの、バックネットのところで佇んでいた時のチリチリとした表情。やりきれない悔しさと行き場のない激しい熱とをもてあます、強い顔。
「……そうだな」
 弦一郎は彼女の隣りで立ち止まったまま、静かに言った。
「負けた者には、余計な言葉はいらん」
 彼の言葉に、は視線をトラックから弦一郎に移した。
 じっと彼を見上げて、そしてふわりと笑った。
「うん」
 そう言って何度か深く肯くと、彼に手を振って歩き出した。
「じゃあ、練習、頑張って」
 彼女が陸上部の部室に向うと、弦一郎は何も言わず帽子をぎゅっと目深に被ってテニスコートに向かった。




「真田くん!」
 教室で休み時間に数学の予習をしていると、が声をかけてきた。
「ああ、何だ」
 彼が答えると、はファイルを出してくる。
「この前、クラス委員の集まりで資料が配られたでしょう? これって、クラス全員に配布してるわけじゃないけど、幸村くんにはコピーした方が良い? どうする?」
 弦一郎は提示されたファイルの資料に目を落として少し考えた。
「そうだな。部の予算にも関係してくる資料だから、幸村は目を通したいだろう。コピーしておいてくれ」
「うん、わかった」
 ファイルを閉じて戻ろうとする彼女を、弦一郎は呼び止める。
「今日は部活が終った後、大丈夫か?」
「うん? 大丈夫よ。幸村くんとこ、行く?」
「ああ。ノートもたまってきているんでな」
「うん。じゃあ、また門のところでね」
 は嬉しそうに笑って言った。
 あれから、精市の家に資料を届ける時は二人で行く事が多くなっていた。
 弦一郎は、精市の心の内もわからないが、のそれもやはりわからない。
 は、弦一郎と一緒に精市の家へ行く事が嬉しいのか? それとも、弦一郎が一緒ならば精市の庭でゆっくり過ごす事がたやすいから、嬉しいのか?
 そんな事を考えてしまうたびに、彼は不機嫌になる。
 弦一郎は男女の間に関する事には長けていないし、そして当然、一度異性を気にし始めた自分を扱う事にも長けていなかったからだ。


 部活を終えてを待つために校門のところで立ち止まった弦一郎は、腕時計を見た。
 彼が先に来て待つのは毎回の事だった。
「ごめんごめん!」
 そして、が一生懸命に走ってくるのも毎回の事だ。
「遅い!」
 弦一郎のいつものセリフ。
「部活はちゃんと時間どおりに終って来てるんだけど」
「俺もそうだ! なのに、は毎回俺よりも平均3分以上は遅いではないか!」
 険しい声で続けた。
「だから、ほら、女の子の着替えはどうしても時間かかるんだってば。下校時間にはギリギリじゃないし、いいじゃない」
「着替えなど、すぐ済むだろうが! 俺ができる事を、どうしてができん! 一体何をやって時間をかけているんだ!」
 怒鳴りつける弦一郎を、はやれやれといった顔で見て笑った。
「何って真田くん、女の子が女子更衣室に入ってどうやって着替えをしてっていう段取りの一部始終を話せって言うの? それはちょっと、イヤラシイんじゃない?」
「何だと!?」
 眉を吊り上げて顔を赤らめ、大声で怒鳴る弦一郎に、またはおかしそうに笑った。
「冗談よ。でも、ほんと、3分くらい遅いの勘弁してよ。これでも私、早い方なんだから」
「……まったく、たるんどる! だいたい、お前は……」
 弦一郎が更に説教を続けようとすると、背後から耳慣れた声がした。
 振り返ると、柳蓮二だった。
「ああ、どうした蓮二」
 蓮二は穏やかな表情で、口元を少々ほころばせながら二人を見た。
「弦一郎、今日は精市のところへ行くのだろう?」
「そうだが」
「じゃあ、これも届けておいてくれないか」
 彼はきっちりファイリングされたコピーの束を弦一郎に差し出した。
「県大会での試合内容の記録だ」
 試合の組み合わせから、試合の細かい流れなどがきっちりと丁寧に記された資料だった。
「予定通りに効率の良い試合ができたからな、精市も安心するだろう」
 弦一郎はそれを受け取り、大切そうに鞄にしまった。
「わかった。責任を持って届けておく」
 頼んだ、と言って蓮二は微笑む。
「じゃあ、話が盛り上がっているところ、悪かったな」
 そして、二人を見比べてふっと笑った。
「別に盛り上がってなどいない。の不心得な点を注意していただけだ」
「そうか、じゃあ存分に続けてくれ」
 彼はおかしそうに笑うと、二人に手を振ると帰路についた。
「……柳くんだっけ? いつも試験の成績、上位だよね。やっぱり賢そうな顔してるねぇ」
 感心したように言うに、弦一郎は説教の続きをする気も失せて軽くため息をついた。
「ああ、蓮二は参謀と言われるほどに、あらゆるデータを統括してテニスに生かしてゆく高い能力の持ち主だからな」
「へええ」
すごいねえ、と言いながらは歩き始める。
弦一郎もそれに倣った。
 弦一郎が事あるごとにに小言を言うのは相変わらずだ。
 が、二人で精市の家へ行く回数を重ねるにつれ、弦一郎がに声をかけた時の彼女の身構えるような表情は薄れ、また自然と教室で会話をする事も増えて行った。
 蓮二には、二人がどう映ったのだろうか。ふと、弦一郎はそんな事を頭に思い浮かべる。


「ほら、真田も食べてみなよ」
 その日、精市の家の庭で、彼は二人に庭で収穫したブルーベリーを出してくれた。
 不ぞろいではあるが、見事な粒の果実だった。
「こっちは凍らせてあるんだけど、結構旨いよ」
「へえ、ちゃんと実がなったんだ!」
 はものめずらしそうにつまんで、一粒口に入れた。
「……思ったより甘い!美味しいねえ」
 そう言いながら、本当に美味しそうにぱくぱくと食べた。
 弦一郎も一粒つまんで、少し考えてから口に放り込んだ。
「ほう、なかなか旨いな」
 その鮮烈な酸味と甘味に弦一郎は目を丸くする。
「そうだろう?」
 三人は、しばし学校の事や授業の進み具合の話などをして時間を過ごした。
「そういえば、来週には入院だったな?」
 弦一郎ははっと気になっていた事を口にした。
 週末には関東大会が始まるが、その後すぐに精市の入院が控えていたのだ。
「ああ、予定どおりだよ」
 彼は相変わらずの穏やかな表情で答える。
「ええと、手術、するんだっけ?」
 がおずおずと尋ねる。彼女は普段、精市の病状について尋ねる事をはばかっている様子だった。
「うん、その予定だ。丁度、関東大会の決勝の日だね」
「ああ、そうなんだ」
 はちょっと驚いた表情で二人を交互に見た。
「心配せずとも、お前が手術を始めるまでには、俺たちは優勝を決めているだろう」
「ふふ、別に心配なんかしてないよ。いいチームに仕上がっているみたいだからね」
 当然のように勝利を確信した表情の精市は紅茶を飲みながら微笑むと、満足そうに庭を眺める。
 精市の受ける手術は、その手術自体はさほどリスクの高いものではないが、それによって思ったように症状が緩解するのかどうかは確実ではないのだと、以前に弦一郎は聞いていた。それゆえ精市自身、手術を受けるか否かしばし迷っていたのだという事も。
 この、目の前で穏やかに微笑む少年は、夏を前にどんな気持ちで病院に向かうのだろうか。弦一郎には、やはりわからなかった。


 ブルーベリーを手土産に、弦一郎とは精市の家を後にした。
 精市の家に行った帰りは、めいめいの家への分かれ道まで一緒に帰るのが、このところの習慣だった。
「……幸村くんの手術、無事終って早くチームに戻れるといいね」
 の言葉は月並みではあったが、心底そう念じているのだという事は伝わってきた。
「ああ、そうだな。俺たちは、無敗のままそれを待つばかりだ」
 弦一郎は低く静かな声で、力強く言った。
「うん。勝ってれば、きっと……」
 はそこで言葉を切って、しばらく黙って歩きつづけた。
「ねえ真田くん、以前、グラウンドのバックネットのところで……」
 言いかけた彼女を、弦一郎ははっとして見た。はまた言葉を切って、そのまま歩きつづける。
「バックネットのところで、私が泣いていたの、見たでしょう」
 彼女の言葉に、弦一郎はどう答えたら良いか戸惑ってしまい、黙ってぐいと帽子のつばを下げるとこくんと肯いた。
「あの時……、あの後も……何も言わないでいてくれてありがとう」
 弦一郎の中には、あの時の自分の気持ちが蘇り、戸惑ったまままた黙って肯く。
「でも、なんだろう……どうしてか、きっと真田くんは、わかってくれてるんだろうなって、思った」
 そう言うと、は照れくさそうに笑って弦一郎を見る。いくら弦一郎が帽子を目深に被っても、彼よりはるかに身長の低いの視線をさえぎる事はできなかった。
「あの時は、悔しくて、自分がふがいなくて、もう走るのもやめてしまおうと思っていたけれど、あと一回走ったら……もう一度タイムを測ったら……って毎日思いつづけて、結局まだやってる。毎日、自分が失敗した事、負けた事はイヤになるくらい思い知らないといけないけれど、今はやっぱりまだ走ろうと思う」
 負けるなど許されない事だと、弦一郎は思っていたし今もそう思っている。
 けれど、の言葉は、決して敗者の言い訳という風でなく不思議に弦一郎の心に響いてきた。
「うむ、そうか」
 人の気持ちがわかるなどというのは、驕りだ。
 彼はこのところそう感じているのだけれど、今だけは、の気持ちがわかるような気がした。
 そして、彼がそう思っている事をもわかっていると、なぜだかそう感じていた。
 二人は心地よい沈黙のまま、夏の夕暮れを歩きつづける。

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2007.11.9

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