● 死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ(2)  ●

 学校を出てから、弦一郎とは幸村の自宅の方向へ歩いて行った。
「幸村くん、具合どうだろうね」
 は心配そうにつぶやいた。
「このところ、概ね落ち着いていると聞いている。7月の17日に入院をして、その後手術の予定らしい」
「そうなんだ! 全国大会、間に合うといいねえ!」
「間に合うに決まっている。幸村だぞ」
「あと、その前に関東大会だっけ」
「それも勝つに決まっているだろう。我々立海に負けはない!」
 じんわりと蒸し暑い夕暮れをそんな話をしながら歩いて、二人は幸村精市の家にたどりついた。
 幸村家の門の呼び鈴を鳴らすと、中から線の細い少年が出てきた。
「やあ、。ああ、今日は真田も一緒か」
 嬉しそうに笑う姿勢の良い少年、それが幸村精市だった。
 彼は二人を庭に入るよう促す。はちらりと弦一郎を見上げ、彼が軽くうなずくと精市の招きに応じた。
「いつも悪いね」
 庭に置いてあるテーブルで、彼の母親が出してくれたアイスティーを口にしながら、精市は二人を見て微笑んだ。
 柔らかい笑顔の少年だが、全国一を謳われる立海大附属中テニス部の部長を務めるトップ選手だ。
 精市はから手渡された茶封筒の中から、まず議事録を取り出すと目を通した。
「ええと、これは一通り目を通したら、その場で破棄するんだよね?」
 言って、ふふっと笑うと彼は弦一郎とを交互に見た。
「そうだ。クラスの議事録とはいえ、重要書類だ。原則持ち出し禁なのだからな。、いつも目の前で破棄するまで見届けているのだろうな?」
 弦一郎はキッとを睨みつけた。
「ああ、もちろんそうしてるよ。そうしないと、が真田に叱られるんだろう?」
 が何かを言う前に、精市はクスクスと笑いながら議事録のコピーをビリビリと引き裂いて、庭のゴミ箱に処分した。
「うん、でも普段から叱られてばっかりだけどね」
 が笑って言うと、弦一郎はいつものように険しい顔で答えた。
「俺は別に叱っているわけではないだろう。当たり前の事を、当たり前に言っているだけだ」
「真田は融通がきかないからね」
 これまた、が何かを言う前に、精市がおかしそうに笑って言うのだった。
 そして椅子にもたれて、ふうっと満足そうに庭を眺めた。
 春に貰ってきて植えたのだ、というブルーベリーの苗はぐんぐん伸びて花をつけていた。
 精市は、ここでこうして庭の木々や花を見るのが好きなのだという。
 体調を崩す前の彼は、朝練に出かける前に庭の手入れをしてから出かけていたものだったが、このところは母親にまかせっきりだ。
「けど、真田がと一緒に来てくれるのは久しぶりだね。クラス委員なんだからさ、いつも一緒に来たらいいのに。一人だと気をつかって、こうやってお茶も飲んで行ってくれないんだよ」
 精市はぱらぱらと弦一郎のノートのコピーをめくりながら言った。
「……ああ、そうだな。なかなかタイミングが合わなくて、すまん」
 冷たいアイスティをぐっと一気に飲んで、弦一郎はつぶやいた。

 幸村精市とは、二年の時も同じクラスだった。
 男女の事には疎い弦一郎だが、精市がと話をする時いつも楽しげな様子なのを感じていた。以前は何度かと二人でこうして精市に届け物をしていたのだが、弦一郎なりに、これは一人に行かせた方が良いのではないだろうかと思い、ここのところずっと彼女に届け物の役目を任せていた。当初弦一郎は、すでに精市とは男女の付き合いをしているのだろうと思っていたのだが、はいつも精市の治療の予定やテニス部の事を彼からは聞いていないようで、折に触れて弦一郎に尋ねて来るし、どうやら付き合いに至っているわけではないらしいと、彼も思い始めていた。
 また、彼女を『』と親しげに呼ぶのも、どうも精市だけではなく二年の時に同じクラスだった者の習慣らしい事にも最近気付いた。今回、久しぶりにと共に精市の家を訪れたのは、ふとその自分なりの気遣いが正しいのか、確認したいと思ったからだった。
 自分は気を回しすぎなのか? と、弦一郎は相変わらずの険しい表情で二人を交互に見比べるが、やはり精市のを見る目はひどく優しい気がするし、当然も、いつも小言を言うばかりの弦一郎と話すよりも楽しげな表情に見える。
 が、結局のところ彼に二人の気持ちはわからないし、余計な事を勘ぐって気を回すのは自分の柄ではない、と弦一郎はため息をついた。

「そうだ、幸村。関東大会の事なんだが……」
 弦一郎が話をしかけると、ことり、とがアイスティーのグラスを置く音がした。
「真田くんたち、いろいろ二人で話があるでしょう? 私、先に帰ってるね。これ、ご馳走様」
 はつい、とグラスを幸村の方に差し出して立ち上がった。
「そうか、ではまた明日な、
「悪いね、。今度はお菓子も用意しておくよ」
 は二人に手を振ると、幸村家を後にした。
 精市はその後姿を優しげな表情で見送り、ちらと弦一郎を見るとまた笑った。
「……関東大会、今年の出場校はどうだい?」
 そして、次に弦一郎に問い掛ける時の顔は、すでに部長としての精市の顔になっていた。
 穏やかではあるが、確実に勝利のみを追う王者の顔に。
「大きな変動はないな。決勝の相手はまず間違いなく跡部のいる氷帝になるだろう。他は、不動峰に九州の橘が入って、チームが大きく変わっているが所詮にわか作りだ。青学は……お前も聞いているかもしれないが、手塚の左腕が完調ではないという噂だ」
「……手塚ね……」

 精市は小さくつぶやいて、またふうっと椅子にもたれた。
 精市の病気は、いわゆる免疫系の疾患で全身の筋力が衰えてゆくという症状のものだった。特に夕方になると疲れやすいのだ、と以前耳にした事を思い出す。
 去年の冬、精市の身体に突然その症状があらわれた時、弦一郎は心臓をわしづかみにされたような衝撃を感じた。常に穏やかで冷静な顔をして、どんなトレーニングでもどんな試合でも眉ひとつ動かさぬ精市が、突然に呼吸を苦しがり倒れたのだ。そして、その病は先々彼の手足の自由をも奪う可能性があるという説明を聞いた。
 弦一郎は、常に勝負事は生か死かをわけるものなのだと考えていた。
 試合で負ければ、それは死んだも同然なのだ。
 生きるために、必死で勝たなければならない。
 が、病に倒れた精市の姿は弦一郎に、比喩的な意味ではなく本物の『死』を一瞬ながら、想起させた。
 勿論、きちんと治療に取り組めば、精市が死ぬような事はあるまい。
 しかし彼がテニスプレイヤーとして復帰できなかったら……弦一郎はもし自分だったら、と頭に思い描く。それは、『生体としての死』ではないが『真田弦一郎』としての何かの『死』に値するように感じた。15才の彼には、そうとしか思えなかったのだ。
 そして、残された者に何ができるのか。
 彼の頭に思い浮かぶのは、精市とチーム員との共通の『生』である『勝利』を完全に追い求める事しかなかった。
 精市がチームに復帰するまで無敗で待つと、副部長である弦一郎は誓った。
 誰も何も言わなかったが、誰もがいつしか彼らの一つ一つの勝利がそのまま、精市の完全なる『生』、つまり完全復帰につながっているかのような、ぴりぴりとした勝利へのこだわりを抱くようになっていた。
 精市の病が多感な年頃の少年たちに与えた衝撃と不安は、彼ら自身が、『生』につながる『勝利』でぬぐうしかなかったのだ。
 
 関東大会の顔ぶれの説明に続いて、弦一郎はレギュラーメンバー一人一人の仕上がりについて簡単に報告をした。
「そう、赤也も頑張ってるね」
「ああ。まだムラっ気があるが、蓮二が言うには、もう少し思うままにやらせて伸ばして行くのがいいだろうという事だ」
「参謀は、一人一人をよく見ているからね」
 精市は安心したようにふふっと笑う。
 弦一郎は、副部長として精市に何かを相談しに来るという事はほとんどない。
 伝えるのは、勝利の報告と部員一人一人の鍛錬の積み重ね具合だ。
 それらを淡々と当たり前のように報告する。
 口にはしないが、お前がいなくても勝てるぞ、早く治して戻らないとお前の居場所はなくなるぞ、だから早く戻って来い、とでも言うように。
「……強くなった皆と、全国に行くのは楽しみだな」
 弦一郎の心を見透かすように、精市は静かに続ける。
 そんな彼を見て、弦一郎はほっとすると同時に、ふと精市を遠く感じる。
 精市はいつも柔和な顔をしており、いつも自身の心内を容易に表わす事をしない。淡々としながら自分の思うままに動き、そして確実に勝利を手にする。
 そういうところになかなかかなわないのだと弦一郎は常々感じるのだが、しかし果たしてこのような、選手生命に関わる病を患った彼はどういう気持ちでいるだろう。
 ふと考えては、やはりそれを察する事ができない。精市の心の内は、いつもわかるようでいて、わからない。

「今は、どこの部も試合だろうね。そういえばも最近レースだったんじゃないかな。どうだったんだろう?」
 不意に精市はの名前を出してきた。
「……ああ、陸上部のレースか。さあ、聞いていないから知らないが……」
 弦一郎は、頭に刻み込まれている昨日のグラウンドでの彼女の姿を思い出した。
「多分、負けたのだろう。たるんどる」
 そして一言つぶやいた。
 精市は、ふうん、と弦一郎を見てまた庭に目をやった。
「……もうすぐ、ブルーベリーの実がなる。今度、来てくれる時はヨーグルトにでも入れて食べようか。また真田も一緒においでよ。その方が彼女も楽しそうだ」
「そうか? はいつも俺に小言を言われてばかりだから、楽しいわけはないと思うが」
 精市はまた笑って、それには答えなかった。
 その後、しばし他愛無い話をした後、弦一郎は庭に出てきた精市の母親に挨拶をして、その場を辞した。
 帰り道、様々な表情が彼の頭に思い浮かぶ。
 精市の穏やかな顔、何を考えているのかわからない顔、部長としての顔、の名を呼ぶときの楽しげな顔、弦一郎がを呼ぶときの彼女の驚いたような顔、そして昨日のグラウンドでの彼女のまっすぐな泣き顔……。

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2007.11.8

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