● 死んだ後に泣くくらいなら、生きているうちに抱きしめてくれ(1)  ●

 雨に色増す紅葉

 古い随筆に書かれていたそんな言葉を、季節はずれながら、弦一郎は頭に思い浮かべていた。
 テニス部のトレーニングを終えて、クールダウンにグラウンドを走っている途中、彼は野球のバックネットの手前で足を止めた。

 トレーニングウェアの女子生徒が一人、ネットをぎゅっと握り締めて佇み、泣いていたのだ。
 固くかみ締められた唇は、時に肩を震わせながら深い呼吸をするためにうっすらと開く。横顔から覗くその眼はキッと開かれて、涙はこぼれるままになっていた。髪の間からのぞくうなじは、うっすらとピンクで。

 弦一郎には、わかった。

 これは、悔し泣きだ。

 アスリートが一人で行う、誰も踏み込んではならない儀式だ。

 どういうわけだか、彼は瞬時にそう感じた。
 すぐにその場を去ろうと思ったのだが、彼の足は意に反してその場にとどまった。

 雨に色増す紅葉

 彼女を見た瞬間に思い浮かんだ言葉。
 泣いている彼女を美しいと、弦一郎は感じてしまったのだ。
 そんな目で見る『儀式』ではないと、わかっているのに。
 
 はっと、彼女が顔を上げて弦一郎を見た。
 弦一郎はびくりと、表情を堅くする。
「……ああ、真田くん」
 彼女は一瞬動揺した顔をするけれど、なんでもないように言ってちょこんと目礼をした。
「……もうすぐ下校時間になるぞ」
 弦一郎はそれだけを言うと、その場を走り出した。

 驚いたのだ。
 彼女があんな風に泣くなどと、思ってもいなかったから。
 いつも穏やかに笑って淡々とクラス委員の仕事をこなしている彼女が。



 翌日、教室で見かけた彼女……は、まるっきり普段どおりの彼女だった。
 仲の良い女子生徒と数人で、楽しげに声を上げながらしゃべっている。
 弦一郎はちらりと彼女を見ると、特に声もかける事もなく自分の席に向かった。
 は、弦一郎とクラス委員を務める関係上、女子生徒の中でも比較的口を利く機会は多かった。要領が良いというタイプではないが、割と真面目な方で、弦一郎が仕事を割り振ったりすると、相談をしつつもコツコツとこなしていたものだ。

!」

 昼休み、教室の後ろの保管庫を探った後、弦一郎はに向かって声を上げた。

「あっ、はいっ、何? 真田くん?」

 はびくりと驚いたように目を丸くして、自分の席を立ち上がると、保管庫のところまでやってきた。
「ホームルームの議事録のノート、お前が持っているんじゃないか?」
 弦一郎は眉をひそめて、保管庫とを交互に見た。
 ははっとして、口元に手を当てる。
「……あっ、持ってる持ってる、ごめん! この前書記した分、家で清書して、まだ持ったままだったんだ。ごめん!」
 あわてて自分の席に取りに戻ろうとするを、弦一郎は制止した。
「コピーを取ってからで良い。それから、また所定の位置へ戻しておけ」
 はこくこくとうなずいた。
「そっか、幸村くんの分ね」
 弦一郎は眉間にしわをよせたまま、うむ、とつぶやく。
「たかだかホームルームの議事録とはいえ、そういうものは家に持ち帰ったりするなと何度も言っているだろう。学内ですませろ。そもそも、下書きしてから清書など無駄な事をするな。最初からノートに記載しろ」
 険しい声で彼が言うと、は申し訳なさそうに笑いながらぺこりと頭を下げた。
「うん、ごめんごめん。私、書くの遅いから、一発でキレイにまとめられないんだよね。ぐちゃぐちゃと下書きしてからじゃないと。うん、これからはちゃんと学校で書いて行くよ」
 弦一郎はフンと鼻を鳴らして、これから気をつけろ、と彼女に言い放ち、自分の席に戻った。
 ちなみに、議事録持ち出し禁、については学内での決まりごとではないが弦一郎がクラスで取り決めをしている事だった。とは言っても、ホームルームの議事録などまず誰も手に取ったりしないので、その決め事に抵触して小言を食らうのは、書記をするくらいのものだったが。
 そして、このところ議事録ノートの出入りの機会が多いのは、三年生になってから学校を休む事が多い幸村精市のためでもあった。
 幸村精市は、弦一郎が所属するテニス部の部長だ。
 が、去年の冬から体調を崩しており、入院や自宅療養を繰り返しているのだった。
 クラスも同じくする弦一郎はクラス委員として、授業のノートや配布物、そしてクラスの運営がどうなっているかという報告として議事録のコピーなど、様々な資料を届ける手配も行っていたのだ。


!」
 放課後、弦一郎はまたの名を呼んだ。
 彼女はいつものようにびくりとして、目を丸くして飛んでくる。
「あっ、はいはい……」
「はい、は一度でいい」
「はい」
 はちょっと笑って、睨みつける彼を見上げた。
「……、俺とクラス委員になって何ヶ月経っている? なぜ未だに、俺が呼ぶとそんなに驚くんだ」
 険しい顔のままやれやれといった様につぶやくと、は恥ずかしそうに笑ってうつむいた。
「だって、真田くんの声、野太くて大きいからびっくりしちゃうんだよね。あれっ、また何か怒られるような事したっけ? とか思っちゃってさ。ごめんごめん」
「普段から気をひきしめておらんから、俺の声ごときで恐縮するはめになる」
「いや、まあそうだけど、ちょっとびっくりしてるくらいで、そんなに言うことないじゃん」
「言われたくないなら、もっと毅然としていろ」
「まあ、心がけます」
 ついつい言葉の続く弦一郎に、はまたぺこりと頭を下げると微笑んだ。
 真田弦一郎は生真面目で厳格であり、男女問わず彼の言動にいちいち恐縮するクラスメイトは多い。もちろん、同じクラス委員を務めるもその一人だ。が、弦一郎はこう言いつつも、が口を利きはじめた当初よりも多少は彼の言動に慣れ、笑顔を見せるようになっている事には気付いていた。それは、決して「何をへらへら笑っている!」と腹立たしいようなものではなく、いつしかクラス委員同士としてのやりとりを滑らかにするものとなっていたのだ。
「ホームルームの議事録、コピーは取ったか?」
「うん、取って、議事録はちゃんと保管庫に戻した」
「そうか、よし。あと、これは授業のノートのコピーと配布物だ」
 弦一郎は、精市のために自分のノートを毎回コピーしている。授業のノートに関してはそれが一番確実だからだ。
 几帳面に折りたたんだコピーの束を差し出すと、はそれを受け取り、まとめて議事録のコピーとともに茶封筒に入れた。
「ええと、これ、今回も……私が届ける?」
 茶封筒を手に、は伺いを立てるように弦一郎を見上げた。
 現在、自宅療養中の幸村に、こういった資料は定期的に届けられていた。
 そしてそれはクラス委員の役目であった。
「そうだな、幸村の家はどうせ帰り道だろう? そもそもクラス委員としての役割であるし、頼む」
「いいけど……真田くん、部活同じなんだしよく幸村くんに会いに行ったりするんでしょう? その時に持っていってもいいんじゃないかと思うんだけど」
「それとこれとは別だ」
 弦一郎はぴしゃりと言って、部活に行くために教室を後にした。


 が、ちょっとした偶然というのは、続く。
 その日、弦一郎がトレーニングを終えて着替えをするために部室に向かう途中、これまた同じく帰り支度をするに出会った。
 昨日と同じく、トレーニングウェアの彼女は、今日は泣いていなかったが。
「……今、終ったのか?」
「うん、そう。真田くんも?」
「ああ、そうだ」
 ぶっきらぼうに答える彼に、は、じゃあと手を振ろうとしていて、しかし弦一郎は一瞬考えてから彼女を呼び止めた。
「帰り、幸村のところに寄るだろう? 今日は、俺も行こう」
 彼が言うと、は少し意外そうな顔をしてから、うんと肯いて笑った。
「わかった。じゃあ、着替えたら門のところでね」
 そう言った彼女の後姿をほんの数秒見送って、弦一郎はフンとつぶやきながら部室に入っていった。


 弦一郎がテニスバッグを背負って校門のところにいると、が走ってやってきた。
「遅いぞ。なにをだらだらしていた!」
 彼の一言は、も予想ずみだったようで、さして堪えた様子はない。
「ごめんごめん。でも、男の子とだったら、女の子の方が着替えとか帰り仕度遅いのは仕方ないよ」
「しかし、もう下校時刻ぎりぎりではないか。自分の仕度が遅いのも考慮し、それを見越した上で部活は切り上げろ」
「うん、そう言われればそうだね」
「分かれば良い。今後、気をつけろ」
 弦一郎が一通りの説教を終えると、二人は校門を出た。
 歩いていると、一年生と思しき女子生徒が、に礼儀正しく挨拶をして傍を通ってゆく。
 は陸上部だ。彼女がトラックを走っている姿を、弦一郎はトレーニング中によく見かける。
 昨日、バックネットのところで佇み、ギリギリと強い目で泣いていた彼女。
 突然にその映像が生々しく彼の頭に蘇る。
 それは、いつも弦一郎に小言を言われては閉口したように笑う彼女とは全く異なるイメージで、弦一郎の心をざわつかせた。
 そしてそれを見て、雨に濡れ燃えたつように艶やかな紅葉を想起した自分自身にも戸惑うのだった。

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2007.11.7

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