● 恋のヘルシンキ宣言(5)  ●

 さて、明日は終業式でもう夏休みは目の前。
 誰もが夏の日々に思いを馳せて色めき立っている。
 教室の中の男の子も女の子も、夏の計画の話題で皆盛り上がっていた。
 私も、夏休みに友達と行こうかなんて言っている横浜あたりの特集の雑誌を昼休みに眺めていた。

「やあ、。昨日持ち帰ったドリンクはどうだった?」

 そんな私に、乾くんが軽く声をかけてくる。
 そう、昨日私が半分残して持って帰った『ざらざらしてて、酸っぱ辛い』スペシャルドリンクの事についてだ。彼はやはり自分のプロダクトにはかなり愛着があるのだろう。

「あのね、昨日の家の晩御飯の予定が鶏肉のトマト煮だったの。お母さんがそれを作ってて、煮込んでる時に私が火の番を言いつけられたんだけど、もしかしたらあのドリンクを入れて煮込んだらいいんじゃないかとふと思ったのよね。だって、野菜もショウガも唐辛子も煮込みには相性良さそうでしょ? 酸味はトマトで、もともとあるんだし。そう思ってアレを入れて煮込んだら、ちょっとものすごい事になってお母さんにしこたま怒られちゃった」

 私は、なんとかして彼の作ってくれたドリンクを摂取する事ができないか、と取り組んでみた昨夜の顛末を彼に伝えた。

「……ものすごい事というのは、つまり、あまり旨くはなかったのか?」
「うーん、あのドリンクに入ってた野菜が相性悪かったのかな。美味しいもまずいも、匂いの時点で鍋ごと却下されて味見する間もなかった」
「そうか、加熱がよくないのかもしれないぞ、それは。俺は加熱を考慮して作ってはいないからな」

 彼はそう言うと、それでもそのデータを自分のノートに書き加える。
 
「それで、家の晩飯は結局どうなったんだ?」
「トマト煮が台無しになっちゃったからね、結局家族で回転寿司に行ったの。私、結構好きだから、結果的には乾くんグッジョブで、ラッキーよ。ありがとう」

 私が笑って言うと、彼は嬉しそうにそんな事までノートに書きとめた。
 一体何に使うデータなんだか。私も嬉しくなってしまう。
 実験を始めてから、やっぱり乾くんと話す事は多くなったし、話す内容も長くなってくる。
 こんな基本的な事が私をとてもわくわくさせる。
 今日は予定では実験の最終日。
 そして明日は予備日で、学校は終業式。
 なんとか彼に、私の気持ちを伝える事ができますように。

 さて、今日実験三日目最終日は、部活の後に実験を行う予定になっていた。
 なんでも、乾くんは部活の最初にミーティングがあるそうで、遅れる事ができないからだそうだ。私としては一向に構わないので、授業が終わるとプールに向かい水着に着替えて黙々と泳いだ。
 私はそんなに成績の良い選手ではないから、今年のレースも記録会も全て終わってしまった。
 それでも泳ぐ事は好きなので、こうして部活に通っている。
 水の中で背筋を伸ばし顎を引いて、抵抗の少ない姿勢ですううっと流れるように体が進む感覚が、私はとても好きだった。
 泳いでいる時の、何も考えていないような考えているような、穏やかな気持ちが好きだった。
 一番端のコースでブレストで泳いでいた私に、後輩が声をかけてきた。
 泳ぎを中断して後輩の指さす方を見ると、フェンスの外から乾くんが手を振っているのが目に入った。
 私はあわててプールを上がってゴーグルを外す。

「どうしたの、乾くん」

 バスタオルを手に持ってフェンスのところに行くと、彼は額から汗が流れていてランニングの途中のようだった。

「練習中に悪いね、今日の実験なんだが約束していた時間より30分くらい遅くなってしまいそうなんだ。ちょっと部活が終わった後も話し合わないといけない事が残ってしまってね、申し訳ない。の都合はどうだい?」
 
「私は特に予定もないし、大丈夫よ」

 申し訳なさそうに見上げてくる乾くんに笑って言った。

「そうか、よかった。じゃあ時間を30分遅らせて頼む。また、後で!」

 彼は嬉しそうにそう言って、手を振ってまた走って行った。
 私はその後姿を眺めた。
 テニスコートとプールは、学校の敷地内でも絶望的なくらい離れていて、私は実は乾くんのトレーニングしているところやテニスをしているところをきちんと見たことがない。

 関東大会の決勝、見に行ってもいいかな。

 ふとそんな事が頭に浮かんだ。
 実験が無事に終わったら……告白ができなくても、なんとかそれだけは言ってみよう。
 私はどんどん遠くなってゆく乾くんの後姿を見つめて、心に思った。
 それなら、なんとか言えそうな気がする。



 部活の後、昨日と同じグラウンドの隅の木陰のベンチで私は雑誌を見ながら乾くんを待った。
 なんだか、デートで待ち合わせをしてるみたい。
 ジャージ姿だけどね。
 私は昼休みに見ていた雑誌の特集を見ながら、乾くんとこんな雑誌に載ってるようなお店とかに行ったりしたら楽しいだろうな、なんて考えた。
 まあ、ちょっとありそうもない事だけど。
 でも、別にこんなところに遊びに行ったりしなくてもいいんだ。
 きっと、乾くんと一緒にいて話したりすれば、それだけですごく楽しいに違いない。
 私は彼と交わす言葉が増えるたびに思うのだ。
 だから明後日からの夏休み、別に彼と二人で出かけるとか、一日かけてデートするだとか、そんな事はなくてもいいんだ。今日や昨日、話をしたみたいになんでもないことを話して笑いあって、時折そんな風に過ごせたらいい。
 でも、もちろんそれだって今の私にとってはとても贅沢な望みなんだけど。
 実験がまだまだ終わらなければいいのにな。
 そんな風に思いながら、私は雑誌を閉じた。
 乾くんとこんな風にすごせるなら、私は毎日12分間走をやっても構わない。

「悪い悪い、待たせたな!」

 乾くんが、昨日と同じいでたちで現れた。
「ううん、今来たとこ」
 ドラマやマンガに出てくる台詞みたい、と私は自分で言ってみておかしくなった。
 私たちはベンチに並んで座って、昨日と同じように乾くんに血圧と脈拍を測定された。
 私は、彼に測定されながらも黙って自分の心臓の動きに思いをはせる。
「さて、走るか。いけるかい?」
 乾くんは測定を終えて、グラウンドを指差した。
「うん、部活の後だからね、十分あったまってるし」
「よし、じゃあいくか」
 昨日のように、私たちは並んで走った。
 何も特別な事があったわけじゃないのに、私は乾くんを見ると一昨日までとはまた違う気持ちが自分の中にこみ上げてくるのを感じた。
 彼と話をして、なんだかいろんな想像までして勝手にイメージをふくらませてしまったりしたせいだろうか。男の子としての彼が、とてもリアルに感じる。
 実験が始まった時はすごくドキドキして、でもきっと少し彼と過ごせば慣れるだろうなんて思っていたのに、ぜんぜんそんな事はない。
 当たり前だ。
 一緒に過ごせば過ごす程彼を好きになるし、好きになれば好きになるほどドキドキする。
 この日も私は胸のドキドキをごまかすために、かなりのピッチで12分走り終えた。
 息を切らせて、例のベンチでまた乾くんに機械を装着される。
 今日は、ガムを噛みながら。
 乾くんの立てた仮説に沿うならば、今日の私の心拍数の下がりっぷりは昨日よりも顕著でないといけないんだよね。
 そう思うと妙なプレッシャーで私は緊張してしまう。乾くんの表情も相変わらず真剣だし。
 こうやって乾くんと過ごすのも最後。
 実験もこれが仕上げ。
 忙しい乾くんがこんな風に時間を割いて実施している実験がうまく行かなかったらどうしよう。それが私のせいだったりしたらどうしよう。
 そんな事を考えていたら、乾くんの手が私に触れる実測タイム。
 毎度のこと、私の心拍数は上昇する。
 ベンチに置かれたモニターに現れる自分の脈拍を見つめがら、私は懸命にガムを噛みつつ深呼吸を繰り返した。
 それでも一向に私の心拍数は下がる気配はないのだけれど。

 測定が終わった後、私はまたスポーツドリンクをもらって飲みながら、データを見比べる乾くんをじっと見詰めた。

「……どうなの……?」

 私が彼のノートを覗き込むと、乾くんは数値の沢山書き込まれたグラフを見せてくれた。

「これが、の心拍数と血圧をグラフ化したものだよ。こっちが初日に測定した安静時、これが昨日、今日のはまだグラフ化できてないけど、こんな感じ」

 彼はそう言うとモニターの画面を切り替えて見せてくれた。

 うわー。

 私は内心頭を抱えた。
 運動を終えた後、おそらく一般的には緩やかな曲線で下降を見せるだろう心拍数は、私の場合見事にでこぼこな曲線を示していた。
 一旦下降すると見せかけて、急に上昇しているところ、これは多分乾くんが私の手に触れて実測をしているタイミングなんだろうな。

 まるでウソ発見器での結果を見せられたようで、私は顔から火が出そうだった。

「昨日と今日を比べると、運動直後はやはりガムを噛んだ方が心拍数は一瞬下降しているんだが、の場合はその後が落ち着かないな。なんだろう、ガムを噛むことで呼吸が乱れるのかな?」

 乾くんは首をかしげた。
 
「あの、乾くん!」

 私はなんだかいたたまれなくて、思わず声を出した。

「ほら、データは沢山ある方がいいって乾くん言ってたでしょう。明日、予備日だけど、私もう一度走るわ。それでまた測ってみて。ね?」

 ついついそんな事を言い出す。
 彼は私を少し不思議そうに見ていた。

「……昨日も今日も、、結構本気で走ってくれてるだろう? しんどいんじゃないか?」
「ううん、大丈夫。だって、水泳部だしね」

 乾くんはしばらく私をじっと見た後、ふふっと笑ってそして機械のコードを巻き取り始める。

「そうか、本当のところを言うと、とてもありがたいよ。明日は終業式で、どこも部活ないだろ? 終業式の後に実験が終わったら、帰りに何かおごる。お礼にさ。」
 
 彼の言葉に私は胸がぐっと熱くなって、そして空に飛び立ってしまいそうな気持ちになった。
 よかった、明日も乾くんと二人で過ごせる。
 しかも、帰りの約束もなんて!
 うん、明日こそは満足の行くデータを出すんだ。
 そして、あの一言を言おう。

『関東大会の決勝、見に行ってもいい?』



 シャワーを浴びて着替えた後、私と乾くんは校門のところで待ち合わせた。
 今日は遅くなってしまったからと、彼が送ってくれる事になったのだ。
 もちろん私はその申し出を断るはずなどなく。
 私が走って行くと、すでに制服に着替えた乾くんが待っていた。

「お待たせ」
「俺も来たばかりだよ。さて、帰ろうか」

 彼は待っている間にもノートにいろいろ書きとめていたようだった。

「そういえば、今日プールにいる水着のって初めて見たんだが……」
 乾くんはふと思い出したように言う。
 なになに、私の水着姿に対するコメントなの?
 私は若干緊張して彼の次の言葉を待った。
は見かけによらず筋肉が発達していて、しっかりトレーニングしているんだろうなと思った。なのに、心拍数がやや高めなのが不思議だな」
 心拍数が高めなのは、乾くんといるからです。
 それにしてもクラスメイトの女子の水着姿に対するコメントが、筋肉だなんて!
 私は落胆とともに若干憤慨した。
「乾くん、女の子を喜ばせるような言葉を知らないのね。水着姿を見て筋肉が発達してる、はないでしょ!」
「なんだよ、誉めてるんだぞ? キャメロン・ディアスみたいでかっこいいじゃないか」
「ええ〜、そんな取ってつけたように女優の名前なんか出されてもねえ」
 私たちは笑いながら、少し暗くなりかけた道を歩いて行く。
「決勝で当たるとこ……マル=イブンタ選手のいる学校て、やっぱり強いの?」
 私は、明日言おうと思っている事を思い描きながら彼に尋ねてみた。
「立海か、うん、そうだな。強いよ。何といっても全国大会で優勝した学校だからな」
「……青学、勝てるといいなあ」
 私は、乾くんが勝利をかみ締めている姿を想像してつぶやいた。
「ああ、勝ちたいよ」
 彼は静かに、搾り出すように言う。
「チームとしても勝ちたいし、どうしても負けられない相手がいるんだ」
 そして一度空を仰ぎ見ると、一言一言、ゆっくりつぶやいた。
「マル=イブンタ選手?」
「いや、違うよ。……昔馴染みのね、俺が絶対負けたくない相手なんだ」
 彼の言葉が、私には少し意外だった。
 彼が勝ちたいと思っているだろう事は当然なのだけど、なんていうのだろう『負けたくない』っていう言葉。
 乾くんは、とても一生懸命だけど頭脳派で冷静な人だと思っていた。
 ほんのちょっとした一言なんだけれど、彼の発した『俺が絶対負けたくない』という言葉からは、彼の理屈だけではない熱い一面を見たような気がする。

 関東大会の決勝、見に行きたいな。

 私は心から思った。
 乾くんが、力を振り絞るところ。
 見てみたい。
 そして心の底から、応援したい。

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2007.8.29

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