● 恋のヘルシンキ宣言(6)  ●

「ちょっと! 昨日、校庭のベンチで乾と手を握り合ってたって、マジ!」

 終業式の朝、私は友人からいきなり問い詰められて驚いてしまった。
 そんな素敵な出来事あるわけないじゃない、と思いつつも、ああ『実測タイム』の事ねと納得する。

「違うよ。ほら、あれ、乾くんの言ってた実験にね、つきあってるの。それで脈拍測定されてただけだよ」

 私が答えると、友人は案の定、ええ〜? と意外そうな顔をする。

「えっ、あのヘンテコな実験につきあってんの? 物好きねえ!」
 
 そして呆れたように言うのだった。

「一体どういう風の吹き回し? もしかして、あの乾といい感じなワケ?」

 そして興味津々といった風な質問が続くのだ。
 私は一瞬あわててしまうのだけれど、意外とこうやって友人からからかわれたりするのも悪くないかな。
 ふとそう思った。
 もう終業式だし、という気楽さもあるのかもしれないけれど、こうやって第三者から冷やかされるのって、ちょっと私と乾くんの事が現実味を帯びてくるような気がするのだ。

「ううん、別にそういうんじゃないよ。私、部のレースも全部終わっちゃって結構暇だから、ちょっとくらいいいかなって。乾くんも人がいなくて困ってたみたいだし」

 それでも、こうやって何でもないように答える。

「ふ〜ん、ま、そっか。そうだよねぇ、が乾となんてねえ、ないよね」

 あ、ちょっとちょっと、それだけなの、それでお終いなの?
 私は拍子抜けしてしまう。

 しかし、昨日や一昨日の私と乾くんのグラウンドでの姿を目撃した人というのは、思えば当然の如くかなりいたようで、私はこの日終業式までに数人のクラスメイトからその件についてちょくちょくいじられてしまった。
 女友達だけではなく、男子からまで。

「なあ、、放課後に乾と二人きりで何かしてるって、マジ?」

 こんな風に聞かれたり。けれども、

「別に。ほら、前に乾くんが言ってた実験につきあってるだけだって」

 と、私が答えると、

「ふーん、そっか。乾は結構ムッツリだから気をつけろよ」

 とまあ、非常に誰も彼もあっさりとそれ以上冷やかしてきたりはしないのだ。
 どうやら乾くんは、恋愛などとはかなり縁遠いように思われているキャラのようだ。
 どうせなら、もっとしつこいくらいに冷やかして外堀を埋めてちょうだいよ、と思う私はまったく物足りない事この上ない。

 でも、まあいいや。
 今日は思い切り最後の12分間走を走りきる。
 そして、帰りに乾くんとお茶をする。
 その時に私は言うんだ。
 関東大会決勝、見に行っていい? って。

 私はそんな終業式の後の甘い時間に思いを馳せ、連日の晴天の空に感謝の念を送った。



 しかしその後、私は絶望的な宣告を受ける事になる。
 終業式が終わって、さあジャージに着替えようと更衣室に向かっている時だった。

、今日の実験はもうやめにしよう」

 乾くんが私に突然そう言ったのだ。
 私は目を丸くして彼を見つめる。
 天気は悪くない。今日は各部の活動もないから時間もあるはずだ。

「……どうしたの? 何か用事ができた?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ、にこれ以上実験を実施してもらう事は望ましくないと判断したんだ」
 彼は静かに言った。いつもの穏やかで真剣な表情で。
 私はいつぞやの、パラシュートなしで飛行機から突き落とされたような気分になった。
 乾くんに、私が実は実験の被験者として不適格だという事がバレたのだろうか。
 それともやっぱり私のどうしようもない心拍数に愛想をつかされたのだろうか。
 私は何て言ったら良いのか、わからない。
 ごめんなさいって、謝ったらいいのかな。
 絶望とともに、しばらく呆然と立っていた。

「ヘルシンキ宣言、第22項」

 すると乾くんがそう言って、いつものファイルを広げた。
 私はそれを覗き込む。
「ここのところだ。第22項のこの部分、『 ヒトを対象とする研究はすべて、それぞれの被験予定者に対して、目的、方法、資金源、起こりうる利害の衝突、研究者の関連組織との関わり、研究に参加することにより期待される利益および起こりうる危険ならびに必然的に伴う不快な状態について十分な説明がなされなければならない』。わかるだろ? 俺はこの部分の説明を怠っていた。俺の実験につきあっていたら、周りの連中から妙な噂を立てられるかもしれないっていう『不快な状態』についての説明をね。今日、は俺と実験をしていたせいで、俺とのあらぬ噂を立てられ不快な思いをしていただろう? 俺はそのような事がまったく予測がつかなかったわけでもないのに、きちんとに説明できていなかった。これでは実験は続けられないよ。申し訳ない」
 彼は本当に申し訳なさそうな顔で、私を見下ろしながら言う。
 私は乾くんのファイルと彼の顔を交互に見て、頭の中を整理した。
「……ええと、私は別にあんな事言われたくらいぜんぜん気にしてないし、不快でもなかったよ。だから、別に今日の実験をやめる事はないと思う」
 そうは言ったものの、乾くんの表情からはすでに決定したのだというような固い意思が読み取れ、私の言葉にはどうにも力がこもらない。
「うん、そう言ってくれるのはありがたいよ。でも、やっぱり俺のミスなんだ。それに……多分、今日走って実験をしても、おそらく結果はあまり変わらないと思うし。も、きっとわかっているだろう?」
 彼の言葉は私の胸を貫いた。
 乾くんはやっぱりわかってたんだ。
 私が被験者として不適合だっていう事を。
 私は両手で顔を覆ってうつむいた。
 やっぱりズルい事をして、上手くいったりなんかしない。
 乾くんに正直に告白して断られた一年生の女の子の事を思い出した。
 私、自分だけ上手くやろうとして、罰が当たったんだ。

「……ごめん、乾くん。私が最初からちゃんと言わなかったから……乾くんに無駄な時間を使わせちゃって。大事な試合の前なのに」

 私はどんな名目を並べても、自分が乾くんといたいがために実験につきあってただけなんだって改めて思い知らされた。
 本当に乾くんが好きなら、私は自分がもしかしたら被験者として不適切かもしれないからって、彼にちゃんと申し出るべきだったんじゃないか。
 そんな事もせず、乾くんと上手くいかないかな、なんて事ばかり考えていた自分が恥ずかしくて悲しくなってきた。
 それ以上何も言えず私が黙ってうつむいていると、私の顔を覆った手を、乾くんがそっとつかんだ。

「なんでが謝るんだ? 俺が悪いんだよ。……冷静に実験を行わなければならない実験遂行者なのに、の心臓のリズムを数えているとどうにも落ち着かなくて冷静になれなくなってしまったんだ。実験遂行者が冷静じゃなくて、被験者が冷静に実験を受けられるはずがない」

 彼の言葉に、私はおそるおそる顔を上げた。
 そこには、眉をハの字にして困ったような、そして少し顔を赤くして照れたような顔をした乾くんがいた。
 いつもの、機械のモニターを見つめていたりノートに書き込んだりをしている表情とは違う。

「どうにも被験者への下心があるなと自覚した時点で、実験中止を申し出ればよかったんだが、すまない。……もう少しと一緒に走って、脈を測りたいと思ってしまったんだ」

 私はばかみたいに口をうっすら開いて彼を見上げた。
 また自分の脈拍が速まるのが分かるけれど、今、私の手をつかんでる乾くんの指は私の動脈に触れているわけではないから、その速さが彼にバレる事はないだろう。
 けれど、もうそんな事はどうだっていいのだ。

「……でもそれだと、私が先に下心を持ってたはずだから、やっぱり私が悪いんだと思う。だって、『被験者が実験遂行者に特別な感情を抱いていては結果の信憑性に疑問が生じる』んでしょう?」

 私がそう言うと、彼は驚いたような気まずそうな顔をした。

「何で知ってるんだ? ……女子は情報が早いんだな」
「あ、うん、まあね」
 私も照れくさくなってまたうつむく。
「とにかく、つまりだな」
 乾くんはうつむいた私の顔を覗き込んで言う。
「つまり……俺との間で、心拍数を数えるような実験は多分あまり意味がないという事だ。ガムを噛む咀嚼で心拍数が低下するよりも、お互いの相互関係によって、上昇する因子が多すぎるから」
 彼は優しい笑顔で、ゆっくりと言った。
 そして私の手を離すと、鞄からカラカラと音を立ててガムの入ったボトルを出す。
 今のこの私の心拍数が、なんとか少しでも落ちつくかしらと私が手のひらを差し出すと彼はいつものように二粒取り出してそこにのせてくれた。
「……ガム、だいぶ沢山残っちゃったね」
 私がモグモグと噛みながらそう言うと、乾くんも口の中にガムを放り込んで笑った。
「ガムの効果はなにも、心拍数を下げたり脳血流量を上昇させたりするだけじゃないだろ。ほら、これ」
 彼はそう言って、ガムのボトルの能書きを指差した。

『お口すっきり、息さわやか』
 
 そこには、そんなガムのCMの決まり文句が書いてある。

「こういう効果を確かめる実験も悪くないんじゃないか?」

 そして彼は、そうささやくのだった。

「……乾くんて、そういう事言う人だったの?」

 私が顔を熱くして言うと、彼は笑った。

「そうだよ。イメージと違うか?」

 私もつられて笑ってしまう。
 私たちは並んで歩いて校門を出た。
 彼は歩きながら、鞄のポケットから何か紙切れを取り出す。

「そうそう、これ、関東大会決勝の会場の地図。観に来てくれるだろう?」

 私は彼が手渡してくれた地図を受け取り、大切にしまった。

「うん。イブンタ選手のガムの噛みっぷりが楽しみ」
「誰だ、そりゃ」

 終業式が終わって、明日からは夏休み。
 私はこれから、どれだけ今まで知らなかった乾くんの姿が見られるだろう。
 ひとまずは関東大会決勝での、きっと熱い熱い姿。
 楽しみで、仕方がない。
 少しでも多くの彼の姿を知るのが、この夏の私の目標。
 でももうひとつの目標は、私が彼を好きすぎる証拠を示すあの心拍数のデータを、この夏休み中になんとか始末しようという事。
 ねえ、実験中止ならあのグラフはもう捨てて、と言う私に『それは、できないな』とニヤリと笑う彼は、もしかしたら私が思っているよりずっとワルい男なのかもしれない。
 歩きながらも熱心に開いている彼のノートをちらりとのぞきこむと、例の私の心拍数と血圧のグラフの下に、『ガム咀嚼により、息がどれだけさわやかになるかの実験:本日実施予定』と走り書きがしてあり、それを見た私の心拍数は今までで最高潮に達した。

(了)
「恋のヘルシンキ宣言」

<参考>
*ヘルシンキ宣言について
日本医師会HP   http://www.med.or.jp/   より
ヘルシンキ宣言(日本医師会 訳) http://www.med.or.jp/wma/helsinki02_j.html
*ガムの効果について
日本チューインガム協会 http://www.chewing-gum.org/

2007.8.29

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