● 恋のヘルシンキ宣言(4)  ●

 実験二日目の日、朝からすでに私はちょっと緊張したまま登校した。
 夕べは家で「心拍数を下げるにはどうしたらいいか」などとネットで調べてしまった。
 まあ、とにかく深呼吸が良いらしいという事くらいしかわからなかったけど、私はとにかく日中から落ち着いて深呼吸をして、心拍数を下げるよう心がけるようにしようと思う。 
 私は自分の席に座ると乾くんがしていたように手首で自分の脈拍を数えてみるけれど、明らかに昨日乾くんの持ってきた機械に表示されていた私の心拍数より、こうやって一人で測定している方が低いんだよね。
 私、乾くんといると本当にドキドキしてるんだなあ。
 ウソはつけないものだ。

 そんな事を考えてつらつらと自分の脈拍を測っていると、乾くんが教室に現れた。
 私はあわてて自分の手首から指を離す。

「おはよう、。昨日はありがとうな。またヨロシク」

 ものすごく何気ない一言なのに、乾くんの落ち着いた声で優しく言われると本当に嬉しい。乾くんの何もかもは、どうしてこんなに私をドキドキさせるんだろう。
 本当に好きだなあって思う。
 私は、別になんでもないっていう風に笑ってうなずくと、また自分の机で大きく深呼吸をした。
 そんな風にしていると隣の席の仲の良い友人が登校してきて、勢い良く机に鞄を置いた。
、おはよ!」
 彼女は鞄の中から教科書を出しもせずに、私の方に椅子を向けておしゃべりする気まんまんのようだった。
「ねえ、女子テニの子から、ちょっと面白い話聞いちゃった」
 しゃべりたくて仕方がないというように、でも小声で彼女は言い出す。
「うん、なあに?」
「女子テニの一年の子がね、昨日、乾に告ったんだって」
 私はまさに口から心臓が飛び出そうになった。
 深呼吸、深呼吸。
 私、度肝を抜かれたような顔してないよね。
「へ〜、そうなんだ。やるねぇ、乾くんに告白をねぇ」
 平静を保ちつつ、なんとかそれだけを言う。
 で、どうだったの? どうだったの? もったいつけないで結果を教えてよ!
 と彼女の首を絞めたい気持ちを抑えながら。
「でしょう。それでね乾ってば、乾のくせに断っちゃったんだって」
 あっさりと教えてくれたその結果に、私はとりあえず胸をなでおろす。
「あっ、そぉ〜。もったいないねえ」
 なんて、心にもない事を言ってみた。
「そんでね、あいつ昨日ヘンな事言ってたじゃない」
「……ああ、実験がどうとか?」
 私はまたドキリとする。
 私が彼の実験の被験者である事は、別に秘密にしたいという事でもないけれど、ちょっとおおっぴらにもしにくいような、微妙な感じだから。
 そんな私の戸惑いに彼女は気付かないようで、どんどん話し続ける。
「それそれ。で、その一年の子が、じゃあ実験にだけでも協力させてくださいって言ったら、乾、それも断っちゃたんだって。何でも、『被験者が実験遂行者に特別な感情を抱いていては結果の信憑性に疑問が生じるから、ありがたいけれど遠慮しておく』とか言ってね。それでその子、泣いちゃったらしいよ。乾のくせにひどいよねぇ」
 私は、パラシュートなしで飛行機からつきおとされたような気分になった。
 彼女は私の前でしばらく何かしゃべっていたけれど、その内容は私の頭には入ってこない。
、どうかしたの?」
「……えっ、いや、なんでもない、なんでもないよ!」
 私はあわててバカみたいに声を上げた。
 マズいじゃないの!
 私、本来は乾くんの被験者として『不適合』なんだ。
 あわよくば、この実験が首尾よく終了したあかつきには告白なんかをして、そしてもし上手くいったら、超ハッピーな夏休みがすごせる? なんて思っていたのに。
 私の下心は、ことごとく暗礁に乗り上げる。
 どうしよう。
 一体、どうしたらいいだろう。


 私は授業中先生の話になんて一切集中できないまま、昨日乾くんに渡された『ヘルシンキ宣言』の紙をこっそり開いた。

『被験者が実験遂行者に恋をしている場合』

 という項目がないかどうか探してみたけれど、全部に目を通しても見つからない。
 とりあえず私の秘密の恋は、ヘルシンキ宣言には抵触しないようだ。
 だったら私はなんとか彼に下心を隠し通し、『心拍数の落ち着かない女』というキャラのままで実験をやり遂げよう。結果の信憑性に疑問が生じないよう、とにかく真面目に一生懸命やろう。
 だって乾くんがあんなに一生懸命なのに、唯一の被験者がドロップアウトしてしまっては申し訳ない。
 それに、そうだ! 乾くんと実験をやっていて、その一生懸命な乾くんを好きになってしまったっていう設定はアリなんじゃないだろうか?
 うん、それで行こう。
 実験計画書とヘルシンキ宣言を提示される前に正直に告白をした一年生の女の子には、少々申し訳なくて胸が痛むけれど、ごめん許して。
 一年生のあなたにはまだ未来がある。
 私には本当にもう、乾くんしかいないから。



 さて放課後、今日はまず12分間走なのでグラウンドの隅で私と乾くんは待ち合わせる。
 今日も私はジャージに着替え、乾くんが来る前に入念にストレッチをしていた。
「おっ、、張り切ってるなあ」
 ワンショルダーのバッグを斜めがけしてノートを手に持った乾くんが現れた。
 張り切りますとも。
 走れば走るほど、私の心拍数は上昇してもおかしくないわけだから。
 木の葉を隠すには森の中って言うでしょう?
「いつでもいいよ、乾くん」
「うん、じゃあまずそこのベンチで走る前の心拍・脈拍の測定をしよう」
 ああそうだ、まず例の測定をしないといけないんだっけ。
 木陰のベンチに腰掛けて数分安静にさせられた私は、また手首に機械をつけられた。
 隣には乾くん。
 こんな風に二人で並んで座るなんて、初めてだなあ。
 昨日、実験室で二人きりでいたのとはまたちょっと違う感じでドキドキする。
 だって、外でデートしてるみたい。
 デートの割には機械やらノートやらストップウォッチやら大層なんだけど。
 彼は昨日のように私の手首に触れようとして、一瞬躊躇した。
「……。脈拍を実測する際、俺はこうしての手首に触れないといけないわけだが、その……俺がそんな風に触るのは嫌じゃないか? 嫌だったら、実測は省略するよ」
 乾くんはひどく真面目な顔をして言うのだった。
 ああそうか、ヘルシンキ宣言に則ったインフォームドコンセントの一環なのかな? 乾くんはやっぱりすごく真面目で誠実なんだ。
「ううん、大丈夫。ぜんぜん気にしないから!」
 私はできるだけなんでもないように、彼に腕を差し出した。
 彼はほんの一瞬、眉を持ち上げて戸惑ったような顔をして、すぐにほっとしたように笑う。
「そうか、ありがとう、
 そして、そう静かに言うと私の手首にそうっと指を当て、腕時計を見た。
 私の手首に触れる乾くんの指はほんの少しだけひんやりとしているけれど、すぐに私の体温と同じ温度になる。
 ちらりと見えた乾くんの大きな手の平は練習のせいなのか、豆だらけ。本当に一生懸命なんだ。
 それでもそのしなやかな指で触れられるのは、なぜだかとても心地よくて安心する。
 目を閉じて自分の心臓の拍動に意識を向けると、ああこのリズムを乾くんがカウントしてるんだって実感して、時々急に恥ずかしくなってドキドキしてくる。
 脈を取られるくらい、早く慣れないかな! これくらいでこんなにドキドキしちゃ、告白なんかできないよ。
 私は乾くんに悟られないように、ゆっくり静かに深呼吸を繰り返していた。
「よし、じゃあそろそろ走ろうか」
 私の何度目かの深呼吸の後、彼はそう言って私の手首から指を離し、そしてもう片方の手から機械を外してくれた。
「うん、いつでもいいよ!」
 私は待ってましたとばかりに立ち上がって、アキレス腱を伸ばした。
「よし、じゃあ行くか。12分頼んだぞ」
 彼がストップウォッチを押したのと同時に私は走り出した。
 すると、彼も私の隣りを伴走してくるのだ。
「ええっ、乾くんも走るの!」
 思わず私は声を上げる。
「だって、だけ走らせてたら申し訳ないだろう。俺も走るよ。ちょうど部活の前のアップにもなるしね」
 彼は私の隣りを走りながら、さらりと言う。
 これは、ますます気が抜けないじゃないの!
 
 12分走り終えた私は乾くんに促されて、木陰のベンチに腰掛けた。
 しんどい!
 体力測定での12分間走でもこれだけ真面目に走ったことなんかないかも。
 私は肩を揺らせながら、首にかけたタオルで汗を拭いた。
 7月のじりじりした太陽と蒸し暑さは、私の周りをどろどろと取り囲むようだった。
「さすが水泳部、かなりのピッチで走るなあ、びっくりしたよ」
 ベンチに二人で並んで座ると、彼は再度私の手にその装置をとりつけた。
 走った後、ドッドッと大きくドラム演奏をする私の心臓は少しずつおさまってゆく。
 じっとしているとその木陰はなかなか風通しが良くて気持ちが良い。
 グラウンドでトレーニングする野球部や陸上部を遠目に見ながら、私達は静かに並んで座っていた。
 走る前にも思ったけど、やっぱりいいな、こういうの。
 乾くんと外で並んでじっと座ってるなんて。
 なんだろう、ドキドキするんだけど落ち着く。落ち着くんだけど、ドキドキする。
 そんな感じ。
 そんな事を思っていたら、乾くんの指が私の手首に触れる。
 実測タイムだ。
 自分の腕時計を眺める彼の横顔は、とても真剣。
 片方の手には機械をつけられて、もう片方の手は乾くんに握られてるなんて。
 まるで、捕まえられて手錠をかけられているみたい。
 こうやって私を捕まえて、どこへでも連れてってくれたらいいのに。私に手錠をかけられるのは乾くんだけなんだから。
 そんな、ちょっとばかりロマンティックな事を考えてみたりしながら、私は彼の真剣な顔をみつめた。
 しばらくは……少なくとも一分間は彼の視線は時計から離れる事はないから、私はじっと彼のその横顔を眺める。
 一旦落ち着いた私の心拍数は、またあっさりと上昇していると思う。
 こんな風に真剣な乾くんは、本当に素敵だ。

 測定が済んで、私の手からは機械が取り外される。
 彼はそれを丁寧に片付けてバッグにしまうと、ベンチの足元から何かを取り出した。
 クーラーボックスだ。
 中からいくつかのボトルを出してくる。
「さあ、お疲れさま。暑かったし大変だったろう? 俺のスペシャルドリンクと、普通のスポーツドリンクと、どれが良い?」
 私は彼の提示したボトルを見た。

 これが噂の乾汁!

 若干緊張した気分でボトルを見比べてしばし迷うけれど、私はとりあえず普通のスポーツドリンクを選んだ。
 きりきりと冷えたそれは、細胞の一つ一つに染み入るように美味しかった。
 ごくごくと半分ほど飲み干してからちらりと乾くんを見ると、私の選択のせいか彼は若干気落ちしたような顔をしている。私はスポーツドリンクを全部飲み干す前に、他のボトルを眺めた。
 どの液体も透き通ってはいない。
 なんとも言えない、どんよりとした色をしている。
 それでも私は勇気を出して彼に言った。
「……スペシャルドリンクもちょっと味見してみて良い?」
 そう言うと、彼はぱあっと嬉しそうに顔を輝かせるのだ。
「勿論。暑い中でのこんな実験、大変だろうと思っていくつか作ってきたんだ。どれを飲んでみる?」
 ああ、私のために作って来てくれたんだ。
 喜びと、それじゃあ尚更飲まなければというプレッシャーが私にのしかかる。
「……ええと、どれが自信作のオススメ?」
「そうだな、これが最新のレシピで、疲労回復と暑さ対策を兼ね備えたものだ」
 彼が差し出したボトルは、中でもとりわけどんよりとした色の物だった。
 私が恐る恐るそれを受け取ると、それは先ほど受け取ったスポーツドリンクと同様の500mlのペットボトルに入れられたものなのに、明らかにスポーツドリンクよりみっちりと重いのだ。
 この重み、一体何が入ってるんだろう。
 でも、身体に悪いものが入ってるわけなんかない。だって、乾くんが私のために作ってくれたものなんだから。
 私はキャップを開けると、そうっと口に含んで飲み込んだ。

「……」

 思わず大きくため息をついて、うなだれる。

「どうだ? ?」

 乾くんは期待に満ちた目で私を見た。
 私は自分の味覚を確認するために、もう一口ほんのちょっと飲んでみた。

「……うん、なんだかざらざらしてて……酸っぱ辛い……」

 そう言うと、こういう時のために残しておいたスポーツドリンクで口の中の刺激とざらざら感を流した。

「ビタミンが摂取できるよう10種の野菜をミキシングしたものに、疲労回復のためにクエン酸をたっぷり入れてるんだ。あと、暑さ対策にカプサイシンとね。かつカプサイシンで体を冷やしすぎないよう、すりおろしたショウガも加え、女性向けを考慮して美肌のためにコラーゲン粉末も入れてある」

 彼は自信満々に言うのだった。
 私は能書きに弱いし、そして何よりこんな風に真剣に楽しそうに話す乾くんに弱いので、咳き込みながら半分ほどそのスペシャルドリンクを飲み、けど我慢できずついに笑い出してしまった。

「……乾くん、これね、すっごく体に良さそうなんだけど、やっぱりすっごくマズい」

 激マズのヘンテコなドリンクを神妙に飲んでる自分と、それを興味深そうに嬉しそうに見ている乾くんというのが、ふと気付くとどうにもおかしくなってしまったのだ。

「うーん、みんなそう言うんだが、やっぱりマズいか?」

 乾くんは眉をハの字にして言う。

「うん。乾くん、ちゃんと味見してる?」
「してるよ。けど、味見した後に、やっぱりアレもコレもといろいろ追加しちゃってね、それで少々味が変わっているかもしれない」
「最終のチェックもした方がいいよ、きっと」
「そうか、今度からそうしてみる」
 彼はそう言って、ノートにきっちりとメモを取るのだった。
「……乾くんて、普段の部のトレーニングに、こんな実験に、自主トレに、そういったレシピの研究に、あと勿論学校の勉強だってあるし、すっごく忙しいんじゃない?」
 私は彼の几帳面な文字でびっちりと埋まったノートを覗き込んでしみじみと言った。
「そうだな、暇か忙しいかって言えば忙しいかもしれないけど、全部好きでやってる事だからね、別に改めて忙しいとは思わないよ。もっと時間があればなとは思うけれど」
 そんな風な言い方はとても大人っぽくて、私は感心してしまう。
 そして、少し考えてから勇気を出して尋ねてみた。
「……そんなにあれこれやる事があったら、彼女がいてもなかなか二人の時間が取れなくて大変なんじゃない?」
 乾くんに彼女がいるのかどうか、実はその肝心な事を私は知らなかったので、なんともストレートにさぐりを入れてみた。
 でも、これくらいの事なら友達同士での雑談としてもおかしくないよね?
 そう思いながらおそるおそる乾くんの顔をちらりと見ると、彼は特に表情を変えることもなくノートをバッグのポケットに差し込む。
「いたら、まあ確かにそうかもしれないなあ。今のところそういう相手はいないんで、幸か不幸かそんな悩みはないけどね」
 彼はさらりと言うと、また笑った。

 彼女、いないんだ。

 一年生の子の告白を断ったのは、彼女がいるからじゃないんだ。
 私はしばし、『乾くんには彼女はいない』という安堵の余韻に浸っていた。
の彼は、しょっちゅう一緒に遊びに行ったりしてくれるのか?」
 けれど彼のその突然の言葉に、私は急激にその余韻から現実に引き戻された。
「ええっ? いや、私も彼とか、いないから。いないから。」
 バカみたいに緊張して答える。けれど彼の表情は特に変わりない。
「ふうん、は男にモテそうだからちょっと意外だな。ま、だったら、お互いじっくり部活に勉強に集中できる夏になるし、いいんじゃないか」
 続く彼の言葉は、実に社交辞令的で私はまた更に現実に引き戻される。
 やっぱり乾くんは、女の子にあまり興味がないのだろうか。というか、『被験者』という以外で私自身にあまり興味がないのだろう。
 うーん、なかなか難しい。
 でも実験中だからね、まずはこんなものかな。
 私は半分程残ったスペシャルドリンクを、そのままもらって家に持って帰る事にして、そしてこの日はグラウンドで彼と別れ、それぞれの部活へと向かうのだった。
 

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2007.8.28

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