● 恋のヘルシンキ宣言(3)  ●

「さて、実験計画に同意をいただき感謝する。早速だが、本日はこの計画書に則って、初日の分の実験を行いたいと思う」

『インフォームドコンセント』が済むと、乾くんはカートの物品をセットアップしながら言った。
 理科実験室の片隅には、キャンプなんかで使うような細長い簡易ベッドみたいなものが組み立てられる。
 私はそこに腰掛けて、改めて計画書を眺めた。
 ええと、

・被験者の安静時脳血流量、脈拍・血圧の測定。
・被験者がガムを咀嚼する前後での脳血流量、脈拍、血圧の差の測定

 が、本日の実験内容か。
 今日は走らなくていいから、楽そうだな。
 乾くんは実験机から丸椅子を持ってきてクルクルと高さを調節して腰掛けた。
 そしてカートの上の機械の電源を入れて、なにやら操作している。

「それ、何なの?」
 
 小さな液晶画面を持つ、何本かのコードが延びた四角い機械を私はちょっと不安な気持ちで眺めて尋ねた。

「ああ、これが脳血流量を測定する機械だ。生物の鴻上先生っているだろ? 鴻上先生が科学研究費を取得して購入したのを貸していただいたんだ。かなり高価な機械だからね、これが登場するのは今日だけ。あとはこっちの、血圧と脈拍を測定する機械だけを使う」

 乾くんは丁寧に説明をしてくれた。
 へえ、と私は感心するけれど、脳血流量なんていったいどうやって測るんだろ。測られたら私の脳みそがかなりお粗末という事もバレてしまうのかしら。あの機械から伸びてるコードの先っぽを、頭のどこかに刺したりするんだろうか。

「じゃあ、そこに横になって、まず5分間安静にしいていてくれ」

 不安を抱えたままの私は言われるとおり横になった。
 ああ、なんだか変な感じ。
 ジャージを着て横たわった私を、ストップウォッチを持った乾くんが覗き込んでる。
 下から見上げていると、顔と眼鏡の隙間から乾くんの切れ長できれいな目がよく見える。
 そしてこの角度から眺める彼の顎のラインなんかはとてもしっかりしていて、すごく大人っぽい顔してるんだなあと改めて思ったり。
 私は乾くんと二人きりの部屋でこんな風にベッド(?)に寝てるなんて、急にドキドキしてきてしまった。

「……大丈夫、痛くしたりはしないから」

 乾くんはストップウォッチを持ったまま、私の耳元で優しくささやいた。

「えっ、な、何が!?」

 私はどぎまぎしてついがばっと身体を起こして聞き返した。

「脳血流の測定だよ。心配なんだろう? 痛い事されるんじゃないかって。大丈夫、こめかみのところにプローブを貼るだけだから」

 乾くんは静かに続けた。
 私の心臓は、安静タイムに入る前よりも1.5倍ほどの速度で動いている。

「……乾くん、安静時間を三分くらい延長してもらってもいい? 今、ほら、ちょっと起き上がっちゃったじゃない、だからその分差し引きで」

 私は、今この状態で脈拍などを測定されたらかなり気まずいと、あわてて彼に願い出た。

「ああ、そうだな、構わない。じゃあ、安静時間8分だな」

 彼はそう言うとノートにメモを取った。
 よーし、あとの時間、私は全力で安静にするぞ。
 そしてなんとか心拍数を下げなくちゃ。
 しかし、横になっているすぐ傍で、乾くんがじっと私を見ていると思うとなかなか落ち着かなくて、それでもなんとかMAXの心拍数を測定されることは免れそうではあった。


「ヨシ、じゃあちょっとデータを取らせてもらうよ」

 規定の安静時間が経ったと見えて、乾くんはストップウォッチを置いて機械を手にした。
 そして、まず私の左手に小さな機械を装着した。それは、脈拍と血圧を測定する機械らしい。小さなモニターに、私の脈拍と血圧らしきデータが表示された。

、プローブを貼るためにこめかみのところにちょっとジェルを塗らせてもらうよ。水溶性のものだからすぐ落ちる。少し冷たいぞ」

 彼はそう言うと、私の髪をそうっとかきわけた。
 彼のその指の感触にまた私の心臓は騒ぎ始める。ダメダメ、せっかく安静で心拍数を下げたところなのに!
 私は、精神統一精神統一と心で唱えながら目を閉じた。
 私のこめかみには、ちょっとひんやりしたジェルが乾くんの指先で塗られる。
 ダメだ、どうにもドキドキがおさまらない。
 もうこれは、『心拍数、常に高め』のキャラで行くしかないだろうな。
 私が半分あきらめの気分でいると、こめかみには何か小さなものが貼り付けられた。
 何回か深呼吸をしてうっすら目を開けると、乾くんは私の左手につなげた方の機械の画面を見て、時々メモを取っていた。
 そしてペンとノートをカートに置くと、不意に私の手首に指で触れた。
 ちょっと、やっと落ち着いたところなのに、何すんの!
 私は思わず抗議の声を上げそうになる。
「ああ、時々こうして脈拍を実測して、機械で表示される値との差がないか確認した方が良いと、先生にアドバイスを受けたんだ」
 まるで私の抗議の声が聞こえたかのように、乾くんは静かに説明してくれた。
 なるほどね。
 でもその介入は、私の心拍数を無意味に上昇させてしまうと思うよ、乾くん。
 私は自分の手首に優しく触れる乾くんの少しひんやりとした指の感触で、どんどん心拍数が上がるのが自分でも分かる。
 経験はないしどんな物かも知らないけど、ウソ発見器にかけられてるみたいだ。

 ワタシハ、イヌイクンガダイスキデ、シタゴコロガイッパイデス

 機械からはそう書かれた用紙がプリントアウトされてきそうで、本当にドキドキする。
 
「さて、じゃあ、このガムを噛んでくれるか」
 
 乾くんは私の手首から指をはなすと、おもむろに言った。
 そしてカートの上からボトル入りのガムを手に取る。
 どれだけ噛ませるつもりなの、というくらいの大きなボトルから、ガムを私に二粒差し出す。

「砂糖不使用のものだから、虫歯の心配はない」

 私はそれを受け取って、口の中に放り込んだ。
 スタンダードなミント味のガムだった。

「このままで噛んでればいいの?」

「ああ、横になったままでかまわない。三分間噛んでいてくれ」

 彼はそう言うとまたストップウォッチを手に持った。
 私はもぐもぐとガムを噛む。
 乾くんのストップウォッチを握る指を見上げた。
 長くてキレイな指をしてるんだなあ。
 そりゃあねえ、前触れもなく好きな男の子のこんな指で触られたりしたらドキドキするよね。
 そんな事を考えてしまうけど、不思議な事にガムを噛んでいたら少し落ち着いてきた気がする。乾くんからああいう話を聞いていたから、余計にかな。単純だなあ。
 もぐもぐとガムを噛んでいたら、三分間はあっという間だった。

 そして、また測定タイム。
 時折『実測』される時には相変わらずドキドキするけれど、さっきよりは少し心拍数が下がったような気がする。
 少なくとも乾くんの仮説と激しく対立するような結果にはならなそうで、私はほっとする。

 ようやく測定が終わって、私の左手の機械と、こめかみに貼り付けられたものは取り外された。
 私はゆっくりと起き上がって、機械を片付ける乾くんをぼーっと眺めた。
 
「……どうだったの?」

 おそるおそる尋ねる。
 こんな落ち着きのない心拍数の被験者はクビって言い渡されやしないかしらと、私はちょっとびくびくしていた。

「うん、やっぱりガムを噛むと脳血流量は明確に上昇するな。あと、心拍数も下がる。ただ……」

 乾くんは機械のメモリーを満足気に眺めながらも少し首を傾げて言った。

、水泳部の割に結構ベースの心拍数が高めだな」

 そして私を振り返るとあの穏やかな笑顔。
 私は顔が熱くなった。やはりウソ発見器に出てたんだ。

「まあ、急にこんな事して、緊張してたんだろう。とにかく、どうもありがとう、とても参考になったよ」

 乾くんは何でもないように言うと、嬉しそうに私を見た。
 私はちょっと安心する。クビにはならなそうだし、乾くんに下心がバレているわけではなさそうだ。

「うん、たいしたことしてないし、役に立てるならいいんだ。……みんな、もっと協力してくれればいいのにね」

「あはは、部の連中はさ、計画書もなにも見る前に俺が実験をやるって言うと全員逃げちゃうんだ。本当はこういう実験、何人分もデータを取らないといけないんだけど、今回は一人でもしっかりとデータを取らせてくれて、本当にありがたいんだ。何度も言うようだけど、心から感謝しているよ」

 乾くんの誠実な言葉は、私の心に染み入る。
 感謝だなんて。
 私なんか、変な事にドキドキしてばかりで、下心いっぱいなのに。
 だけど下心いっぱいだけど、それでも全力で私も頑張ろう。
 明日からは12分間走だ。
 乾くん、私、精一杯走るから!
 そして、イブンタ選手に負けないくらいガムを噛むから!

 私は手元の計画書をみて、ぐっと拳を握り締めた。

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2007.8.14

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