● 恋のヘルシンキ宣言(2)  ●

 放課後、私はジャージに着替えると理科実験室に走った。
 そうっと中をのぞくと、乾くんはまだ来ていない模様。
 私は中に入って、椅子に腰掛けた。
 きょろきょろと周りを見渡すけれど、特に恐ろしげな物は置いていないようで私はほっとする。
 結局実験につきあう有志は私ひとりなのだろうか。
 それでは若干責任が重いな、という反面、だったら二人きりじゃないの! と発奮する思いもあり、複雑な気分で彼を待った。

 理科室で二人きり?
 でもジャージ姿なんて色気がないなあ。
 まあ、水着ってわけにもいかないし、仕方ないか。

 なんてバカみたいな事を考えていると、理科室のドアが勢いよく開いて乾くんがごろごろとカートを押しながらやってきた。この後、終わったらすぐ部活に行くためか、テニス部のジャージに着替えてきている。テレビに出てくる科学者みたいな白衣の彼を想像(期待)していた私は、少々拍子抜けしてしまった。

「悪い、待たせたね」

 カートの上には機械がいくつかと、あと分厚いファイルが乗っていた。
 私は彼に促されて、机の前に座った。
 ファイルを載せた机をはさんで、彼と向かい合う形だ。
 まるで先生との面談みたい。
 一体、どんな実験をやるんだろう。
 私は少々不安になってきた。

「まずは、インフォームドコンセントだ」

「はあ?」

 彼の言葉に私はまぬけな返事を返した。
「どんな実験を何のためにやるのかっていう説明をして、きちんと同意を得る手順だよ。話を聞いてやっぱりいやだな、と思ったらいつやめてくれても構わない」
「はあ……」
 もっともらしく言う彼の調子に、私は相変わらず少々不安なまま耳を傾けた。
「今度関東大会の決勝で対戦する立海大附属のチームに、丸井ブン太という選手がいてね。なかなか頭の切れる、高い技術を持った選手なんだ」
 その後続いた彼の言葉は、果たしてどう実験につながるのかわからないけれと、当然ながらストレートにテニスに結びつくノーマルなイントロダクションで私は若干ほっとした。
「俺は毎回相手チームの選手のデータをいろいろと研究しているわけだが、ヤツはいつもガムを噛んでいる。立海は規律の厳しいチームとしても有名なんだが、そこの厳しい部長・副部長が、テニスコートでクチャクチャとガムを噛む選手を容認しているというのが、ふとひっかかったんだ。つまりガムを噛むという『咀嚼』が、ヤツの強さに関係するのではないかと思ってね。そこでちょっと調べてみたら、案の定、咀嚼をするという事は脳血流量を上昇させ意識を覚醒させる効果と、かつリラックス効果をももたらすという研究結果が多く得られているらしい。ただ、このような研究は成人から高齢者を対象で行われている事が多いから、俺は同年代の若年層の場合はどうなのか、そして運動に伴う心拍数の上昇にも『咀嚼』は影響を及ぼすのか、という事を今回の実験で調べたいと思っているんだ」
 ほっとしたのもつかの間、乾くんの口からは私にとってわかるようなわからないような事がどんどんまくしたてられた。
 私の頭の中には、バッターボックスでガムをクチャクチャと噛む助っ人外人プロ野球選手ばりの、マル=イブンタというわしっ鼻のメキシコ系アメリカ人テニスプレイヤーが勝手に思い浮かぶばかり。
「……はあ」
「そして、これが実験計画書だ」
 乾くんはファイルからまず一枚の用紙を取り出して私に提示した。
 そこには以下の内容が書いてあった。

<実験計画書>
1)実験目的
ガムを噛む事による咀嚼と脳血流の関係を調べる。及び、運動によって上昇した心拍数がガムを噛む事による咀嚼で有意に低下するかを調べる。

2)実験スケジュール
○月○日
・被験者の安静時脳血流量、脈拍・血圧の測定。
・被験者がガムを咀嚼する前後での脳血流量、脈拍、血圧の差の測定
○月○日
・被験者が12分間走を実施し、前後の脈拍・血圧の測定
○月○日
・被験者が12分間走を実施しその直後にガムを噛んだ場合の、運動前後の脈拍・血圧の測定。
○月○日
 予備日

3)倫理的配慮
 今回の実験で得たデータは数値的に処理するもので、被験者のプライバシーは遵守する事とする。

以上

 とまあ、こんな感じだ。
 私はさーっと目の前が真っ暗になった。
『もしかしたら、乾くんといい雰囲気になれるかも』などという私の甘い下心は見事に打ち砕かれたのだ。
 私は、何かマズい汁でも飲んで『マズーイ!もう一杯!』とか言って、あとはイチャイチャ話したりしてればいいのかな、なんて思っていたのに。
 このスケジュールでは、12分間走が二回も組み込まれている。
 いくら私が運動部とはいえ、12分間走ではいい雰囲気どころではないだろう。
 気落ちしている私に追い討ちをかけるように、乾くんは追加で二枚つづりの書類を提示した。

「そして、これはヘルシンキ宣言だ。目を通してくれ」

「え? はあ? ヘルシー宣言? ええと私、ちゃんと健康だから大丈夫よ」
 
 私はそう言って、あわててそのややこしそうな文書を乾くんに突っ返した。

「ヘルシンキ宣言だよ」

 彼は微笑みながら再度ゆっくり言うと、その書類をまた私に差し出した。
 私はそのびっちりと文字の書いてある用紙と乾くんを交互に見比べる。

「世界医師会での、『ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則』だ。もちろん今回のは厳密な医学研究じゃないし、厳密にこの宣言書通りに実験をやるわけじゃないけどこういう理念のもとでやって行くよって事。まあ俺だって、メチャクチャにマッドサイエンスティックな実験をやるわけじゃないんだよ。よく皆、誤解してるみたいだからね。に安心してもらおうと思ってさ、プリントアウトしてきた」

 彼はそう言うと優しく笑った。
 私は彼の提示した『ヘルシンキ宣言』とやらに目を落とす。
 しかし何しろ、見慣れない言葉でびっちり埋まっている文章なのだ。私はため息をつく。

「乾くん、かいつまんで説明してよ」
「つまりだな」

 全部で32項目からなるその宣言書のところどころをペンでさしながら、彼は説明してくれた。

「主に俺が伝えておきたいのは、今回実験をやって得たのプライバシーやデータは絶対に外にもらさないし、が嫌だとか辛いと思ったら、いつでもやめる事ができるという事だよ。が同意しない事はしない。危険な事もやらない。いつでも自身を第一に尊重する。そういう事を念頭に俺は実験を遂行する、という事なんだ」

 彼の丁寧な説明に私は耳を傾けた。
 実験計画書とヘルシンキ宣言を改めて眺める。
 乾くんは、本当に真面目で一生懸命なんだなあ。
 この書類攻撃にびっくりしてしまったけど、私は改めて感心した。
 それに比べて、下心しかなかった私ときたら。
 いや、今尚それがないとは言えないのだけど、ちょっとだけ反省した。
 乾くんがこんなに一生懸命なら、私は想像上のマル=イブンタ選手の如く張り切ってガムを噛もうと思う。そして、あまり好きじゃないけど12分間走だって頑張ろう。少しでも、この一生懸命な乾くんの役に立てるならば。
 私は乾くんの提示した計画書とヘルシンキ宣言に同意をした。

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2007.8.13

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