「ジャッカル、何を言っている! が好きなのは、お前なのだぞ!」
弦一郎のその一言は、はっきりとその場に響き渡った。
ジャッカル桑原に、相棒のブン太。他のテニス部員達に見学者にそして、。
その場にいる全員に、彼の滑舌のよい言葉は確実に伝わったことだろう。
訳がわからないといった顔でぽかんと口をあけているジャッカル、そしてあのくりくりとした目を、大きく見開いている。
時々弦一郎に見せることのある、あのびっくりしたような顔。
いつもは、それが徐々に笑顔にかわっていくのだ。
が、今、彼女の表情は目を見開いて、まるで凍りついたようにはりついたまま。
周囲のテニス部員たちがなにやらざわついている様子だが、弦一郎の耳にそれは入ってこない。
弦一郎は、自分が、口にするべきではないことを口にしてしまったのだと気づいていた。
が、自分でもどうしようもなかったのだ。
は弦一郎に凍りついた表情を見せて、すぐさま目を伏せた。
そしてその後は迷う事なく、全力でその場を走り去った。
次の瞬間、蓮二が弦一郎の名を叫ぶのと、彼がを追って走り出すのはほぼ同時だった。
本格的な夏に入る前の、ここちよい季節。
けれど今日は少々蒸し暑い。
走る弦一郎の体をなでまわす風は粘りつくようで、思うようにスピードが出ない気がする。彼の視線の先にいるは、まっすぐに走り続けていた。あまり体育は得意ではないというが、こうも走れるものだったのかと、こんな時でありながら弦一郎は妙に感心してしまった。
が、がどれだけ全力を尽くして走っていたとしても、当然ながら弦一郎が追いつくのにさほど時間はかからなかった。
「!」
弦一郎がのショルダーバッグのストラップをつかむと、大きく肩で息をしているはあっけなく足を止めた。弦一郎のほうを振り向くことはしない。
大きく揺れる肩のリズムが落ち着いても、その肩がこきざみに揺れるのは止まらなかった。
「!」
もう一度彼女の名を呼んだ。
の表情は読み取れなかったが、弦一郎はひとまず自分の言うべきことを伝えようとした。
「、すまなかった。俺は……」
ともかく謝罪の言葉が口をついて出るのだが、その後の言葉が続かない。
彼は、ジャッカルがの気持ちも知らずに無神経な言葉をかけることが気に入らなかった。
そして同時に、ジャッカルの目に蓮二とが睦まじい男女に見えたのだということも気に入らなかった。それは、弦一郎が蓮二とを見て感じていることが、彼だけの思い込みではなく、現実になってしまったかのように錯覚させたから。
そうやってふいに乱された彼のやり場のない気持ちは、突如に向けられたのだ。
なぜ、はジャッカルに自分の気持ちをぶつけないのか。
蓮二ではなく、ジャッカルに向けられているはずの彼女の思いを。
ほんの一瞬で渦巻いた彼のそんな思いが、図らずも弦一郎の口からの気持ちを暴露してしまうという結果を導いてしまった。
が、それをどうやって彼女に説明したらよいのだろう。
彼が珍しく言葉につまっていると、大きく深呼吸をしたがぐいと振り返って彼の顔を見上げた。
「真田くん。あれはルール違反でしょ。真田くんが正しいからって、何をしてもいいっていうわけじゃないよ」
いつもちょっと恥ずかしそうに笑って細める目は、今はひどく強くて、弦一郎を睨みつける。思わず鞄のストラップから手を離した。
「じゃあ」
小さな震える声でそう言うと、くるりと背中を向けた。
「……待て、! 話を聞け!」
「聞く事なんて、なにもないよ」
再度振り返って言うと、彼女はまた駆け出した。
その時、彼女を追おうとする弦一郎の腕を掴む何者か。
苛立った気持ちで彼は振り返った。
「今はやめておけ」
普段と変わらない、落ち着いた声の柳蓮二だった。
「蓮二!」
弦一郎の腕を掴んだまま、蓮二はため息をついた。
「……すまなかったな、弦一郎」
突然の彼の言葉に、弦一郎は驚いて彼の顔を改めて覗き込んだ。
「何のことだ?」
蓮二は怪訝そうに尋ねる弦一郎を見ずに、ふううっと再度大きく息をつきながら空を仰いだ。
「お前はを好きだろう。見ていて少々じれったかったので、俺は余計なことをしたかもしれん。お前を、ああも焦らせてしまったとは思わなかった。すまない、弦一郎」
彼の言葉に、弦一郎の鼓動が突然に大きくその存在を主張しはじめた。
「なんだとぅ! 蓮二、俺はそんなことなど! お前は一体何を言っている!」
思わず怒鳴り散らす彼に、蓮二はそっとその長い指をした美しい手をかざした。
「いいんだ、弦一郎。今更、取り繕っている場合じゃないだろう」
蓮二は彼を、校庭の端のベンチに促した。
「がジャッカルに告白をしたとして、上手くいく確率は約9.8%」
そして、冷静な声でつぶやいた。
「おそらく、弦一郎もそう感じていたんじゃないか」
彼の言葉に、弦一郎は何も答えなかった。
けれど、蓮二の言うとおりだった。
きっととジャッカルが上手くいくことはないだろう。
彼は確かにそう感じていた。
「早くが、ジャッカルへの恋にケリをつけるといい。そう思っていただろうな」
「馬鹿な! 俺はなにも……!」
まるで自分の心を読んだかのような蓮二の言葉に、弦一郎はまともに抗議の弁も出てこない。
「いいんだ、弦一郎」
蓮二はもう一度言った。
「普通の男の、普通の気持ちだ。恥ずべきことではない」
そう言って、鞄の中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出すと弦一郎に差し出した。彼は無言でそれを受け取り、中身を喉に流し込んだ。
蒸し暑いながらも日暮れが近づいて、少しずつ二人を取り巻く風は気持ちのいいものになってきている。
「確かに、がさっさとジャッカルに思いを告げて玉砕すれば、プロセスとしてお前も納得のいくことだろう。が、俺がデータマンでありながらPCを多用しないのはどうしてかわかるか? 俺が普段分析する対象は人間だ。人間は二進法では理解できないからな。理屈どおりにはいかないんだ」
弦一郎は黙って彼の言葉を聞いた。
「現段階のデータでは確かにの恋が成就する可能性は1割にも満たない。けれど、人は変わる。何かのきっかけで、その可能性は大幅にアップすることもある。そして反対に、ちょっとしたきっかけでは別の相手に恋をするかもしれない。それも、お前は感じていただろう? 俺がに近づくたびに」
「……蓮二、お前はわざと……!?」
蓮二は今度は深々と頭を下げた。
「だから、あやまっているのだ。彼女は俺のことはさっぱり意識していないから誤解をさせる心配もないし、お前にそういったことを気付かせるのに良いかと思っていた。必要以上に焦らせてしまったようで、そして結果としてこんなことになってしまい本当にすまなかった。策を弄するべきではないなどと言いながら、俺もまだまだだな」
蓮二の言葉に、弦一郎は怒りと羞恥とが胸に渦巻いて頭に血が上るのを感じた。
「……!」
何かを言おうとしても言葉が出ない。
何から何まで見透かされていた自分にも腹が立つし、いいように自分の気持ちを操作していた蓮二にも腹が立つ。
「しかし、弦一郎」
申し訳なさそうな表情のまま、蓮二は続けた。
「確かに、の恋が実るといいとも思うのだが、俺は正直なところ、お前がと上手くいくといいと思っていたんだ。お前があんな風に他人のことにこだわって、一生懸命なところは初めて見たからな。それに、とお前は似合いだ。勿論、今でも、上手くいくといいと思っている」
夕暮れの涼しさとスポーツドリンクの爽やかさで、弦一郎の胸のわだかまりはゆっくりととける。
わかっているのだ。蓮二が、自分を思ってくれているということは。
「……だが、もうだめだろう。気にするな。そもそも俺たちは色恋などと言っている時期ではないし、まだそんな年齢ではない。だいたい、があんなに人の話も聞かずに行ってしまうような奴だと思わなかった。やはり、人を知るには時間をかけなければならん。これでよかったのだ」
弦一郎はつとめて冷静につぶやく。
隣から蓮二のため息が聞こえた。
「弦一郎は古風なくせに、思考がデジタルだな。こんなことなら、ジャッカルを巻き込んで水戸黄門ごっこでもしてみればよかったかもしれん。あれは俺にはない発想で、ある意味新鮮だった」
そして小さく笑う。
「今日はに何を言っても無駄だろう。明日、お互い落ち着いてからきちんと話をしろ」
話をすると言っても、何を話せばよいのだろう。
そう途方にくれつつも、弦一郎は隣で微笑む友に力強く肯くのだった。
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2008.5.31