● 青春波止場・純情編(10)  ●

 翌日、普段どおり早朝4時に目を覚ました弦一郎は、寝覚めが悪いわけでもないのに、いつもより布団を出るのに時間がかかった。
 昨夜は眠りにつくまで布団の中で、今日と顔を合わせたらなんと話そうかと思い巡らせていた。そして、結局のところ何ら建設的な考えが浮かぶこともなく眠りに落ちて、今に至るのだ。
 溜め息をつきながら重い体を布団からひっぺがし、剣の稽古の支度をした。

 部活の朝練を終え、弦一郎は急ぐでもなくのんびりするでもなく教室へ向かう。その足どりがいささか重いことは認めざるをえない。
 と顔を合わせるのが、やはり気が重い。
 が、これは避けられないことなのだ。
 彼は自身を奮い立たせて教室の扉を開ける。
 はいつも彼が教室に入る頃には大概登校していて、自分の席のあたりで友人たちと話をしたりしている。
 教室の中、歩を進めながらちらりとそのあたりに目をやるのだが、の姿はなかった。そのかわりに、彼女とよく話をする女子のひとりと目が合う。
は今日、休みだよ。熱が出たんだってさ」
 彼女は憮然とした様で弦一郎に言い放つ。
「何!? 熱だと!?」
 彼は思わず声を上げた。足を止めて彼女の方へと向き直る。
「何度くらいの熱なのだ? クラス委員が学校を休むくらいなのだから、よっぽどの高熱か? よしんばインフルエンザだったとしたら事は重大だ。インフルエンザの潜伏期間は1日〜数日というからな。お前たちもうがい、手洗いには留意しろ。そうだ、保健委員に注意喚起をうながすよう言っておいた方がいいな! お〜い、保健委員!」
「保健委員はあたしだけど」
 目の前の彼女がぶっきらぼうに言う。
「そうかお前か、丁度よかった。うがい手洗い励行の標語を各洗面所に張って、HRの際にも皆に啓蒙するように。ちなみに、早朝の乾布摩擦も効果的だと思うぞ。それとだな……」
「真田、バッカじゃないの!」
 弦一郎の言葉をさえぎって、彼女は冷ややかに言い放った。
「……なんだとぉ!」
 いきり立つ弦一郎に構わず彼女は続けた。
はインフルエンザなんかじゃないよ。熱もきっと、たいしたことはないし」
「何っ!? それではズル休みなのか!?」
「あのねえ、真田、いいかげんに……」
 苛立ったように前のめりになる彼女を、もう一人の女子がそっと制した。
 と仲の良いもう一人の友人だ。
 眼鏡をかけた穏やかそうな彼女は静かに言った。
「真田くん、昨日のことね、もう皆知ってるの。ああいう話ってすぐ広まるでしょ。そういうこと。それくらいは察して」
 眼鏡の彼女がそう言うと、もう一人の気の強い方もため息をついて自分の席に腰を下ろした。もう弦一郎の方は見ない。
 弦一郎は少々釈然としないまま自分の席へ向かった。
 その日は一日、女子生徒たちの、彼に向ける視線がひどく険しいものだったような気がした。

「蓮二!」
 その日はコート整備等のため、テニス部の練習がない日であった。
 そういう日の放課後、柳蓮二は大概図書館か和室にいる。図書館に姿がないことを確認した弦一郎は、和室へ駆け込んだのだ。
「ああ、弦一郎。どうした」
 おそらく彼の言いたいことなど予測がついているだろうに、畳の上に正座をし、半紙を前にした蓮二は落ち着いた様子で言うのだった。
「……のことだがな」
 弦一郎は鞄を置きながら、蓮二の前に姿勢正しく正座した。
「今日はズル休みをしていた。どう思うか」
 眉間にしわをよせて勢い込んで言う彼を見て、蓮二は苦笑いをしながら軽くため息をついた。
「熱が出て欠席、ということだったな」
 蓮二はどこから聞いてきたのか、そのあたりの情報は既に確認済みのようだった。
「ああ。同じクラスになってから一度も欠席をしたことのないが休むというから、よもやインフルエンザによる高熱か? と思ったのだが、彼女の友人によるとそれほどの熱でもないらしい。昨日の件を気にして欠席ということなのか? しかしそれでは、ズル休みということではないか」
 の友人の言葉を思い出しながら、弦一郎は苦々しい表情で言う。
 彼の中では、気が重い出来事があったからという理由で学校を欠席するということは是ではないし、どう受け止めていいのかわからなかったのだ。
「弦一郎」
 広く静かな和室に、蓮二の落ち着いた声が響く。
「例えばだな。クラスメイトたちやテニス部員が大勢いる面前で、俺の口から『弦一郎はに懸想している』と公表されたことを想像してみろ」
「なんだと! 蓮二、俺は……!」
「いいから、例えば、の話だ」
「……むむ……」
 弦一郎は蓮二の言うとおり、彼のに対する気持ちが図らずも他人に、そして本人に知れ渡ることを思い描いてみる。
 その気持ちは、決して他人に、当然ながら本人にも簡単には明かすつもりのない、自分だけの思いだ。
 ふと、弦一郎は自分の手のひらにじんわりと汗がにじんでいることに気付いた。
「こころとからだは結びついている。それはお前ならよくわかっていることだろう? こころを大きくかき乱す出来事があれば、身体に何らかのサインがあらわれるのも当然のこと。ズル休みだなどとミもフタもなく片付けてやるな」
「……」
 うっすらと汗のにじんだ自分の手のひらを見つめながら、弦一郎は家にいるだろうを思った。
 と、彼は突然立ち上がる。
「邪魔をしたな、蓮二。俺は帰るとする」
「そうか、では気をつけてな」
 弦一郎は和室を出て、大股で廊下を歩く。
 そのまま校門を出た弦一郎は走り出した。
 勿論、目指すはの自宅だった。
 あいかわらず、会って何を話すのか彼の頭には何もまとまってなどいない。
 けれど、どうにも彼女の顔を見なければ気持ちが落ち着かなかった。
 それは単に自己満足にすぎないのかもしれないと自分でもわかっていても、どうしようもなかった。

 蓮二とともに送って行ったことのある彼女の自宅の前に立った弦一郎は、門の前で大きく深呼吸をする。
 そして、まずはインターホンを押した。
 ぐっと押してから、弦一郎の心臓はドンドンと高鳴る。今日、和室で蓮二の前でそうだったように、手のひらに嫌な汗がにじんだ。
『はい』
 インターホンのスピーカーから声がした。
 女性の声だが、機械を通したそれが、のものなのか家族のものなのか彼には判断がつかなかった。
「こんにちは。さんのクラスメイトの真田といいます。今日はさんがお休みだったので、課題のプリントを預かってきました」
 課題のプリントの件は本当だった。
 クラス委員の彼が、いつも欠席者の分を確保する役割をしている。
『はい……』
 インターホンでの通話が切られ、しばらくの沈黙。
 居心地の悪いような気分で彼がたたずんでいると、ガチャリと玄関が開いて中から人が出てきた。
 本人だった。
 彼女はゆっくりと門の方へ歩いてきて、そうっと門を開けた。
「わざわざありがとう」
 は弦一郎と目は合わさず、彼のネクタイの結び目のあたりを見ながら小さな声で言った。
「うむ、いや、クラス委員だからな」
 のプリントを握り締めたまま、弦一郎はつぶやいた。
 しばし何を言うでもなく立ったままだった二人は、どちらともなく歩いて縁側に腰を下ろした。
 グレーの室内着のワンピースを着て、いつもは結んでいることがほとんどの髪をおろしたは、学校に制服でいるときと少し雰囲気が違い、弦一郎は戸惑ってしまう。
 テニス部員たちとは休日に私服で会うことも時々あるが、皆さして印象が変わることはない。なのに、女子というのはどうしてこう、制服とそうでない時で変わってしまうのだろうか。
 不思議に思いながら、普段よりも少し女らしく見えるをちらちらと伺っていた。
「……具合はどうなのだ」
 そしてかろうじてそれだけを言う。
「あ、うん。もう熱はほとんどないの。大丈夫」
 はうつむいたまま、小さな声で答えた。
 まだ陽射しの強いこの時間、濡れ縁の陰を通る風はここちよかった。縁側の傍には、陽よけに植えてあるのだろう苦瓜の葉が涼しげにそよいでいる。
「……昨日、あんな風に言っちゃって、ごめんね。私も気持ちがたかぶってたから」
「いや、俺が!」
 の言葉に、弦一郎は思わず腰を浮かせて声を上げる。
「俺が、悪かったのだ。本当にすまないことをした」
 彼が言うと、は大きくため息をついて、小さく笑った。
「ほんとにねえ、びっくりしたよ真田くん。桑原くんだけじゃなくて皆に聞かれちゃうしさ。私、桑原くんのこと、友達にも誰にも話してなかったから、友達からも『真田が知ってて、どうして私たちが知らないのよー』って責められちゃうしさ」
「ううむ……重ね重ね、すまん」
 弦一郎は深々と頭を下げる。
「あんなこと言うなんて、真田くんはサイテーだって、ゆうべはもうずっと腹が立ってしかたがなかったし、もうどうしたらいいんだろうって死にたいくらいだったんだけど……」
「なっ、何だとぅ! 死ぬとはならんぞ、!」
 慌てて立ち上がる弦一郎を見て、はくっくっと笑う。
 久しぶりに、あの、目の下の柔らかなふくらみを見た。
「いや、それはあくまでも比喩的表現で、実際に死のうと思ってるわけじゃないから。どうしたらいいんだろうなーって気が重いのは変わらないけどね。でも、今日一日家にいていろいろ考えて、きっと真田くんは私がいつまでもうじうじしてるのがじれったくて、私のことを思ってくれてのことだったんだろうなって改めて思ったの。真田くんなりの、親切だったんだよね」
 の言葉を聞いて、弦一郎は複雑な気分になってしまう。
 勿論、を後押ししたい気持ちというのは嘘ではないが、その背後に、早くジャッカルとのことにケリをつけてしまえという彼の自分勝手な思いがあったことを、は知らない。
「ああ……うむ……」
 なんと返すべきか思い悩みながら自分の指先などを見つめていると、は空を見上げていた。
「きっと真田くんは、好きなら好きだとまっすぐにぶつかっていけ! って思うんだよね。けど、なんていうんだろ……」
 空を見上げたまま、は少し言葉を探すように考え込んだ。
「多分真田くんも見ててわかってたと思うけど、桑原くんが私を好きになることってないと思うんだ。きっと桑原くんは、なんていうか、ノリのいい楽しい子が好きなんだと思う。私、あんまり面白いこととか言えないし……ほら、前に丸井くんのファンの子がお菓子持ってきてたりして、桑原くんも楽しそうだったじゃない。きっとああいうのがいいんだろうなあって思うけど、私は恥ずかしくってああいうことできないしね」
 そう言って、ふうっとため息をつく。
「私は確かに桑原くんを好きだけど、つきあいたいのかどうかっていうと……なんだかわからない。好きだけど……単に私のそんな気持ちを一方的にぶつけても、桑原くんは困るだけだと思うんだよね」
 彼女は弦一郎に話すというより、まるで自分自身に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
 単に気弱で何も言い出せないままでいたのだと思っていたに、彼女なりの考えがあったのかと、弦一郎は改めて思い知らされた。
「……ほら、柳くんみたいに気を遣っての優しいタイプと違って、桑原くんは天然で優しいでしょう? きっと、好みじゃない女の子から告られたりしたら、すっごく困っちゃうんだろうなって思う」
 は眉をハの字にしながら、困った顔を作ってみせて笑った。
 隣で足をぶらぶらとしている小柄な女子が、ひどく大人に見えた。
 女というのは、かなわぬ恋の相手のことをも気遣えるのかと。
 一方彼は、ふいに出てきた蓮二の名前が気になって仕方がないというのに。
「……うむ、蓮二は確かに気配りの利く男だからな」
「ねえ、すごく人を気遣うよね。でも、ああ誰にでも同じように優しいんだろうなあって思っちゃうの。ちょっと損かもね」
 くすくすと彼女は笑った。
わかるようなわからないような彼女の言葉に、弦一郎はあいまいに肯く。
「……俺は、蓮二のようにもジャッカルのようにも優しくはないな」
 そして自分のことを振り返ってつぶやいた。
「ああ、真田くん?」
 すると、は少し驚いたように声を上げる。
「真田くんは……なんていうんだろ、優しいっていう言葉じゃ違う気がするし、上手く言えないなあ。『真面目で親切な男の子』って言ったらそうなんだけど、それだけじゃなくて……真田くんは、真田くんって感じね」
 またもや、わかるようなわからないような言葉だった。
「真田くんは真田くんでいいんだと思う」
 けれど、ははっきりそう言って、ぶらぶら振り回す自分の足先を見つめた。
「……はそう思うか」
「うん」
「そうか……」
 しばらく黙ってそのまま座って、弦一郎は、自分は一体何をしに来たのだろうなと思った。
 謝る以外、何も気の利いた言葉をに言うこともできない。
 の言葉をきちんと理解して返すことができたのかも、怪しい。
「真田くん、今日はわざわざ来てくれてありがとう。桑原くんのことはまだ残る課題だけど、真田くんにもあんな風に言っちゃって、どんな顔して会おうかってすごく気になってたから。今日、会えてよかった」
 目の下にあの柔らかなふくらみをたたえて笑うをじっと見た。
 そうか、来て、よかったのか。
 彼女の言葉を反芻した。
 確かに自分はここにやってきて、なにもできなかったけれど、こうやって彼女と並んで座って話をきいて、やけに気持ちが穏やかだった。
 彼はいつも問題が起これば、理路整然と解決してきた。
 今日は何も解決していないし、物事はあいまいなままだ。
 けれど、そういうのも悪くない。
 人間は二進法ではないと、蓮二が言っていたことを思い出す。
「今日休んだの、ズル休みだって、真田くんに怒られるかと思った」
 が笑いながら言うと、彼はあわてて立ち上がった。
「い、いや、ズル休みなどとは思ってなどおらんぞ!」
「明日は、ちゃんと学校行くから。心配かけてごめんね」
 ゆっくり歩いて門を開けるの後にならい、門を出た彼はしばらくじっとを見下ろすとまた深々と頭を下げる。
 今度は謝罪という気持ちではなく、ちょうど剣の試合の後、相手に礼をするような気持ちだった。
「それでは、また明日」
 笑って手を振るに背を向けた。
 ここにやってくる時の数倍は足が軽い。
 はまだ彼女自身の問題をかかえているというのに、自分だけが楽になってしまったことが、弦一郎はどうにも申し訳のない複雑な気分だった。



 翌日、宣言通りにはきちんと登校していた。
 部活を終えた弦一郎が教室に入ると、の友人たちがまるで彼女を守るかのように弦一郎との間に立ちふさがっている。
 まあ、無理もないだろう。
 彼はため息をつきながら、鞄をロッカーに仕舞う。
 女子生徒達の隙間から見えるは、普段どおり楽しそうにおしゃべりをしている。
 はきっと自分と似たタイプのまっとうで真面目な人間なのだと、弦一郎は単にそう思っていたのに、今ではさっぱりの気持ちがわからない。
 昨日は学校を休むほどに心乱れていた彼女は、今は一体何をどう考えているだろうか。

 美しく整備されたコートで、その日の放課後はみっちりとトレーニングを行った。ボールの弾む音すら澄んで聴こえるような気がした。
 部員たちは弦一郎の前では何も言わないが、先日のことで時折ジャッカルをからかっているようだった。休憩時間にコートの外のベンチで、丸井ブン太や切原赤也に何か言われては、困ったように顔を赤らめているジャッカルが遠目に見えた。
 弦一郎が苦々しい気分でそんな彼らを眺めていると、彼らに近づく人影が目に付く。
 だった。
 彼女の姿を確認した瞬間思わず手にしたタオルを取り落としてしまったが、弦一郎はそれも気にせずフェンスの方へ駆け出した。
 と目が合う。
 心配そうな彼に、彼女は軽くうなずいてみせて、そしてジャッカルに近づくと目の前で足をとめた。
「桑原くん」
「あ、ああ……」
 戸惑った顔で立ち上がる彼の隣では、興味津々といった感じでブン太と赤也が控えている。
 は緊張した顔のまま、じっと彼を見上げて続けた。
「一昨日は、ごめん。びっくりしたでしょう」
「あー、うん、まあ……」
 彼はもじもじしたまま。
「私、真田くんのクラスで、って言います。前にもちょっと話したんだけど、去年の冬に……あの、飼育小屋のとこでウサギのこと教えてくれて、あとウコッケイの卵、くれたでしょ。一度、ちゃんとそのお礼を言いたかったの」
「……あ、ああ、あん時のな!」
 ジャッカルは思い出したようで、口元をほころばせる。
「優しく話してくれて、嬉しかった。そう言いたかったの。あの……真田くんが言ってたことは、気にしないで。また、何かのときに、動物のこととか教えてくれたら、嬉しい」
 昨日、家の縁側で話した時よりもひどく緊張して固い口ぶりだが、はよどみなく言って、大きく息をついた。
 ジャッカルは戸惑った表情からほっとしたような笑顔になって、ニカッと笑った。
「おう、俺、今年もまた生物委員だから、飼育小屋のウサギいつでも見に来いよ。ウコッケイが卵産んだら、とっといてやる」
「うん、ありがとう。じゃあ」
 はぺこりと頭を下げてから、ちょっと照れたような、それでも嬉しそうな満足そうな笑顔をジャッカルに向ける。
 そして、ちらりと弦一郎を見て笑うとコートを後にした。
「こうやって、確率はかわっていく」
 いつのまにか彼の隣にいた蓮二がつぶやいた。
「……なんのことだ!」
 驚いた弦一郎は聞き返す。
「今のところ、ジャッカルはを女として意識していない。が、彼女の顔と名前を認識し、会話をする機会が増えればどうなるかわからないからな。そもそも、彼女が自分を好きなのだと奴は知ってしまったのだから」
「なんだと!?」
 弦一郎は思わず怒鳴る。
「いつもうつむきがちなところしか見ていなかったが、じっと自分を見上げて目を合わせて話をしてみれば、結構可愛らしい女子なのだと、あいつも気付いただろう。人は、きっかけ次第でかわるものなんだ」
 コートを後にするの後ろ姿を、ジャッカルが目で追っているのを弦一郎はみとめた。
 彼はそれ以上蓮二の言葉を待たず、コートを駆け出した。
 ジャッカルたちの傍を走り抜けて、を追う。
!」
 声をかけると、は驚いた顔で振り返る。
「ああ、練習中にごめんね。終るまで待とうかとも思ったんだけど、休憩中だからいいかなって。桑原くん、そんなに気を悪くしてなかったみたいだし、ちゃんと話せてよかった。みんなからからかわれたりしてたら、悪いなあって思ってたの」
 は足を止めてほっとしたような笑顔で言う。
「ジャッカルのことなどどうでもいい!」
 思わず怒鳴った彼を、はまた驚いた顔で見た。
「……、家で……書道は続けているか!?」
 彼の突然の言葉に、は面食らった顔のまま。
「はあ? あ、うん、昨日休んだ時、精神統一しようと思っていくつか書いたよ。でも、なんか落ち着いてなかったからか、上手く書けなかったけど。また柳くんに教えてもらわないといけないかな」
「柳に書を教えたのは、俺だ」
「あ、そうなんだ。うん、真田くんすごく習字上手だものね」
 うんうんとうなずきながら言うに、弦一郎は大きく深呼吸をしたあとに続けた。
「だから、俺がに書を教えてやろう。蓮二に習うより、俺がいいぞ。俺の方が絶対にいい。それに、ジャッカルにウサギの話を聞くよりも、書の練習をする方が有意義だと思うぞ」
 真剣な顔で、少々眉間にしわをよせて言う彼を、目を丸くしたはじっと見上げた。
「……うーん、真田くんにお習字、習うのかー……。厳しそうだなあ」
 くっくっと笑いながら言う。
「しかし、何事も基礎が肝心だからな!」
 彼が言うと、はまた笑った。
「うん、ありがとう。明日、道具持ってくる」
「よし、では、明日な」
 は手を振って、校門に向かった。
 彼女の姿が、やけに雄雄しく見える。
 来年、再来年と、彼女はどうかわっていくのだろう。
 けれどもひとまず明日、彼女と二人で、どんな字を書こうか。
 何があろうと、二人にその明日がやってくることは、確実なのだ。

(了)
「青春波止場・純情編」
2008.6.1
 

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