● 青春波止場・純情編(8)  ●

「じゅうごまんえんー!?」
 蓮二と弦一郎が行き付けにしている書道具の店で、は声を上げた。
 ちょっとした硯の値段を見て驚いたようだ。
「えっ、墨でもじゅうまんえんって!」
 続いてガラスケースの中の墨を見て目を丸くする。
「墨はこう見えて、乾燥させて完成品となるのに何年もかかるからな。高価なものは果てしなく高価だ」
 目を丸くして驚いてばかりのに、蓮二は微笑みながらひとつひとつ説明をしていた。は、感心しながらそれを聞いている。
 店内で楽しげに言葉をかわす蓮二とは、まるで睦まじい男女のように見えてしまい、弦一郎はどうにも落ち着かない。そんな目で二人を見る彼を、きっと蓮二は『意識しすぎだ』と笑うだろうと思うとシャクで、深呼吸をして努めて自分の気持ちを落ちつけるのだった。
 ケースに入れられた高価な書道具を興味深そうに眺めるの目は、ただでさえ大きいのに一層大きく見開かれている。そんな彼女の様子に、弦一郎は蓮二のことを気にしながらもついつい見入ってしまう。そうしていながらも、ガラスケースに映る自分の顔が、まるで苦虫を噛み潰すかのようであることにふと気づいた。
「こっちに、手頃なものが置いてある」
 を促す蓮二の声に、弦一郎もはっと我に返った。
「弦一郎も墨を買うのだろう? 一緒に選んでやったらどうだ」
 蓮二が言うと、は微笑んだまま弦一郎を見上げた。
「うん、なんだかどれを選んだらいいかわからないし、真田くん、教えて」
 仏頂面を若干崩して、弦一郎はようやく言葉を発する。
「うむ、はどういった色が好みだ?」
 尋ねる彼に、は不思議そうな顔をする。
「色って、墨の色? 墨の色って、黒じゃないの?」
「同じ墨でも薄くすったときと濃いめにすったときでは発色が違うし、墨によって、紫がかったていたり、茶がかっていたりする。そのあたりは、自分の好みで選べ」
 彼が言うと、はまた感心したような声をあげた。
「へえ、墨の色なんてみんな同じだと思ってた。小学校の時に使ってた墨汁は、ただ、黒〜って感じだったもの」
「液体のものは天然の墨だけではなく、添加物が使われていることが多いからな」
そしてまた、へえ、という声と笑い声。
「私、へぇへぇ言ってばっか。奥が深いねえ、お習字も。真田くんおすすめの手頃な墨ってあったら、教えて。それにするから」
 傍で、蓮二が小さく頷いている。そうか、一緒に選んでやるというのは、彼女に良さそうなものを選んで勧めてやればいいのか。もしかすると自分は少々気が回らないのかもしれない、と思いながら弦一郎はいくつかの墨の紙箱を棚から取り出しての前に並べた。
「これは薄く摺った時の紫がかった色がきれいだ。こっちは、やわらかめですりやすい。これは、やや赤味がかった茶が特徴だな」
 しばし考え込むを見つめながら、彼は半紙に走らせた筆から流れる墨の色を思い浮かべた。
「これはどうだ」
 一つの箱を手にして、それをに差し出した。
「これは丁度、秋の夕暮れのような深く美しい紫がいい感じに発色する」
 静かでいつまでも見ていたような、しっとりした深い秋の夕焼けの色。彼が感じるのイメージにぴったりだった。そんな一言を添えて良いものかどうか、一瞬悩む。
「そうだな、その墨の色は確かにきれいだしなかなかいい。にぴったりだと思うぞ」
 隣から、さらりと蓮二が言葉をはさんだ。
「へえ、きれいな色なんだ、これ。うん、じゃあこれにする。ありがとう、真田くん、柳くん」
 ちょっと照れたように笑って二人を見るに、『選んだのは蓮二ではなく、俺だろう』とは、当然弦一郎には言えなかった。

 三人は店を出て帰路についた。
「真田くんはどんな色の墨を買ったの?」
は買いものに満足したのか、晴れやかな顔をしている。
「ああ、俺が買ったのは、少し赤っぽい色のやつだ。赤、といってもうっすら茶色がかったようなものだが」
「へえ、茶色っぽい墨も渋くてきれいかもね」
は本日何度目かわからない『へえ』を発した。自分でもおかしいのか、くっくっと笑う。
「あ、じゃあ私、こっちだから。今日はそんなに遅くないし、ここで大丈夫」
 手を振る彼女に、蓮二は微笑んで軽く手を上げてみせた。弦一郎は、何か声をかけようかと思いながらも言葉が思い浮かばず、あわてて目礼をする。
 夕暮れが近づいて、夏日かといわれていた日中の暑さはすっかり和らいでいるなか、はゆっくりと二人に背を向けた。
 土曜の夕暮れ、学校の外で見るは、それでも制服姿でいつもと何ら変わりないのに、なぜだか特別な気がする。このまま別れるのは惜しいようにも思うのだが、だからといってこれ以上何も用事はない。
!」
 それでも弦一郎は彼女の名を呼んだ。
 背を向けかけたは、はっと振り返る。
「うん、なあに、真田くん」
「……墨は、湿気を嫌う。使ったら水気をきちんとふき取り、紙か何かに包んで風通しの良いところに保管しろ」
 かける言葉は、それしか思い浮かばなかった。
 は肯きながらにこっと笑う。
「うん、わかった。ありがとう真田くん。じゃあね、また月曜日」
 再び手を振って自宅の方向へと歩いてゆくの後姿を数秒眺めた後、弦一郎と蓮二も歩き始めた。
「……は真面目だな」
 歩きながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべて蓮二がしみじみと言う。
「当然だ。クラス委員だからな」
 言いながら、ふいに、和室でに書の指導をしたり、店で丁寧に書道具の説明をする彼の姿が思い返された。当然、その傍のの姿も。
 蓮二は、テニス部員の中でも弦一郎にとって近しい存在であり、彼のことはよくわかっているつもりだ。いや、実際よくわかっている。
 蓮二には、時にぐっと大人びて懐の深いところを感じさせられることがある。
 例えば、二年生の切原赤也などに対しても、弦一郎はただただその未熟さを叱りとばしてしまいがちなのだが、蓮二はうまくいなして赤也の良いところを引き出すような関わりを持ち、それが非常に効果的だったりする。データマン、参謀、マスターとさまざまな通り名のある彼は、人の心を掌握することにも長けているようなのだ。
 だが、自分のこととなるとあのポーカーフェイスでなかなか他人に気持ちを読み取らせない。
 のことを『真面目だな』としか言わない彼は一体を、どう感じているのだろうか。
「……蓮二」
「ああ、何だ?」
「……は、ジャッカルに懸想しているのだぞ」
 やけに真剣な顔で言う彼がおかしいのか、また蓮二はくくっと笑った。
「ああ、自分の耳で聞いたから知っている。だから、どうかしたのか?」
「……いや、だからだな……書の道具をそろえるなどよりも、その、ジャッカルとのことが何とかならないか、考えて協力してやってくれ」
 眉間にしわをよせたまま言う彼に、蓮二はふと足を止めた。
「弦一郎」
「うむ?」
 つられて弦一郎も歩くのを止めて立ち止まった。
「先日も言ったと思うが、色恋というのは簡単に策を考えどうこうできるものではないだろう。まずはがどうしたいか、だ。周りが焦って騒ぎ立てれば、上手くいくものも上手くいかぬ。そう、せくものではない。弦一郎が何をあせっているのだ?」
 諭すように言う蓮二に、思わず弦一郎は拳を握る。
「何も俺はあせってなどおらん! ただ、同じクラス委員としてだな……」
 言われてみれば、なぜ弦一郎はの恋をおしすすめることに妙に焦るのだろうか。
 そもそも、彼はまだ自分たちの年頃での色恋は早いのだと、常日頃思っているはずなのに。
「……そうだな。弦一郎は面倒見が良いからな。クラスメイトを思って、つい熱くなっているのだろう」
 言葉につまった弦一郎の背に、蓮二がぽんとその手で触れ、言った。
「……ああ、そうだ」
 彼の言葉に大げさに肯きながら、ゆっくりと再度歩き出した。
 その後、二人は静かに、言葉をかわすことなく歩きつづけた。



「真田くん」
 月曜になって二限目の後の休み時間、机に向かって予習をしている弦一郎に、が声をかけてきた。彼が顔を上げると、いつものあの目の下のふくらみが目に入る。
「日曜ね、一度墨をすってちょっと字を書いてみたの。確かに、墨汁の色と違ってきれいね。墨をするなんて久しぶりだからちょっと薄くなっちゃったんだけど、薄いとホント真田くんが言ってたとおり紫がかって、きれいな色だった。あんな墨を使うんだったら、習字も楽しいよね。選んでくれてありがとう」
 嬉しそうに報告をするのだった。
「そうか。気に入ったのなら、何よりだ」
「あんな大層なお店に連れていかれて、最初はびっくりしたけど、よかった。その辺の文房具屋さんじゃ、ああいうの売ってないものね。柳くんにもお礼言わなきゃ」
「……
「うん?」
 弦一郎は教科書を広げたまま、言葉をさがす。
「柳は、その……大丈夫か?」
「え? はあ? 何が?」
 意味がわからないという顔を返すに、弦一郎はついつい険しい顔をつくってしまう。
は普段あまり男子生徒と話をせんと言っていただろう。柳と話すのは大丈夫か、と聞いている」
 何も気の利いた言い回しができない自分に、自分で少々苛立った。
「あ、うん、そういえば柳くんは話しやすいね、今までクラス委員の集まりなんかで顔を合わせたことはあったけど、話すのは初めてだったのに。多分、真田くんの友達だからっていうのもあるかな。真田くんと同じで、真面目で親切だし」
 けれどは特に気にした風ではなく、さらりと答えた。
「そうか。うむ、ならいいんだ」
「気遣ってくれたの? ありがとう」
 ぺこりと頭を下げて自分の席に戻るを、弦一郎は少々複雑な気持ちで見送った。
 弦一郎の友人だからということで、安心して蓮二と接してくれることはやはり嬉しい。
 が、同時に、が気安く言葉を交わす男子生徒が、弦一郎だけではなくなったのかということは、正直なところいい気分ではなかった。そもそも蓮二に相談をするようもちかけたのは自分だというのに。
 この先、が蓮二から体操着のジャージを借りたりすることもあるのだろうか。
 それは、ジャッカルが相手であるよりも、よりしっくりと現実的に弦一郎の頭に思い浮かんだ。



 その日、弦一郎はを昼休みに和室に誘うことはしなかった。
 特にその必要がなかったから、というのが理由だ。
 本当はと蓮二が話すところを、あまり見たくないという気がしないでもないのだが、彼はそれは明確には認めたくなかった。自分がそのような下らない嫉妬じみた気持ちなど、抱くはずがない。そう自分に言い聞かせ、その日は自身も和室で書をしたためることをしなかった。とも、休み時間に話した後、特に会話をすることもなくさっさと部活へ向かう。
 その日は、いつにも増して集中してトレーニングに力を入れた。
 トレーニングをするということは、体を隅々まで使うのは当然だが、脳も相当に使う。その、体と脳をつなげて思い通りの動きを目指してゆく鍛錬の感覚が、弦一郎はとても好きだった。思い通りに出来た時には例えようもなく喜ばしいし、上手くいかなければ何度でも反復練習をする。
 そして、そのような集中した時間はあっというまに過ぎる。
 気が付けば部活の終了の時間だった。
 部員たちに終了の声をかけて一年に片付けを命じ、コートの外へ出ようとすると、の姿が目に付いた。
 弦一郎にひとことも告げずにやって来ることが少々意外で、彼は驚いて思わず声をかけた。
「どうかしたのか?」
 言ってから、ああ、ジャッカルを見にきたに決まっているのだったと、自分の間抜けな言葉に後悔の念を抱く。が、彼女は妙な顔をするでもなく穏やかに笑う。
「友達と話してたら遅くなっちゃったから、ついでにちょっと寄ってみたの。墨のこと、柳くんにも一言お礼を言っておこうと思って」
 言いながら、彼女の視線は弦一郎の背後に移った。
 振り返ると、丁度蓮二がコートから出てきたところだった。
「ああ。今日も見にきていたのか」
 タオルで汗をぬぐいながら蓮二が言った。
「うん、今日は今来たとこなの。あの、柳くんにお礼を言いたくて。今日、真田くんにはちょっと話したんだけど、週末に家でちょっと習字をやってみて結構楽しかったの。あの墨もなかなかよかったし。柳くんが教えてくれたような姿勢と筆の持ち方で書いてみたら、自分で言うのもなんだけど思ったより上手く書けて楽しくなっちゃった」
 一生懸命話すを、蓮二も笑って見た。
「それはよかったな。店に誘った甲斐がある。俺でよかったらいつでも教えるから、また言ってくれ」
「そう? ありがとう。でもまだちょっと自分で練習しないといけないかなー」
 和気藹々と話す二人を見ながら、弦一郎はどうにも苛々したような気持ちが湧き上がるのを感じていた。
 と、三人の傍に人影。
 通り過ぎざまに足を止めたジャッカル桑原だった。
「あれ、柳。その子、真田のクラスのクラス委員だろ? 最近よく話してるよな。柳の彼女だったのか?」
 彼はいつもの明るい優しげな声で、ちょっとからかうように言った。そしてにこやかにを見る。
「えっ!? わ、私!? ちが……」
 テニスコートに来るようになってから、初めてジャッカルとまともに顔を合わせただろうは目を丸くして、口をもごもごと動かすのだが上手く言葉が出てこない。
 弦一郎は、あっけらかんとしたジャッカルと驚いた顔のを見比べる。
 そして、相変わらずポーカーフェイスの蓮二が口を開きかけるのが彼には見えていた。蓮二はさらりとそつなくジャッカルの言葉を否定するのだろうとわかっていたのだが、弦一郎はその言葉が発せられるのを待つことができなかった。
 彼のえもいわれぬ苛々感は、どうしようもなく膨れ上がっていたのだ。

「ジャッカル、何を言っている! が好きなのはお前なのだぞ!」

 はっと気が付いた時には、弦一郎は野太い声でそう怒鳴っていた。

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2008.5.27
 

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