● 青春波止場・純情編(7)  ●

「へぇ、桑原くんてー人っ子だったんだ」
そんな事をつぶやきながら、は嬉しそうに蓮二の手渡した資料に目を落していた。
弦一郎と蓮二そしての三人で学校から帰った翌日の昼休み、例の和室で蓮二は約束どおり、ジャッカル桑原についてのデータを彼女のために用意してきたのだ。
彼の好きな食べ物や、テニス以外の趣味・好きな音楽など、いかにも好きな男について、女子が知りたがるようなデータである。はいつもにこやかな方であるが、こんな風に少し照れたようなそれでいて本当に幸せそうな笑顔は、ちょっとなかなか見ることはない。
昨日テニスコートに来ていた時も楽しそうにしつつも少々緊張していた様子だったが、今はとてもリラックスしていていい笑顔だった。
彼女にデータを手渡した蓮二は、そしらぬ顔で墨をすりはじめている。
幸せそうな顔でうつむいている、無防備な笑顔のについついみとれていた弦一郎は、慌てて自分も書道の道具をひろげて準備をはじめた。
しばし、自分の手元に集中していた弦一郎は、の視線が今度はこちらに注がれていることに気づいた。が、努めてそれを意識しないよう硯を墨でこすり続ける。
「……は、書はやらないのか? 気持ちが落ち着いて、なかなかよいぞ」
隣から蓮二の声が響いた。
 弦一郎は構わず筆を手にとり墨になじませる。
 の小さな笑い声が耳をくすぐった。
「あ、うん、選択してないし小学校の時以来やってない。でも、真田くんと柳くんがやってるの見てたら、結構いいかなぁって最近思ってたとこ」
「そうか。では、思い立ったが吉日と言うし、ひとつ書いてみてはどうだ」
 蓮二の言葉に、ふと弦一郎が顔を上げると、が目を丸くしている。
「ええ? 今、書くの?」
「俺の道具を使うといい」
 蓮二は立ち上がって、自分の席へ座るようを促した。は少々戸惑いながらも、ちらちらと蓮二を見ながら彼の書道具の前に正座をする。
「ええと、でもいきなり書くっていっても、なんて書いたらいいかわからないなあ。久しぶりだし、あんまり難しい字は書けないと思うし……」
 筆を手にするのを迷っている彼女に、蓮二は落ち着いた声をかける。
「何でも思い浮かんだ言葉で構わない」
「突然言われても、思い浮かばないよー」
 くっくっとおかしそうには笑った。
「そうだな、では、『真実一路』ではどうだ」
「あ、うん、いいね。小学校の時にそんなの書いた気がする」
 なじみのある言葉にほっとしたのか、はようやく筆をその小さな手に取った。
 左手で何度か半紙をなでて、しわがないのを確認して、少々おぼつかない手つきで右上に『真』の一字を書く。形は悪くはないのだが、どうにも力がなく少々ふらついた感があった。
 もう少し上体を安定させ、筆をきちんと立てて書くのだ。
 と、弦一郎が内心で思ったと同時に蓮二の声が続いた。
。左手で半紙を押さえながら上体を安定させ、背筋を伸ばし、筆はもう少しまっすぐに立てた方がいいな」
 はびくりと蓮二の方を見て、何度か肯きながら一生懸命姿勢を正そうとした。
「ええと、こんな風?」
 体を机に近づけて、きゅっと背筋を伸ばした。
「脇をもう少し締めた方が安定する。力は入れすぎるな」
 の隣に座って見ていた蓮二は、すっと彼女の後ろにまわり、背中から覆い被さるような形で両手を彼女のそれに添えた。
 の左手をきゅっと半紙の次の字を書く部分のすぐ隣に添えさせて、そして筆を握る右手を彼のそれで覆う。
 弦一郎は思わずぎょっとしながら、じかに触れ合っているの小さな手と蓮二の長い指に視線を注いだ。
「こんな感じだ」
 そう言いながら、蓮二はの手に自分の手を添えて『実』の字を書く。
 の手から描き出された、蓮二の繊細で力強い文字。
「あ、なるほどねー」
 は感心したように声を上げる。
「確かに脇をきゅっとしめると安定して書きやすいかも。こんな風に教えてもらうのって、小学校の時に習字の時間に先生にやってもらった以来だなあ。でも、わかりやすい。ありがとう」
 そう言って、少し恥ずかしそうに笑って蓮二を見上げた。
「続きを書いてみろ」
 から離れた蓮二はそう言い渡す。
 は今度は楽しそうに、『一路』と書き加えた。
 最初の一文字に比べると安定し、そしてのあの丁寧な優しい字の感じが上手く現れていた。
「ほう、なかなか上手いじゃないか」
「そう? ありがとう」
 はほうっと息をついて筆を置き、満足そうに半紙を眺めた。
 最初の『真』は少しふらついて、『実』はやけに堂々としっかりとしており、そして『一路』は落ち着いた女らしい字で。
「私も家で習字道具探してみよう。まだあったかなあ。真田くんたちみたいに良い道具じゃないけど。真田くんたちのって、墨とか硯もすごくかっこいいよねえ」
 蓮二はくくっと笑った。
「いきなりいいものをそろえるのは勧めないが、も小学校の時の習字セットではつまらないだろう。硯は値が張るが、墨くらいなら新しいものを買うといい」
「あ、そうか、墨ねー。私のは習字セットに入ってたのそのままで、いつもめんどくさいから墨汁を使ってたの。ちょっといい墨を買ったら、楽しくなるかもね。ちゃんとした墨って、文房具屋さんに売ってる?」
「専門の書道具の店に行った方がいいな。……明日は土曜だが、が時間を合わせられるのならば、部活の帰りに一緒に店に行くか?」
 彼の言葉に、弦一郎は筆を手から取り落とす。
「弦一郎、お前も新しく墨を買いたいと言っていただろう。どうだ」
 そして突然向けられた言葉に、一瞬戸惑う。
「あ、ああ、そうだな」
「えー、一緒に行ってもらっていいの? 私は当然暇だけど……」
「だったら、またジャッカルの練習を見ていけばいい」
「あ、うん……そうする」
 言われて、は恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに笑ってうつむいた。
「あっ、私、今日日直だからもう行かなくちゃ。真田くん、ごめん、先に行くね。柳くん、桑原くんのことありがとう、あと道具使わせてくれてありがとう。片付けもしないでごめんね!」
 は時計を見るとせわしく礼を言いながら慌てて立ち上がり、ぺこりと二人に頭を下げて和室を出て行った。
 その後姿を眺めている弦一郎に、蓮二の言葉がかけられた。
「弦一郎、どうした。墨がこぼれているぞ」
「うむ? あ、ああ!」
 筆を落とした時にはねて散った机の黒い点を、弦一郎はあわててふき取る。
「それより蓮二」
 ぎゅっぎゅっと力を込めてふき取りながら、弦一郎は低く険しい声を発した。
「お前が、あのように破廉恥な男だとは思わなかったぞ」
 彼の言葉に、蓮二はその細い目を一瞬開いてかすかに笑った。
「ああ? 何のことだ?」
「男子たるもの、気安く女子に触れるものではない! 我々は小学生ではないのだぞ! それに、放課後のプライベートな時間に気軽に誘うなど……」
 険しいまなざしで言い放つ弦一郎に、蓮二は涼やかな笑い声を上げる。
「フォームの矯正には直接指導が有効だとお前はいつも言っているだろう。それにお前が俺に書を教えてくれた時も、ああやって手を添えて指導してくれたではないか。別にどうということはない。学校帰りに書道具の店に同級生同士で寄るくらいのことも、風紀上問題はないだろう」
「いや、しかし……!」
 確かに蓮二の振る舞いはごく自然で、しかももまったくそれを気にして構える様子がなかった。
 ほんの昨日からと話すようになっただけの蓮二が、なぜそのように接することができているのか、弦一郎にはどうにも釈然としない。
「弦一郎」
 蓮二は静かに続ける。
「前からいささか気にはなっていたのだが、お前は風紀委員ということもあるかもしれないが、男だの女だのやけに気にしすぎてはいないか? 男女交際等に興味がないのだったら、もう少し意識せず普通に女子に接すればよい。そうでないと……」
 言葉を途切ってまたくっくっと笑う蓮二を、弦一郎は少々苛立った表情で睨む。
「そうでないと、何だ」
「……真田弦一郎はムッツリだ、と言われてしまうぞ」
「何だと!!」
 思わず怒鳴る弦一郎に、蓮二は、冗談だと笑いながらさっさと道具を片付けて和室を出て行った。
 鼻息も荒いまま蓮二の後姿を睨みつける弦一郎は、はっと時計に目をやるとあわてて片付けを始めた。
 まったく、柳蓮二はあのようなことを言う男だったか。
 内心で毒づきながらも、彼の言は確かに的を得ているのだと、弦一郎も認めないわけにはいかなかった。



 翌日の土曜、午後は高等部との合同練習であった。
 テニスコートには、自分の部活動を終えた生徒などが見学に来ている。
 それに混じって、がいるのを弦一郎は己の視界に認めた。
 部活動には入っていないは、わざわざ制服を着て見学をしに来たのだろう。
 トレーニングウェア姿の見学者が多い中、その姿は少々目立っていた。
 合同練習では、主に今年卒業した先輩たちと、つまり高等部現一年と試合形式の練習を行う。
 この時期では、途切れることなく練習を続けていた弦一郎たちの学年と、進学準備で若干のブランクがある一学年上とではむしろ弦一郎たちの方が勢いを見せることすらあり、良い練習となっていた。
 自分の練習試合を当然ながら勝利で終えた弦一郎は、隣のコートでダブルスの練習試合をしているジャッカルとブン太を見た。ブン太のボレーは相変わらず冴え渡っているし、ジャッカルの無尽蔵といえる体力と守備範囲にはさすがに先輩たちも閉口しているようだ。おそらく彼らも難なく先輩から勝ち星を奪い取ることだろう。
 コートの外を見ると、ブン太目当ての女子に混じって、が真剣なまなざしでダブルスのコートを見ていた。

 熱いまなざしでジャッカルを見つめる
 蓮二と自然に楽しそうに話す

 数日前、と自分のこれからの四年間のことを考えていた時には、そんなことはまったく予定になかった。
 一体、自分の計画の何が不備だったというのか。
 ジリジリとした思いを抱えて、彼はぎゅっとテニスボールを握り締めた。


 そしてトレーニングを終えた頃、再びは緊張した面持ちでジャッカル桑原の姿を視線で追う。おそらく、彼女なりに何か話し掛けようと心に決めているのだろう。
 それを遠くから見守る弦一郎にも、彼女の緊迫ぶりが伝わって来て彼もついつい拳を握り締めてしまう。
 連れ立ってワイワイとしゃべってコートから出てくるブン太とジャッカルの方に、は一歩踏み出した。
 が、それより先んじて彼らに近づく者があった。
「丸井くん、お疲れ様! すごいねー、高等部の先輩に勝っちゃった! よかったらこれ食べて!」
「のど乾いたでしょ、これ飲んで!」
 丸井ブン太のファンの見学者の女子たちだった。
「うおっ、サンキュ!」
 甘いものに目がないブン太は、素直な笑顔でてらいなくそれらを受け取りその場でムシャムシャと頬張る。
「ジャッカルにもわけてやっていいよな?」
「うん、もちろんいいよー。桑原くんも食べてー」
「おっ、わりぃな」
 ワイワイと楽しそうに菓子を囲む輪の外で、すっかり機を失ったはがっくりとうなだれていた。
 まったくもってして、チャンネルが合わないらしい。

 彼女に何と声をかけようかと逡巡していた弦一郎に先んじて、蓮二がタオルを首にかけたまま、すっと前に出た。
「軽くミーティングしたら終わりだ。東門でまっていろ」
 さらりとそれだけを言うと、弦一郎を見た。彼もはっとする。
「早く片付けをすませろ! まだミーティングが残っているのだぞ!」
 弦一郎は部員達に怒鳴り、そしてジャッカルとブン太を睨みつけた。
「やべ! 真田の鉄拳はごめんだぜ!」
 ジャッカルは頬張っていた菓子をあわてて飲み込むと、走り出した。
 ちらりとを見ると、彼女はやはりそんなジャッカルを目で追っている。
 女子にとって恋をした男というのは、どんな姿であってもアピールするようだ。

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2008.5.25

モクジ

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