「グラマーで色白な女だ」
ロッカーの扉を閉める弦一郎の耳に、聞きなれた声が飛び込んできた。
部室の奥からノートを手にしたまま現れたのは、既に着替えを終えた柳蓮二だった。
「ジャッカルは母親のお国柄か、やはりグラマーな女が好きらしい。そして、こちらに来てからは日本人の女の肌が美しいことに感心して、色白の美人を好むようになったという」
パラパラとノートをめくりながら静かに続けた。
「そういえば、弦一郎の好みは聞いたことがなかったな。お前の好みのタイプとはどういった女なのだ?」
普段どおりの穏やかな笑顔で蓮二は尋ねる。
突然の彼の質問に、弦一郎の頭にとっさに浮かんだのはの笑顔だった。
少々控えめで、こつこつと誠実で、笑うと目の下がふっくらとふくらむ彼女。
あれくらいに好ましい女子はちょっとほかにいないだろう。
一瞬下を向いて、思わず浮かんだそのご満悦気味な微笑を蓮二の視線から隠し、次の瞬間には、きゅっと眉をひそめて蓮二を睨みつけて見せた。
「そんなことを尋ねるなど、たるんどるぞ。蓮二」
彼の答えを予測していたのか、蓮二はふふっと笑ってノートを閉じた。
「そうか、悪かったな」
そう言うと軽く手を上げて部室を出て行った。
「ジャッカルの件だがな」
翌日、またもや和室で墨をすりながら、弦一郎はの前で難しい顔を向けた。
彼女への報告のため、この日もまた和室へ誘ったのだ。
「うん……」
向かい合う二人は、さながら生徒指導室で進路指導中の生徒と教員のようだ。
は彼の目の前に座り、背筋をぴんと伸ばしていた。
「あいつには特に親しい女子はいないそうだ」
「……あ、そうなんだ……」
は明確に表情を変えるわけではないが、ほうっと安堵したような息を漏らすのを、弦一郎は見逃さなかった。
「それとだな」
弦一郎はしゅっしゅっと硯で墨をすりながら、改めてを上から下まで観察する。
弦一郎の目から見ても、残念ながらはジャッカルの好みのタイプとは言いがたいような気がした。
という女はじっくりよくよく見てようやく、その控えめな可憐さに気付くようなタイプだ。
「ジャッカルは、色白でグラマーな美女が好みだという」
若干逡巡したのち弦一郎がそう告げると、今度ははふううっと大きなため息をついた。
「あ、そうなんだ。そうだよね、桑原くんそういコが似合いそう。そりゃ、私のことは印象に残らないよねえ……」
想像以上にがっくりとうなだれるに、ジャッカルの好きなタイプなど告げぬ方がよかったのかと弦一郎は少々あわてた。
「あ、いや、しかしあくまで好みということであるし、それは実際に恋をする相手とはまた違うのではないか」
まったく恋の経験も実感もないのに、知った風なことをつい口に出してしまう。
「うん、でもまあ、多分私はぜんぜん桑原くんのタイプじゃないだろうなーとは、うすうす思ってたんだ……。いいよ真田くん、気にしないで。ありがと」
もう一度ため息をつくと、は目を伏せたまま笑顔をつくる。
いつもしっとりと澄んでいるような和室の空気が、なぜだかまるで片栗粉でもまぜたようにどろりとして、何かが吹きだまっているかのように感じられた。
おそらくは行き場のない思いを抱えているのだろうと弦一郎は思う。
そういった思いは、弦一郎も同じだった。
これから少しずつ距離を縮めていこうと思っていた相手は、今、目の前で好きな男を思ってため息をついている。
コンコン、と墨で硯をたたき墨汁を落とし、筆を取った。
『面壁九年』
一気に書き上げた半紙をに手向けた。
「月並みかもしれんが、継続は力なり、だ。簡単に諦めるな」
言ってから、まるでこれは自分に言い聞かせているかのようだと、半紙の裏から透けるその文字を見つめた。その向こうには、難しい顔をして弦一郎の書に手を伸ばす。
「……あいかわらず、いい字を書くね、真田くん」
彼女は苦笑いをしながらそれを手にする。
「真田くんが言うことは一理あるとは思うんだけど、こういうのって……勉強や習い事とは違って粘り強く頑張るからって上手くいくもんじゃないよね、難しい」
そしてまた大きなため息。
「いいの。私、本当は男の子を好きだとか、そういうのちゃんとはわかってない。なんとなく、桑原くんを好きだなあって思ってるだけで楽しいんだ。だから、気にしないで」
ゆっくりと言葉を選びながら話す。そんな彼女を見つめていた弦一郎はふっとその背後に目を奪われた。そしてその視線の先をたどるように、も振り返る。
弦一郎の視線の先、和室の入り口には柳蓮二が立っていた。
弦一郎と同じく書をたしなむ彼は弦一郎同様、時折こうやって昼休みに和室にやってくるのだった。
しんと静かな部屋には、まだの言葉の余韻が漂っているかのようだ。
『桑原くんを好きだなあって』
そんな彼女の真摯な言葉が。
は目を丸くして立ち上がった。
「!」
弦一郎が声をかけると同時に、彼女は蓮二の脇をすり抜けて和室を走り出る。
ひらひらと、『面壁九年』という弦一郎の書が畳に落ちた。
弦一郎はあわてて筆を置く。勢い良く置いたものだから、転がって机に墨汁が垂れるのだが、それもそのままに立ち上がり、と同じく蓮二の傍を通り抜けて彼女を追った。
「!」
もう一度彼女の名を呼び、小走りに階段を下りようとする彼女の二の腕をつかんだ。
彼女は強い抵抗は示さないが、うつむいたまま。前髪からのぞくその目は、なんといったらいいのだろうか、悲しそうな何かを悔やむようなそんなやるせない表情だった。
「……やだ、柳くん、聞いてたよね。あれ……」
小さな声を絞り出した。
「一人で思ってるだけなら楽しいの。でも、なんだかこう、人に知られちゃうと自分がバカみたいでほんと恥ずかしい。あー、なんで私ってこうなんだろ」
笑おうとしているようなのだが上手く行かない。そんな泣きそうな顔。
の二の腕は柔らかくて、いつも一緒にストレッチをする部の男子生徒などとはまったく違うことに驚きながら彼はあわてて手を離した。
「、柳は大丈夫だ」
彼はとにかくとっさにまずそれだけを言う。
「蓮二は信頼できる男だ。決して誰にも口外しない。それは俺が保証する。それに、お前をからかったり傷つけたりするようなことも言わない」
強い口調で言う彼を、はようやく顔を上げて見た。
「だから……そんな、この世の終わりのような顔をするな」
彼が言うと、はじっとその目を見てそして深呼吸をした。
「ごめん、私、そんな顔してた?」
きゅっと結ばれていた唇がふんわりと解ける。
「あ、いやそれは大げさかもしれんが……」
自分の方こそ、彼女の態度に慌てすぎてしまったかもしれないと弦一郎も我に返る。
「その……蓮二がテニス部で何と呼ばれているか知っているか?」
照れ隠しのようにぎゅっと胸の前で腕を組んで彼は言った。
は軽く首を横に振って見せる。
「テニスの腕前では達人と呼ばれているが、あいつは個人の技術が卓越しているだけではなく、チーム全体の作戦を立てるに当たってあらゆるデータを統括し、分析してゆくことに非常に長けている。それで『参謀』との異名もあるのだ。つまり……」
弦一郎は組んだ腕をほどいた。
「がジャッカルに懸想していることを知られてしまったからには、味方につけておいた方が得策であろう」
目を丸くする彼女の腕をもう一度つかむと、ぐいぐいと和室の方へと引っ張っていった。
「えっ、味方につけるって、何!? 真田くん、ちょっと!!」
困ったように声をあげ今度は若干の抵抗を見せる彼女を、彼は再度和室へ連れて行った。
そこには、柳蓮二が座って静かに墨をすっており、まるで二人が戻ることを予測していたかのように、穏やかであるがその心の内を簡単には見せないいつものあの笑顔を彼らに向けるのだった。
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2008.4.18