● 青春波止場純情編(4)  ●

 翌日、いつものように教室で友人たちと過ごしているは昨日の午後のように沈んだ様子はなかった。が、弦一郎と目があうと、ふっときまずそうに視線をそらす。
 普段ならば、あの大きな目がきゅっと細くなりその両目の下がふんわりとふくらむところが見られるはずなのに、彼女のそんなそぶりに弦一郎は少なからず衝撃を受けた。
 彼女の様子が心配だったとは言え、ジャッカルへの思いを無理やり聞き出すような形になったのはやはり良くなかったのだろうか。
 そんな思いを抱きながら、午前中の授業を受けた。
 幾度か大きく深呼吸をして、弦一郎は頭の中を整理した。
 何にしろ、聞いてしまったものは仕方がない。
 そして、同じクラスメイトとして、いや、クラス委員同士としてこういった気まずいままで過ごすのは望ましいことではない。
!」
 友人たちと昼食を終えたらしい彼女に、声をかけた。
「あ、真田くん」
 は少々驚いた顔で彼を見上げる。
「ちょっと来てくれんか」
 彼が言うと、は一瞬考え込むが、すぐに弁当箱をしまって彼の後に続いた。
「どうしたの?」
 廊下を歩きながらは静かに尋ねた。
「和室に書をしたために行くのだが、つきあってくれ」
「そういえば、真田くん、よく和室に行ってるよね」
 海志館の3階の和室に二人は入っていった。
 弦一郎は書道の道具を和室に保管させてもらっており、手馴れた様子でそれらを文机の上に並べた。
 を前に座らせ、弦一郎は水を入れた硯で墨をすっていく。
 昼休みにはまずほとんど使われることのない和室は静謐で、だからこそ弦一郎はその場所が気に入っていた。彼が墨をする音だけが部屋の中に響く。
「……昨日は、無理やり話させてしまったようで悪かったな」
 は弦一郎が墨をするその手元をじっと見たまま。
「あ、うん……。桑原くんに会って、私があんな風に動揺して心配をかけちゃったからね、いいの……。昨日は私もちょっとびっくりしたけど、あの、気にしてくれてありがとう」
 目を伏せたまま静かに言う。昨日よりは大分落ち着いたようだった。
「そうか。気分を害させてしまったかと思ったが」
 彼女の様子に弦一郎もほっとする。
「ううん、桑原くんのこととか、友達にも誰にも話したことなかったし話すつもりもなかったから、恥ずかしくってね。ごめん、昨日はなんだかそそくさと帰っちゃって」
「……昨日、教室に来たジャッカルはどんな様子だったのだ?」
 昨日は自分も少々混乱して、その辺りを確認していなかったなと思い出し、弦一郎は尋ねてみた。
「あ、昨日のこと? ……桑原くんが真田くんを教室に訪ねてきて……」
 はふうっとため息をついて続けた。
「彼に真田くんの行き先を聞かれた子が、私を呼んだんだよね。クラス委員だから知ってるだろって。桑原くんが廊下に来てるのは見えてたけど、私が呼ばれるとは思わなかったからすごく緊張しちゃって。真田くんは職員室に行ってるけどもうすぐ戻るからって、それだけ言って自分の席に帰ろうとしたんだけど……こんな風に顔を合わせる機会も滅多にないだろうし、今度こそは卵のお礼を言わなくちゃと思って、思い切って……ウサギのこととウコッケイのことを話してあの時はありがとうって言ったの。そしたら、桑原くんはちょっと困った顔をして、『ごめん、それっていつ頃のことだっけ、覚えてねー。俺と話したことあった?』って……」
 ゆっくり話すと、彼女はまた大きくため息をつく。
「私、前にも真田くんに言ったけど、普段あんまり男の子と話したりしないんだよね。なんていうか、ちょっとおっかなくて苦手だし。桑原くんも前までたまに見かけたりするだけの時は恐そうな人だなあって思ってたんだけど、ウサギやウコッケイのことを話してくれた時はすごく優しくてびっくりした。あんな風に男の子と話すの、初めてだったんだ。だからすごく印象深くて、いいなあって思ってたんだけど、ああ、桑原くんは私と話したことなんか全く覚えてなかったのかーって……。やっぱり私ってなんかこう、ウスイんだろうなー。印象とか……」
 そう言うとはまた大きくため息をついてうつむくのだ。

 黒々とすり終えた墨に、静かに筆をひたして弦一郎はじっと半紙を見つめる。
「そもそもお前はジャッカルにきちんと自己紹介をしたか? 自分の名を、あいつに告げたか?」
 彼の言葉に、はうつむいた顔をはっと上げた。
「名前とか……言ってない……」
 そして小さな声でつぶやく。
 弦一郎は背筋をぴんと伸ばした姿勢で、筆に墨をなじませそしてそれを半紙に置いた。
 真っ白な半紙に迷わずに書き出す、大きく力強い文字。

 一気に書き終え、文鎮を外すとその書をの目の前に差し出した。

 百折不撓

 弦一郎のその力強い文字を、は少々戸惑ったように目を丸くして見つめる。
「あいつが忘れっぽいのもいただけないが、お前も自己紹介もせぬうちからがっかりした顔をするな」
「えっ、あっ、そんながっかりしてるわけじゃないけど……。あの、別にいいの、ほら、桑原くんかっこいいし、きっと彼女もいるだろうからね」
 ブンブンと顔を横に振るを、弦一郎はきっと睨みつけて、半紙をもう一度ぐいとつきつけた。
「あいつが懇意にしている女子がいるのかどうか、俺がそれとなく探ってきてやろう。それが明らかになるまで、投げやりになることもあるまい!」
「えっ、真田くんがそれとなくって! いいよ、そんなの!」
 あわてて言うに、弦一郎は一歩も引かない。
「百折不撓! 国語が得意なはこの意味はわかるだろう、くじけずに最初の意志を貫くのだ!」
 は困った顔で、弦一郎のつきつけた半紙をそっと手にした。
 そしてじっと彼のその書を見つめ、また大きく息を吐く。今度はため息というより、大きな深呼吸といった感じのものだった。肺の中の空気を、何度も何度も入れ替える。
 そして一度目を閉じた。
 目を閉じた彼女を、弦一郎はじっと見つめる。そういえばいつも彼女の目を見ては一瞬だけ合わせてすぐにちらりと微妙に視線をそらして話すので、こんなにじっと見るのは初めてかもしれない。長い睫毛が、いつもはふっくらと膨らむ部分を隠す。女の睫毛をまじまじと見るのも初めてだった。
 ゆっくりとのまぶたが動いて、弦一郎は突然に気まずい思いで目をそらす。まるで見てはいけないものを見てしまっていたかのようで。
 彼女のまぶたは開いてもまだその目は下を向いたままで、またじっと弦一郎の書を見て、それから彼の顔を見た。
 を叱咤した弦一郎なのに、なぜだかまるで何かの宣告を待つかのような気持ちでいた。それが何かはわからないのだけれど。
「……真田くんの字って、すごく落ち着いてて勿論すごく上手だけど、なんだか生命感があって、いいね。これ、もらっていい?」
「うむ? あ、ああ……もちろん」
「ありがとう……。あの、私、桑原くんに彼女がいたらいたで、ほんと、それでいいし……」
 はそう言って、恥ずかしそうにちょっと眉をひそめて笑った。
 そんな照れ笑いを、初めて見た。
「真田くん、無理に聞いてくれなくていいんだよー。私が桑原くんを好きだなんて、絶対誰にも言わないでね」
 彼女がさらりと口にした『私が桑原くんを好き』という言葉が、あらためて弦一郎の心にコツンと響いた。
「ああもちろん、分かっている。昨日約束したではないか。俺が約束を破る男に見えるか?」
 彼女は相変わらず恥ずかしそうに笑ったまま、首を横に振った。



 放課後、部室に向かいながら弦一郎は改めてジャッカル桑原のことを思い浮かべた。
 ついついああ口走ってしまったが、そういえば彼は懇意にしている女子生徒というのがいるのか、そして果たしてどういった女子を好ましいと思っているのか。
 普段からそういった事にはさして興味を持っていない弦一郎にはさっぱりイメージがわかない。考えなれないことを思い巡らしている自分の眉間に、深くしわが寄っているのがわかる。
 部室に入ると、ちょうど皆も授業を終えてやってきて、ジャージに着替えているところであった。
「おう、真田。昨日のトレーニング、一年坊主はヒーコラ言ってたけど、やっぱあれくらいでちょうどよかったみてーだぜ」
 彼の顔を見たジャッカル桑原が明るい声で言い放った。彼の隣では丸井ブン太がガムを噛みながら靴を履き替えている。
「ジャッカルってば、結構楽しそうにしごいてんだぜぃ」
 カカカと笑う。
「……時に、ジャッカル」
 バン、と自分のロッカーを開け放って、弦一郎は言った。
「おう、何だ?」
 弦一郎が仏頂面なのはいつものことではあるが、普段と違う雰囲気を感じたのだろうか。ジャッカルは着替えの手を止めて弦一郎の目を覗き込んだ。
「お前には、懇意にしている女子……いわゆる彼女というのはいるのか」
 彼の言葉に、靴紐を結ぶブン太の手までが止まる。
 ジャッカルは目を丸くしたまま、弦一郎の言葉を頭の中で再生しなおしているかのようだった。
「はぁ? 真田、一体どうしたよ?」
「俺の言った意味がわからなかったか? つまり、お前に……」
 イライラしたように彼が繰り返そうとすると、ジャッカルは言葉をさえぎった。
「いや、意味はわかるけどよ、お前がそんなこときくなんて、一体どうしたのかと思ってさ」
 驚き半分、狼狽半分、といったジャッカルを尻目にブン太が声を上げて笑った。
「ジャッカルに彼女がいるわけねーじゃん」
「……ンだよ、こら!」
 即刻抗議するように言うジャッカルを、ブン太は平然とあしらう。
「じゃあ、いんのかよ?」
「い、いや……いねーけど……」
「むう、そうか」
 弦一郎は心のメモ帳に『ジャッカル桑原、彼女ナシ』と書きとめた。
「……それでは、お前は一体どういった女子が好ましいのだ?」
「はあ!?」
 ジャッカルはまた声を上げる。
「例えば……」
 弦一郎は慣れぬ話題をすすめるため、必死に言葉を探す。
「そうだな、昨日お前は俺の教室に来ていただろう? 俺のクラスには、お前にとって好ましいと思う女子はいたか?」
「はああ? そんなもん、ちょっと顔出しただけだしお前のクラスの女子なんてぜんぜん覚えてねーよ」
 ジャッカルは弦一郎とのこういった会話に戸惑い気味で、さっさと切り上げたそうにチラチラとブン太に目をやった。
「むう? まったくか?」
 思わず眉をひそめてスキンヘッドの男を見る。
「だって、口をきいたあのクラス委員の子も、なんだかちっこくて下ばっかり見てる子だったからよく顔みてねーしさ。他の子とは口もきいてねーし。一体なんだよ」
「もしかして、真田のクラスにジャッカルを好きなヤツがいるとか?」
 ブン太がからかうように口をはさむと、ジャッカルは慌てたように二人の顔を見合わせた。

『絶対、誰にも言わないでね』

 の言葉が弦一郎の胸の中でよみがえった。
「……そんなもの、いるわけがなかろう!」
 ついつい怒鳴りつけると、おかしそうに笑うブン太にすっかり辟易したようなジャッカル。
「そりゃそうだよなー」
 ブン太はジャッカルの背中をバンバンたたきながら大笑いをしている。
「こいつ、モテねーくせに面食いなもんだから。 オッパイのデカイ美人のチア部にふられたり、そんなのばっかりだもんな」
「ブン太! よけいなこと言うなよ!」
「……ジャッカル、お前はそういった女子が好きなのか」
「そうなんだぜ、真田。こいつは、ほんっとわっかりやすいナイスバディの……」
 調子に乗って言いかけたブン太の頭を、すっかり気分を害した様のジャッカルがペチンとはたいた。
「うるせーよ、ブン太! 真田も一体なんだってんだよ、いっつもそういう話をしてっと、たるんでるとかどうとかばかり言うくせに……今日はお前がずいぶんとたるんでるんじゃねーか!」
 さすがに鼻息を荒くしたジャッカルを、険しい表情の弦一郎がにらみつけるように見つめていた。
「……うむ、それもそうだな。すまなかった。ジャッカル、俺を殴れ」
 そして、唇をぎゅっとかみしめると帽子を取って彼に一歩近づくのだった。
「……えっ!? はあ!? もう、一体なんだっつーんだよ、別に殴りたくねーし……。あ、俺、先行って走ってるわ」
 彼はこれ以上つきあっていられないとばかりに、ラケットを手にしてそそくさと部室を出て行った。それを追うようにして出てゆくブン太。
 彼らの出て行った後に視線をやりながら、弦一郎はふうっと軽くため息をついた。
 自らも着替えをすませると、手にした帽子をぎゅっと目深にかぶる。

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2008.4.9

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