「このまま清書してくれればいい。いつも、助かる」
弦一郎が資料を返すと、はかすかに笑ってこくりと肯いた。
「うん、じゃあお疲れ様。部活、頑張って」
資料を鞄にしまい、皆が帰った後の会議室を出て行こうとする彼女を、弦一郎は呼び止めた。
「ああ、待て、」
彼女は振り返ると、もう一度鞄をさぐろうとする。
「いや、資料はもういい。そうではなくて……、その……なにか、あったのか」
弦一郎の声はついつい厳しい口調になってしまう。改まった時の彼の癖だ。いつのまにか眉間に軽くしわが寄っているのに気付く。
「え? ……なにかって……?」
は困ったような顔で彼を見上げた。
確かに突然言われても何のことやらわからないであろう。
弦一郎はぐっと眉間にしわを寄せたまま、軽く息を吸った。
「……昼休みにジャッカルが来ていた時、はやけに居心地が悪そうだった。その……あいつはいい奴なんだが、一見少々強面であるし、もしかしてあいつが何かを言って恐がらせてしまったりしたのか?」
思い切って、懸念していた事を言葉にする。
が、その言葉へのの反応は、弦一郎の予想以上のものだった。
「えっ!? 桑原くんがって……」
弦一郎がジャッカルの名前を出すと、はびくりと目を大きく見開いて、一瞬裏返ったような声を出す。
「ううん、桑原くんがそんな……恐いなんてことないよ……」
そして、鞄を持っていない方の手をぎゅっと握り締めると、一度見開いた目をまた伏せてうつむく。彼女の様子に、弦一郎の胸のざわつきは大きくなる一方だ。
「じゃあ、一体どうした? 何か困らされるようなことを言われたのか? だったら俺からあいつにきちんと言っておいてやる。どうしたのか、言ってみろ」
二人以外は皆退室した会議室は、一変して取調室のようになった。
空気が張りつめる。
厳しい顔で射るようにみつめる弦一郎の前で、はぎゅっと拳をにぎりしめたまま黙りこくる。
彼女は小さな声で、なんでもない、と言うのだが、どうやらそれではこの場を逃れられないらしいと理解したのか、また他に何かを言いかけて口をつぐんだり、二人の間には沈黙の時間が流れた。
「……真田くん」
そして、ようやく意を決したような一言が彼女の口から出る。
「あの……絶対に誰にも言わないって、約束してくれる?」
真剣な顔で見上げる彼女の目を、弦一郎は真っ向から受け止めた。
「がそう言うなら、必ず約束をする」
はまたうつむいて、そのまま大きくため息をついた。
「あのね、桑原くんって生物委員だったでしょう」
一大決心をしたかのようなの口から出てきた言葉はそんなことで、弦一郎は拍子抜けしてしまう。
「去年の年末くらいだったかなあ。私、グラウンドの横の小屋のウサギを見てたんだ。寒い中、ぎゅっと丸くなってじっとしてるから、寒くて死んじゃったのかと思って心配になって。そうやってじっと見てたら、丁度桑原くんが来たの。それまで桑原くんが生物委員って知らなかったから、ちょっとびっくりしたんだけど。えさやりと掃除に来たらしくてね、私が、寒いけどウサギ、大丈夫なの? って聞いたら、『ウサギは暑さには弱いけど、寒さには強いんだ』って教えてくれた。俺と反対だなって、笑って」
は思い出したように、顔を上げて笑った。ふんわりと嬉しそうに。
「で、ウサギ小屋の掃除の後、隣のウコッケイの世話もしてて、その時ウコッケイが卵産んでたのを一つ私にくれたんだ」
「ほう、それはよかったな。ウコッケイの卵は薬膳にも使われる、栄養価の高い貴重なものだぞ」
「うん、家でお母さんもそう言ってた。買うとすごく高いんだってね。だから、後で改めて桑原くんにお礼を言おうと思ったんだけど、クラスも違うし普段顔を合わせる事もほとんどないしで、ずっと言えなくて……」
ふんわりと幸せそうに笑っていたの顔がまた曇る。
「それで今日、桑原くんが真田くんを訪ねて来た時、思い切ってその時のことを話して、お礼を言ったんだけどね、桑原くん、私のことぜんぜん覚えてなかったの……」
消え入らんばかりの声で言うと、彼女は悲しそうな顔でうつむいた。
「何!? そうなのか、それはけしからんな、なんと記憶力の悪い奴だ! 俺から言ってやろうか!?」
思わず憤慨した弦一郎が言うと、はあわてて顔を上げた。
「覚えてないのは仕方がないから、いいんだよ。だって、もう去年のことだし、あれから一度も話してないから。ただ、やっぱりこんなにあっさり忘れられちゃうなら、頑張ってすぐにお礼を言いに行けばよかったなあって、すごくがっくりきちゃってね……」
なるほど、彼女の沈んだ様子の理由は明確になった。
しかしそれは弦一郎の心を晴れやかにはしない。
「……ジャッカルに忘れられていたのは、そんなにショックだったか?」
彼が問うと、は片手をぴたりと頬にあてて深呼吸をひとつ。心なしか、顔が赤い。
「うん……なんていうか……。ウサギの話をして以来、ちょっと……その……好きだなあって、ずっと思ってたから、あの時のことを覚えてもらってすらいなかったかと思うとちょっとね……へこんじゃってね……」
は観念したように、小さな声を絞り出すのだった。
「……はジャッカルを好きなのか?」
胸の中を火箸でかきまわされるような感覚を抱えながら、弦一郎はつとめて冷静に続けた。自分は彼女の話を、間違って理解しているのかもしれない。そう思いながら。
はこくりと首を縦に振った。
「今日、久しぶりに近くで会って、やっぱり好きかなあって……、でもほんと、見てるだけでいいんだけどね。そもそも覚えられてないし……」
彼女は髪をいじったりしながら恥ずかしそうに言う。
こんな風に、複雑そうな笑顔をうかべながら話す彼女を初めて見た。
ジャッカルのことを話すは、まるで知らない女の子のようだ。
けれどそれはコーヒーカップの底に残った砂糖のように、不意に甘く、動かしがたい余韻を残すのだ。
弦一郎の頭の中では、何度も反芻してその完璧さに満足していた、との黄金の四ヵ年計画がぐるぐると駆け巡る。まさかその完璧なはずの計画に、コーヒー色のスキンヘッドが闖入してくるとは思いもしなかった。
そのつるりとした頭の中にの記憶を一片たりとも残していないらしいジャッカルは、このままそっとしておけば四年の間にの中からも少しずつフェイドアウトしていくだろう。それでいい。
それでいいはずなのだが……。
「たわけが! 見ているだけでいいなどと、何を弱気な事を言っている! 好きならばもっと、ガツンと行かんかあ!」
なのに、弦一郎の口から出た言葉はそんなものだった。
面食らった顔で弦一郎を見上げるを、思い切り眉間にしわを寄せたまま見下ろす彼の胸の中は、あいかわらず熱い火箸でかきまわされたまま。
いつもどおりに部活でのトレーニングを終え、いつもどおりの就寝時刻に床に就いた弦一郎は、いつもと違ってなかなか寝付けなかった。
ジャッカルのことを話す時のの顔が頭から離れない。
悲しそう、というのとはなんだか違う。辛そうだけれどどこか甘い、心に突き刺さるような表情。
恋をしている顔だ。
そういったことに疎い弦一郎でも、わかる。
それにしても自分はなぜにあんなことを言ってしまったのだろうか。
そもそも男女で好きだのどうのいったことには距離を置いていたはずの自分だ。
ガツンと行かんかあ! と怒鳴った彼に、は驚きを見せつつも『そんなの無理無理』と言い残して、そそくさと帰って行った。
弦一郎とて、具体的にどうしろと何か方策があるわけではない。
あんな風に言ったけれど、本当はこのまま静かにがジャッカルを諦めて忘れるのを待つのが、一番妥当で平和的なのだろうとは思う。そもそも、あのの笑顔を見て覚えてもいないような男など、さっさと忘れてしまえと思う。
が、もしも、がジャッカルと上手くいく可能性があるのだとしたら。
それをみすみすと見逃して、このまま過ごしていくというのは、何か違うと弦一郎は思うのだ。上手く言葉にできないが、それでは真っ向勝負にならないのだ。
ジャッカルがの隣を歩いていたり、ジャッカルがにジャージを貸したりする様を想像してみては、胸の中がゴウゴウと痛む。
自分は間違ったことを言ったのだろうか?
暗くした部屋の中、布団の中で彼は自問自答した。
いや。
間違ってはいない。
が自分の恋にまっすぐにすすみ、そして幸せになるのならそれが一番良いことであるはずなのだ。そして、まずはそれに取り組むべきである。
それが間違いのはずがない。
喝!
腹に力を入れて発声した後、ぎゅっと目を閉じた。
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3.30.2008