● 青春波止場・純情編(2)  ●

 教室の前へ出て、黒板にゆっくりと丁寧に英作文を書くの後姿を、弦一郎はじっと見つめていた。後姿だけではない。彼女が書き記しているその英作文も、添削するような気分でじっと読んでゆく。
 英語の授業中、前回出された課題を当てられたのがだった。
 彼女は英語はあまり得意ではないと言っていた。
 それでも、彼女はゆっくり落ち着いて手元のノートを見ながら書き出していく。
 書き終えたそれを見て、弦一郎はほっと胸をなでおろした。
 こなれた作文ではないが、きちんと辞書を調べて真面目に取り組んだのであろう。目立った間違いはなかった。さすがである。
 彼女が席に戻ると、英語の教師はその作文が正解であることを誉め、そして別の言い回しや表現をいくつか書き加えていった。は真剣にそれらをノートに書き留めていく。
 との4カ年計画を心に描いてからの弦一郎は、教室での彼女をそれとなく観察したり、また話をしたりする中、やはり彼女を好ましいと感じたことは間違いではないと、確信を強めていった。
 何事にも真摯に取り組み、感情的になることもなく穏やかで、いつもあのふっくらとした笑顔を見せるの存在は弦一郎の気持ちをふわりと幸せにした。
 こうやって過ごしていくことこそ、中学生にはふさわしいのだ。
 彼は自分自身とそしてのことを、誇らしくすら感じていた。

 授業が終って昼休み、クラスで同じく風紀委員の柳生と話をしながら弁当を食べ終えた弦一郎は弁当箱を片付けるためにロッカーへ行くと、がごそごそとロッカーの前で鞄を広げているのが見えた。
 彼は自分のロッカーに弁当箱をしまいながら、横目でちらりと彼女を見る。珍しく困ったような、少々慌てた風だ。
「……どうかしたのか、
 やや逡巡した後、弦一郎は彼女に声をかけた。はっと今気付いたように、彼女は顔を上げる。
「あ、真田くん。うん、なんでもない。ちょっとジャージの上着、忘れちゃったみたいで……」
 今の時期、日によっては肌寒かったりするが、体育は半そでで出ていても問題のない天気が多い。が、女子は体操着から下着が透けるのをいやがったり、はたまた日焼けを気にしたりで、少々暖かくなっても上着を着たがる者が多い。もそういった女子の一人のようだ。
「だったら、俺のを使うか。少々大きすぎるかもしれないが」
 弦一郎はそう言うと、自分のロッカーから学校指定のジャージの上着を取り出して、彼女に差し出した。
「えっ? あっ、いいの!?」
 は驚いたように彼を見上げる。
「俺は上着は使わん。もし必要なら部のものがある。ああ、洗濯はしてあるから大丈夫だ」
「あっ、うん、ありがとう……」
 は弦一郎が差し出したジャージをそっと受け取ると、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら彼を見上げた。
「よくみんな、ジャージ忘れたらクラスの男子から借りるんだけどね、私、忘れたことなかったし、貸してって言える男子もいないし、困ったなーって思ってたの。ありがとう、真田くん」
 三日月の目と、その下のふくらみはいつもより少し照れくさそうで、弦一郎は思わずじっとそれに目を奪われる。彼女の手の中に自分のジャージがあるのだと思うと、なぜだか彼までやけに照れくさくなった。
「……ああ、気にするな。同じクラス委員のよしみだ。また、忘れるような事があったら、いつでも俺に言え」
 普段なら、忘れ物をするなどたるんどる! と言うところなのに、どうしてだか口から出たのはそんな言葉。はもう一度礼を言うと、弦一郎のジャージを大切そうに鞄の中にしまった。

 午後の体育の時間、男子が他のクラスと合同でサッカーをしている隣のコートで、女子はハンドボールだった。遠目に見ても、の姿はすぐにわかった。際立ってぶかぶかのジャージを着ているからだ。女子の中でも、何人かは男子からジャージを借りたらしい大き目のものを着ている者はいるが、なにしろ小柄なが長身の弦一郎のものを着ているのだから、よく目立つ。
 大きく袖をまくって一生懸命にコートを走っているをちらりと見て、また弦一郎はサッカーコートへと集中した。




「真田くん、これどうもありがとう」
 体育の授業があった翌日、ロッカーに鞄をしまおうとする弦一郎のところに早速がやってきた。洗濯済みのジャージを返しにきてくれたのだ。
「ああ、いや、わざわざすまんな」
 紙袋に入れられたそれを受け取りながら、クラスメイトが少々興味深そうに二人を見ているのを、さしもの弦一郎も気付いていた。
 クラスで女子が男子にジャージを借りる場合、少々仲の良い相手だったりまた、つきあっていたりする相手のことが多い。勿論弦一郎は、今まで女子にジャージを貸したことなどないし、そもそも貸して欲しいという申し出があったこともない。そんな彼がにジャージを貸していたのが、クラスメイトにしたらちょっと意外であり興味を引いたのだろう。が、つとめて彼は気にしないふりをした。ロッカーの前でできるだけ目立たないように手渡してくれようとするへの、気遣いだ。
「今度忘れたら、もう少し小柄な奴から借りられたらいいがな。無理なようだったら、また俺に言え」
 彼は昨日のの姿を思い出してかすかに笑った。
「あ、まあ確かにちょっと大きかったけどねー」
 彼女もおかしそうに笑う。
「私、あんまり男の子で話す子いないし、もし本当にまた忘れたりしちゃったら、真田くんに頼んでしまうかも。だけど、もう絶対に忘れものしないようにするね」
 そういえば、が男子生徒と話しているのはあんまり見たことがないような気がする。弦一郎の中で、くだんの四カ年計画がぐっと現実味をおびて感じられ、そして同時に胸が熱くなった。
「うむ、そうだな。忘れぬようにするのなら、それが一番いい。しかし何かあったら、俺に言え。もし高等部に上がって違うクラスになっても、ジャージくらいいつでも貸すから、俺に言いに来るがいい」
 思わず拳を握り締めて言う彼を、は驚いたようにそれでも笑って見上げた。
「ええ? 来年の私の忘れ物の心配? さすが真田くん、用意がいいなあ」
 くっくっとおかしそうに笑った。
「あ、いや、もしもの話だ」
 はっと我に返って口元をぎゅっと結ぶ。
「うん、ありがとう」
 はぺこりと頭を下げると、自分の席に戻ってゆく。その先には、彼女の友人がにやにやしながら待っていた。もしかしたら、自分とのことをまた彼女達にからかわれてしまうのかもしれない。
 が、きっと彼女なら大丈夫だろう。
 は、きっと他のクラスメイトたちのくだらない軽々しい噂やからかいに負けたりしない。言いたい奴には言わせておけばよいのだ。

 その日は放課後に各クラスのクラス委員の集まりが予定されており、弦一郎は昼休みに職員室へその資料を取りに行っていた。今年度初めて開催されるその集まりでは、年間行事や各種委員の役割分担の確認がなされるのだ。
 資料に目を通しながら教室に戻る弦一郎は、自分の教室の前の廊下に見慣れた人影がいるのに気付いた。遠くからでもすぐにわかるその目立つ風貌の持ち主は、同じテニス部三年のジャッカル桑原だ。ブラジル人とのハーフでスキンヘッドの彼は、学内で最も目立つ男の一人である。
 おそらく弦一郎か柳生比呂士に用事があってのことだろう、と彼が足を早めるとジャッカルが廊下で立って見下ろしている先の人物が目に付いた。
 だった。
 クラス委員の彼女が弦一郎の行き先を知っているかと呼び出されたのだろう。
「ジャッカル、悪かったな、クラス委員の用事で職員室に行っていた」
 彼が声をかけると、はっとジャッカルは顔を上げていつもの明るい笑顔を彼に向けた。
「ああ、らしいな。彼女に聞いた。気にすんな、さっき来たとこだ」
 弦一郎は視線を落とし、一言『すまない、』と言おうとした。
 ジャッカルの前にいる彼女の表情は、妙に困ったような居心地の悪そうなそんな顔だった。いつもおっとりとにこやかにしている彼女がそんな顔をすることは極めて珍しく、ひどく意外に感じた。
「真田、今日委員の集まりで遅くなるんだろ? 確認しておきてーんだけど、今日の一年の練習メニューって、これでいいよな?」
 ジャッカルはいつもの調子で続けて、練習メニューを記載したノートを彼に示す。
 彼がそれを手にとり目を通し始めると、は二人に軽く頭を下げてさっと自分の席に戻ってしまった。
 別に取り立ててそれが不自然だというわけではない。
 が、ジャッカルとの用事をすませた弦一郎は、どうにも普段の様子と違うが少々気になった。
 授業が終って委員会に行く段になり、弦一郎は荷物をまとめて立ち上がって、ふとの方を見ると彼女はまだ自分の席に座ってぼうっと窓の外を見ていた。
!」
 弦一郎は思わず強い語気で言った。
「早くしないと委員会に遅れるぞ!」
 彼の声に驚いたのか、はびくんと顔を上げてあわてて時計を見た。
「あっ、本当だ、ごめん、真田くん!」
 急いで荷物をまとめると、席を立って弦一郎の隣にならんだ。
「ぼーっとしているなど珍しいな」
「ほんと、ごめんね。時間、大丈夫かな」
「まあ、遅刻することはあるまい」
 二人は委員会の開催される教室へと急いだ。

 弦一郎は一度気になり始めると、その違和感が何なのかつきとめないと気がすまない方だった。委員会の間も、時折ちらりとを観察する。さすがに委員会の間はぼーっとしたり目に付いたミスなどはないのだが、総じてひどく沈んだ様子に見えるのだ。
 委員会が終了して、先生が確認事項を整理していると、はそれを聞きながら自分が記録した資料をチェックしていた。
「真田くん、今日の内容これで漏れはないよね? これでよかったら、クラスへの報告用に清書しておくけど」
 相変わらず彼女の仕事は早い。
 会議が終って皆が退室していく中、弦一郎は彼女がメモを取った資料を確認する。
 いつものように彼女の記録は正確で、先生が口頭でしか言わなかったちょっとした事もきちんと記載されており、安心できるものだった。目を通しながら時折顔を上げてを見ると、は少し俯いて目を伏せており、その両目の下にはいつものやわらかなふくらみはなかった。
 資料を閉じて、弦一郎は考えた。
 今朝、ジャージを受け取った時には彼女はいつもどおりの笑顔だった。
 いつから、様子がおかしい?
 今日一日を振り返ってみる。
 昼休みのことが頭に蘇った。
 そういえばジャッカルと向かい合っていた時の彼女は、いつもの笑顔を見せてはいなかったように思う。
 そうだ、彼女の様子がおかしくなったのは、昼休みからだ。
 
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2008.3.26

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