● 青春波止場・純情編(1)  ●

 中学も二年・三年となってくれば誰が誰を好きだのつきあっているのとの話題は否応なしに耳に入ってくる。
 風紀委員長をつとめる真田弦一郎は、まったくくだらないことだ、とそういった話を耳にするたびに嘆かわしく思っていた。
 我々のような未熟な年齢で、恋をするだとか男女交際をするなどまだまだ早いのだ。
 彼は常々そう考えている。
 まだ自分自身が何者かなのかもわからず、そして相手の人間性も杳として見極められぬ状態で男女のつきあいなど、軽はずみにも程がある。
 それが彼の持論である。
 そんな真田弦一郎は、全国一と謳われる立海大附属中テニス部の副部長をつとめ、皇帝という通り名を持つ中学トップテニスプレイヤーであり、そして学業の方でも常に上位の成績を維持する極めて勤勉で厳格な少年だった。
 同学年の少年達に比べ際立って大柄で発達した体格の彼は常に背筋をぴんと伸ばしており、少々いかめしいが凛々しい顔立ちのその姿は、教室の自分の机で静かに授業の予習などをしていても、一目でそれとわかるくらいに目立つ。
「真田くん」
 その日も授業の予習をしつつ机に向かっていた彼に、穏やかな声が向けられた。
「……ああ、か」
 弦一郎ははっと顔を上げた。
 は弦一郎のクラスで、彼とともにクラス委員をつとめる女子生徒だった。
「これ、今日のHRの議題。先生から言われていたものと、クラスの子たちから持ち寄られた分ね」
 彼女が提示したA4の用紙は、きれいにワープロで清書されており、そのまま記録をしてファイリングできるようになっていた。
 とはこの春三年生になってから初めて同じクラスになった。
 今までのクラスでもずっとクラス委員をつとめてきた弦一郎だが、大概の場合彼と組んで委員をすることになった相手の女子は、厳格な彼に不必要なまでに萎縮をし、業務上のことで注意をしたりするたびにいちいちびくついているような生徒がほとんどだった。が、はいつも穏やかな笑顔で弦一郎と業務をこなしており、彼をいらだたせるようなことがない。というか、彼女の場合、まず弦一郎に注意をされるようなことがないのだ。要領よく業務をこなし、生活態度も真面目であり成績もまずまず良好。くだらないおしゃべりや冗談で騒ぐこともなく、きわめてまっとうな生徒なのだ。
「ありがとう。いつも議題をまとめてくれて助かる。HRの前に頭を整理するのに丁度良い」
 彼が言うと、は嬉しそうに目を細めて笑った。彼女の大きな目は、笑うとちょうど三日月をふせたようになるのだ。そして、笑った時にふっくらと盛り上がる両目の下がとても柔らかそうで、彼女が笑うと弦一郎はいつもそこを見てしまう。
「そう、よかった。書記をする時もこうしておくと楽ちんだからね、それだけなんだけど、役に立ってうれしい。じゃあ、勉強の邪魔してごめんね」
 はそれだけ言うと、自分の席へ戻り、再度友人たちとの輪に加わった。弦一郎は一瞬そんな彼女をふりかえり、また手元の教科書へと視線を落とした。
 今まで一緒に委員をやった女子の中で、彼はを一番気に入っていた。
 というより、それまで女子生徒と話をしていて楽しい気分になったということ自体あまりないのだが(彼の場合、どうしても説教じみた話になってしまうことが多い)、とはクラス委員の仕事や授業についての話をしていても、とても会話がスムーズで穏やかな気分になれる。そういう女子生徒自体が初めてだったのだ。ああいった生徒こそが、普通にまっとうだと思うのだが、と彼女を見るたびにいつも感じる。

 その日のHRも、が作ってきた議題表に沿って弦一郎が議長となりスムーズに執り行われた。HRが終った放課後、いつも弦一郎はクラス委員同士で簡単な確認をしてから終ることにしている。
 生徒たちが帰り支度をする中、弦一郎はがまとめた議事録をチェックしていた。
 彼がそれを読んでいる間、は開け放たれた窓の外を眺めている。
 桜の散った後の新緑をかすめるように吹き込んでくる風は暖かで、の前髪をふわりとすくう。そんな風がここちよいのか、は嬉しそうに笑って、そしてその両目の三日月の下にはあの柔らかそうなふくらみ。彼女は、大勢の中でぱっと目立つ美人ではないが、小作りに整った可愛らしい顔をしており大人しいけれどいつもにこにこしていて、一度それに気付くとどうしても目を奪われてしまうような、そんな雰囲気の少女だった。
 弦一郎はつい書面から顔を上げて、彼女の両目の下のふくらみを見ていたのだが彼女と目が合いそうになってはあわててまた視線を落とす。
 シャープペンシルを手にして、何箇所かに書き込みを入れた。
「ここ、たしか先生が発言していただろう。それも入れておいてくれないか。少々話し合いを進めるのに難渋したから、後でどうだったかと言い出す奴がいるかもしれん。先生の言ったことを明記しておけば、もめることもないだろう」
「あっ、そうか。それ、書いてなかったね、ごめんごめん」
 はあわてて彼の言ったことを書き入れた。
 弦一郎ほど筆圧は高くないが、美しく整った読みやすい字。彼は、の字も好きだった。それに、議事録の取り方も的確でほとんど修正がいらないのもいい。
 今までは、議事録をしていた相手の委員のまとめ方が気に入らなくて、結局は弦一郎が書き直す事がほとんどだったのだ。
「よし、じゃあこれで確認は終了だ」
 彼が言うと、は満足そうに議事録をファイリングした。
「うん、真田くん、これから部活なんだよね。頑張ってきて」
「ああ、ありがとう。も、友達が待っているのだろう。時間を取らせて悪かったな」
 の席のあたりで女子生徒が二人、静かに話をしながら集まっていた。もう教室には彼女たちしか残っていない。いつも仲良くしているの友人だ。弦一郎のそんな気遣いのひとことが嬉しかったのか、またはにこっと笑って、そしてファイルを手にして弦一郎に手を振って立ち上がった。
 弦一郎は鞄を肩にかけると、の友人たちに軽く会釈をして教室を出た。彼女の友人たちは、恐る恐るといった風にちらりと彼を見上げている。
 三年生になった弦一郎は、いよいよ本格的に立海大附属のトップの一人として部を全国に向けて率いていかねばならないのだ。部活へ向く足には、自然と力が入っていた。
 廊下を大股で歩きながら、頭の中をテニスのことへと切り替えつつあったのだが、ふと今日のHRの最後に追加されてペンディングとなった議題が思い返された。そういえば、あの件について次回にどうするか確認していなかったと、彼はあわてて教室へ踵を返す。
 たちはまだ残っているだろう。
教室の後ろの扉から入ろうとして、しかし扉を開けようとした手をはっと止めた。
「だって、真田って」
 教室の中から彼の名前が呼ばれるのが聞こえたからだ。
 それは、の友人の一人の声だった。
「厳しいし、すっごい口うるさいでしょう? 、一緒に委員なんてよく上手いことやってるよねえ?」
「ううん、別に口うるさいことないよ。真面目でちゃんとしてるから、話しやすくていい」
 そして、の声。
 へえ〜、と感心したように続くのは彼女の友人二人の声がぴったりそろって。
「だって、私は去年も真田と同じクラスだったけど、一緒にクラス委員をやってた子、いつも怒鳴られてて、よく友達のとこで泣いたりしてたんだよ」
 そんな言葉に、さすがに弦一郎も驚きを隠せない。そういえば、去年のクラス委員の女子は、何事も段取りが悪く議事録も重要な点がまったく書かれていなかったりでよく注意をしていた。しかしなにも泣かずとも! ついつい眉間にしわが寄ってしまう。
は真面目だからね、きっと真田くんのお気に入りなんだよ」
 もう一人の友人がおかしそうに笑って言った。
「そうだよねえ、、真田といい感じなんじゃない? 気が合うなら、真田も悪くないし、あれきっとのこと結構いいと思ってるんじゃないの?」
 去年同じクラスだった女子生徒がからかうように言うのを耳にして、弦一郎の眉間のしわは更に深くなる。
 ほら、こういったくだらない話。こういのが、いけないのだ。
「カナちゃん、真田くんはすごくまじめできちんとした子だし、ぜんぜんそういうのはないんだよ。そういう話、きっとすごく迷惑だと思うから、ほんとだめだよ」
 の諌めるような声。
「ええ〜、じゃあの方はどうなの、真田って」
 彼女の友人はまったく気にする風もなく、興味深そうに続けた。
「私が? だって……」
 弦一郎は眉間にしわを刻んだまま、教室の扉にぐっと近づいて彼女の言葉に注意深く耳をすませた。
「真田くんは、他の男子みたいに騒いだりしなくて落ち着いてるから、話しやすくていいと思うよ。けど、私、カナちゃんが言うみたいに男の子とどうこうって……よくわからないし、そういうの、ほんとまだいいの。無理」
 彼女の言葉に、友人たちは『つまんないなー』といいながらおかしそうな笑い声を響かせた。
 はどんな顔をしていたのだろうか。
 そう思いながらも、弦一郎はそっと教室を離れて部室に向かった。
 やはりは、しっかりとしたまっとうな女子だ。
 弦一郎は満足げに心の中で彼女の言葉を反芻した。
 そう、男女のどうこうといったことは、我々にはまだ早い。
 部室への道のり、大股で歩きながら弦一郎は考えた。
 中三の春の今、弦一郎のすべきことは、勉学に力を入れつつそしてテニスのトレーニングに精進し全国大会3連覇をめざすことである。そして夏がすぎれば、高等部への進学への準備をすすめてゆく。
 そんな中学生活最後の一年のなかで、クラス委員の仕事を通し、彼はという女子生徒に、少しずつ自分という男を知ってもらう事ができるだろう。彼が全力をつくしているテニスについても、興味を持ってもらえるといい。
 そして、高等部に上がったらまた一年生として新たなテニス部のチーム員となり鍛えなおしていくなど多忙な日々になるだろうが、高等部での新たな勉学にもおそらくかなり力を入れなければならない。そうなると、きっとと勉学について切磋琢磨していくことは互いを高めるにあたって有効なことだろう。そうやって高等部の一年はすごすのだ。
 二年になれば、そろそろ高校卒業後の進路および将来のことを考えていく時期になる。弦一郎自身、このまま附属の大学に進学するのか外部をめざすか明確にしなければならなくなるだろうし、も同様だ。互いの将来について少しずつ話していくことができるだろう。三年生になれば本格的に受験の準備をすすめ、そして三年生の春、進路も明確になったころの弦一郎はすでに18歳であり、新緑の5月には19歳となる。
 一人前の男として胸を張れる時期だ。
 そして、その頃にはきっと互いのことをよくよく知り合っているだろうに、堂々と自分が彼女を好ましいと思っている旨を伝えるのだ。
 こういったプロセスこそが、至極まっとうなのではないだろうか。
 弦一郎は部室まで歩く数分間で、これから4年間の計画を何度も頭の中で反芻した。
 完璧である。
 男女のプロセスとしてどこからどう考えても納得のいくものであるし、肉体および精神の成熟の段階にもきちんと沿っている。
 まだ人間として未熟な段階で、軽々しく好きだなどと言うものではないのだ。
 自分の計画は完璧だ。
 部室へと向かいながら、弦一郎は知らず知らずのうちに、フハハハハハと腹の底から満足げな声をあたりに響かせていた。

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2008.3.23

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