● 彼女の紳士録 --- ミッション2 ●

 最初のミッションの構成は我ながら秀逸であったと柳生は振り返りつつ、次なるミッションに取り掛かっていた。
 今度こそ無理、絶対に無理! と、が強い拒否の態度を示したミッションは、

『切原赤也に勉強を教える』

 というものだった。
 が苦手とする男子のうち、雷親父系の最高峰が真田弦一郎だとしたら、わちゃわちゃ系男子では切原赤也はなかなかのものだろうと踏んだところ、案の定「ああいう男の子は特にダメ!」と即答だったのだ。「それを克服してこその特訓です」と説き伏せ、この日を迎えた。
 現在、切原赤也のクラスではちょうどミニテストがあるということで、勉強が苦手な彼のために3年生が交替で勉強を教えることになっていた。今日、その担当が柳生の番なのである。
 切原赤也が待機しているはずの部室棟のミーティングルームに二人で向かった。
「切原くんって、真田さんのところに来てはよく叱られてる子でしょ? ちょっと調子がよくて騒がしい感じの。……柳生さん、私ホント無理だと思う。きっとすぐに左手を挙げるから」
「今回はそのサインはなしです」
「えっ!」
 絶望的な声が上がった。
「切原くんの性格からすると、貴女がそのようなことをすれば『それ、何スか! 一体何のサインっスか!』などと面白がって聞いてくるに違いありません」
 は身震いをする。
「大丈夫、私がついています。それに、彼が言うことを聞かないようであれば、真田くんの名前を出せば一発で大人しくなりますよ」
「はあ……」
 気がすすまなそうな力のない声を出したは、続けてため息をついた。
「さあ、行きますよ」
 ミーティングルームの扉を開けて中に入ると、切原赤也がだるそうに携帯をいじっていた。
「切原くん、携帯を仕舞いなさい」
「わっ、柳生先輩、早かったっスね!」
 彼はあわてて携帯を鞄に仕舞い顔を上げると、意外そうに眼を丸くした。
「あれっ? その人は……?」
「今日は特別にゲスト講師をお招きしました。私や真田くんと同じクラスのさんです。私よりも英語の教科は得意でいらっしゃるので、切原くんの勉強に協力いただくことにいたしました」
「あーっ、女子バスケ部の先輩っスよねー? 体育館で見かけて、背ぇ高くてキレイだなーってクラスの奴らと言ってたんスよー!」
 椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねんばかりに大声を上げた。
 は左手を握ったり開いたりしながら、困った顔で柳生をちらちらと見る。
「切原くん」
 柳生が静かな声で遮った。
「今日はこれから勉強をするのですよ。静かにしたまえ」
「へーい」
 彼はようやく教科書と辞書を準備する。
「あの……3年A組のです。よろしくお願いします」
 一体どうやって始めたら分からず、ひとまず自己紹介をした。
「あっ、俺、2年の切原赤也ですっ! テニス部の2年生エースとは俺の事っスよ! この前の試合ではですねー……」
 彼はうきうきした声で自己紹介を続けようとした。
「切原くん、自己紹介は簡潔に」
 ぴしゃりと言っても、切原赤也はへこたれない。
「だって、柳生先輩! 俺、キレイな女の先輩に勉強教えてもらうなんて夢だったんスよー! もう、わくわくしちゃって! マジありがとうございますー!」
 切原赤也は、まさにが苦手としそうな調子でまくしたてる。彼女の顔を覗き込むと、眉間にしわが寄ってきているのが見えた。
「切原くんはお姉さんがいるでしょう」
「えー、だってうちの姉ちゃん、こっえーし!」
「それはきっと、切原くんの聞き分けが悪いからでは?」
「へいへい」
「さあ、勉強を始めますよ。ミニテストの出題範囲はどのあたりなのですか?」
 切原赤也がしぶしぶといった体で教科書を示すと、柳生は「では、どこから始めましょうか」とに水を向けた。教科書を見ていると、も少し落ち着いたようだった。
「そっか、今ここらへんをやってるんだ。ミニテストの課題は何なの?」
「英作文らしいっス……」
 彼は絶望的といったように言って、うなだれた。
「そんなに英語、苦手なの?」
「もう、最悪っス。でも赤点取ると、真田副部長に殺されるし……」
「真田さん、怖いものね……」
「そうなんスよー! もう鉄拳制裁の痛いこと痛いこと!」
「えー、可愛そうに……」
 が思わず声をもらすと、切原赤也は思い切り身を乗り出してきて手を伸ばした。
「でっしょー? やっぱり先輩、優しー!」
 そこに柳生が割って入る。
「講師に手を触れてはなりません」
「……へーい……」
 ようやく辞書を引き引き教科書のテスト範囲の勉強を始めるも、切原赤也の英語嫌いは筋金入りのようでなかなか進まない。
「だからね、切原くん。無理をして難しい単語や熟語を使おうとしなくてもいいの。この例題のここ、『これは醤油をつけて食べます』だったら、『漬ける』とか『付ける』なんて無理して調べなくても、『with soi』とかでいいんだよ」
「うう……言われればそりゃわかりますけど、自力ではなかんか思いつかないんスよ……」
 先ほどまでの元気のよさはどこへやら、勉強のことになるととたんに覇気がなくなる。
「そんな弱音を吐かずに頑張って!」
「……じゃあ、先輩! 俺が家で勉強してて行き詰ったら、教えてくれますかっ? 電話番号とかメアド教えてもらっていいっスか? あっ、先輩ってつきあってる彼とかいるんスか? っていうか、柳生先輩とはどういう関係なんです? もしかして、つきあってるとか?」
 勉強のストレスのためか突然に爆発したわちゃわちゃモードに、は一瞬固まった。
「切原くん!」
 柳生があわてて切原赤也を制止しようとするが、が立ち上がるのは同時だった。
「ごめんなさい、もう無理!」
 そう言ってミーティングルームを飛び出して行った。
さん!」
「先輩!」
 二人が後を追うと、廊下からキャッと声がした。
 柳生は椅子を蹴倒しながら、廊下へ走り出た。の安心安全には、万全の責任を持たねばならない。
「何をやっとるんだ!」
 廊下に大きな影を落としているのは、真田弦一郎。
 その前でが、壁にくっついて震えていた。
「そこのミーティングルームではうちの2年が勉強をしているはずなのだが。、お前はここで何をしているんだ!」
 いかめしい表情で腕組みをした弦一郎の前で、はへなへなと廊下に崩れ落ちた。
「真田くん!」
 駆け寄ってきた柳生は彼女の前に立ちふさがった。
さんには、私がお願いして切原くんに勉強を教えていただいているんです」
 を守るように自身の身体の陰に隠し、静かに話す。
「なに?」
 次にダダダと走って来たのは切原赤也である。
「すいません、真田副部長! 先輩を叱らないでください! 悪いのは俺なんス!」
 がば、と土下座をしてみせる。
「俺がぜんぜん英語の勉強、進まないもんだから!」
 柳生の背中からちらりと顔を出したは、驚いたように三人を見比べた。
 真田弦一郎はいかめしい顔で切原赤也を見下ろすと軽くため息をつき、ぐいと一歩前に出て柳生の背中に隠れているを覗き込んだ。
「そうだったのか、世話をかけるな」
 弦一郎は彼女に視線を合わすべく腰をかがめて、何やら袋を差し出した。
「お前はまたそんなフラフラしおって、本当にちゃんと飯を食っているのか? これは勉強中の赤也への差し入れに持って来たものだが、お前も食え。腹が減っていては脳も働かんぞ」
 彼が差し出したものは、お徳用の鈴カステラの袋だった。
「では、しっかり勉強するのだぞ、赤也」
「イエッサー!」
 ぴょん! と立ち上がって背筋を伸ばした。
 も鈴カステラの袋を手によろよろと立ち上がり、三人で弦一郎の背中を見送る。
「……びっくりした、まさかこんなところでまで怒鳴られるなんて……」
 思わずがつぶやく。
先輩!」
 今度は切原赤也の大声に、またびくりとする。
「俺、弱音を吐かずにちゃんと勉強します! だから、無理なんて言わないでください! すいませんっした!」
 彼にはが「無理」と言った意味は伝わっていなかったらしい。柳生はついくくっと笑う。
 大きく頭を下げた切原赤也が顔を上げた時は、もういつもに笑顔に戻っている。の手から鈴カステラの袋を奪い取り、ぱりっと封を切った。
「ほら、食べて下さいよ。ね、真田副部長はおっかないけど、いいともあるんスよ」
 差し出された袋から鈴カステラをひとつつまんだは、ぱくりと口に放り込みふわっと笑った。
「そっか、なんだかんだ言ってみんな頼りにしてるんだもんね。よし、これ食べて勉強頑張ろうか」
「イエッサー!」


「お疲れさまでした。これで切原のミニテストの点には期待できそうです」
「ほんとに、そうだといいなー」
 心の底から、といった風に言うと空を見上げた。
「……きっと切原くんは、これから私たちのクラスに立ち寄る時には、さんに声をかけていくでしょう。大丈夫そうですか?」
 彼が言うと、は一瞬眼を丸くしてから、苦笑いをする。
「……うん、多分、大丈夫。ちゃんと勉強してる? とか言って、飴をあげたりできると思う」
「彼も貴女の紳士録に加えられましたか?」
「えー? そうだなー……まあ、可愛いと言えなくもない系男子っていうところ。でも、今まであの子が教室に来ると眼をそらしてそっちを見ないように、声を聞かないようにしてたくらい苦手なタイプだったから、すごく進歩したと思う」
 穏やかな表情でそう言う彼女の横顔を、柳生はじっと見つめた。
さん、ところで貴女の……」
「うん、なあに? 柳生さん」

 貴女の好きなタイプの男性というのは、どういったものなのでしょうか。

 ふいに浮かんだそんな問いを、柳生はぎゅっと胸にしまった。
「いいえ、なんでもありません。ああ、そうだ、これを」
 鞄から紙袋を取り出す。
「甘いものが続きましたからね、今日はさっぱりしたものを」
 はそれを受け取り、袋の口を開けて中を見た。
「私の好物、トコロテンです。たまにはよいものですよ」
 アデュー、と言って彼女と別れ部室に向かった。

next

2015.01.10

-Powered by HTML DWARF-