必殺!恋のギャンブラー(4)



 俺は教室に入る時、いつも後ろの扉を使うのだけれど、今日は前の扉から入る。
 そして、の前方からその席の横の通路をゆっくりと歩いた。
 彼女の席の近くで一瞬足を止めると、彼女ははっと顔を上げて俺を見る。
 俺を見上げて、そしてその事を後悔したようにほんの少し眉をひそめるとまた顔をそむけて、友人とのおしゃべりに戻る。

 わかっていた事だけれど、彼女の俺に対する『嫌悪感』は俺の心の中に引っかき傷をつけるような、そんな痛みをもたらした。
 それでもその痛みは、確実に、俺と彼女は同じ空間に生きて存在するのだという事を実感させる。
 俺は彼女にとって幽霊なんかじゃない。
 生きているんだ。
 彼女に何かを感じさせているんだ。
 たとえそれが嫌悪感であっても。
 その事実は俺に勇気を与えた。


 は俺の事をまったく良いなんて思っていない。
 それどころか、避けたいくらいのはずだ。
 そう思うと、俺はすっかり吹っ切れた。
 これ以上悪くなる事なんかない。
 俺は今まで、守るものもないくせに守りの試合をしていた。
 そんな事で勝てるはずがない。
 俺はどうしたって俺なんだ。俺らしく、彼女に接して行くしかないんだ。


 そう決心した日から、俺はそれまで以上に注意深く彼女を観察した。
 どうやって切り込んで行こうかと考えるために。
 その日、たまたま彼女と同じ教室掃除の当番だった俺は、雑巾を握り締めたまま彼女の動向を伺っていた。
 彼女は雑巾を持って、窓の掃除を担当している。
 背伸びをして、丁寧に窓を拭いていた。
 窓の上の方に気になる汚れがあったのか、窓枠につかまりながら懸命に背伸びをする。
 俺は自分の雑巾を放り出して、彼女の隣に歩み寄った。

「俺、やるよ」

 そう言って彼女の手から雑巾を奪う。
 彼女の驚いたような戸惑ったような視線を尻目に、彼女が拭いていた辺りの上の方をぎゅっぎゅっと強く何度も拭いた。
 背後からの彼女の視線を感じた。
 ゾクゾクする。
 そう、俺が自分の雑巾を放って彼女のものを使ったのは計算づく。
 は真面目な女子だ。
 俺が自分の雑巾を持って行ったら、『ありがとう、じゃあそこは切原くんお願いね』と、次の作業に移るだろう。
 けれど自分の雑巾を使われたら、俺が作業を終えてそれを彼女に返すまで待っているはずだ。俺を見つめながら。
 俺は今までやった事ないくらいに丁寧に窓を拭いて、振り返って彼女に雑巾を渡した。
「どう? きれいになった?」
 そして一言彼女に言う。
「……うん。ありがとう」
 相変わらず戸惑ったままの目をした彼女の一言を聞くと、俺はニッと笑ってその場を去った。
 うん、これでいい。
 とりあえずこんな感じでいいんだ。
 ポジティブな方向性ではないけれど、彼女は俺を意識した。
 やっと、同じ土俵に立てたんだ。


 それからも俺は何かとに近づいた。
 もちろん、仲間内の女の子とベタベタするみたいにふざけて近寄る事なんかできないから、クソ真面目に理由をつけてだ。
 彼女が日直の時は、俺がきっちり提出物をまとめて彼女に手渡したり、彼女の所属する委員会のアンケートに、きちんと回答してみたり、そんな小学生みたいに初歩的な事。
 
さん!」

 その日、俺は彼女の委員会……文化委員の何回目かのアンケートを握り締めて彼女の席に向かった。

「……なあに、切原くん」

 彼女はいつものように、俺が話しかけるのを少し疎ましそうに、でもなるべくそれを表に出さないような雰囲気で俺を見た。

「このアンケートなんだけどさ、音楽集会の。曲目って、ここにある以外のモンは希望できねーの?」

 俺は複数回答可の選択式のアンケートを指して彼女に問うた。
 彼女は俺の質問が意外なようだった。
 そもそも俺はそれまでアンケートなんか真面目に書いた事なんかなかったし、音楽集会の曲なんて皆なんでも良いって思ってるから、意見の出やすい選択式にしてあるわけで。

「切原くん、何かこれって言う希望の曲があるの? だったら、『その他』にマルをして、最後の『ご意見』のところに希望曲を書いてくれたらそれで検討するわ」

「そっか、了解。サンキュー!」

 俺は思い切り笑顔を見せて、彼女に手を上げた。
 そして俺は腰をかがめてその場で彼女の机を借りると、キュッキュッとアンケートを記入する。

 希望曲:その他
 ご意見:ジョン・レノン『イマジン』

「はい、これ」

 俺はそれだけ記入するとそのままアンケートを彼女に手渡した。
 彼女は俺の書いたものを見ると、少し驚いた顔をして俺を見上げた。
 じっと目を見開いて、俺の考えを探るような不思議そうな顔。
 あの日渡り廊下で二人で英研部長を見て以来、俺に対して微妙な嫌悪感しか表さなかった彼女が、初めて俺に見せた表情だった。
 俺はその表情がまた嫌悪感に変わる前に、ひらりと踵を返して自分の席に戻った。



 英研部長っていうカードを切って以来、俺はまだ新しい使えるカードを手に入れられていない。誠意努力はしているのだけれど。
 彼女が俺の言動に少しずつ反応する事は嬉しい。
 でも、こんな調子じゃあっという間に卒業式を迎えちまう。
 何かこう、上手い展開はないものかな。
 俺はそんな事を考えながら、昼飯を買いに購買へ向かっていた。
 その時、背後から俺を呼ぶ声。

「おい、切原」

 振り返ると担任の教師だった。
 俺はまた何か注意されるのかと、思わず身構えてしまう。

「はぁ、何スか」

 立ち止まって答えた。

「お前、委員会何も入ってなかったよな? しばらく臨時で文化委員を担当してくれないか?」

「はあ?」

 俺は先生の突然の申し出に訳がわからず、間抜けな声を出してしまった。

「文化委員の上妻が骨折で先週から入院してるだろう。今月は文化委員の広報担当がウチのクラスなんだが、一人じゃちょっと厳しいから手伝ってやってくれんか。他の奴はたいがい委員に入ってるから、兼任はキツいしな」

 そうだ、俺は部活が忙しいからとかなんとかゴネて上手いこと委員会は免れていたんだっけ。
 文化委員。
 と一緒の文化委員。
 俺は突然に舞い込んできた最強のカードに、言葉をなくした。

「おい、どうしても嫌か?」

 先生が困ったような顔をする。

「とんでもないっス、文化委員、やりますやります。やるっスよ」

 俺は先生の手をぎゅっと握ってブンブン振ると、飛び上がって購買に走った。
 やっぱり俺は二年生エースだけある。
 勝負の神様に愛されてるんだ。
 運も実力のうちって言うからな!

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2007.8.3




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