● フレンチキス(1)  ●

 榊監督に土下座をして髪を切った俺は、まだカッカと熱い心臓を抱えて部室へ走っていた。
 長太郎の助けを借りて特訓した二週間。
 そこで見えてきた、俺のテニス。
 それは、いずれにせよ当然俺のやらなければならなかった事であって、努力をしたとか、苦労をしたとか言われるような事ではない(もちろん、長太郎には世話になって、感謝しているけれど)。
 その特訓以上に、俺は。
 頼むから一度正レギュラーから落ちたこの俺を、どうかもう一度使ってくださいと、地面にへばりついて頼み込む事に、何よりも全力を使った。
 俺に一瞥もくれない榊監督を走って追いかけて、土下座をして。
 そして、腰のあたりまであった俺の長い髪を、この手で切ってみせて。
 俺は自分がこんな事をするとは思ってもみなかった。
 クールで、何でもそこそこに出来て、ダサい事なんか大嫌いな俺が、こんな事になるなんて。
 なりふりかまわず、他人に何かを頼み込む事をするなんて。
「勝手にしろ」
 という、榊監督の一言を聞いた後、俺は何でもないように跡部や長太郎を置いてその場を去ってきたけれど、正レギュラーに戻れる事は、涙が出るくらいに嬉しかった。
 無様だったかもしれないが、俺の本来のスタートにやっと立てたのだから。
 そんな沸騰しそうな胸を抱えて走っていた俺は、部室の少し手前で人とぶつかりそうになり、あわてて足を止める。
 驚いた女の声。
「……悪ぃ……」
 俺はとっさに声を出し相手を確認すると、熱い胸がさらにカッとざわついた。
「……あ……宍戸くん? ……どうしたの?」
 俺の目の前で驚いた顔をしているのは、同じクラスのだった。
 彼女が驚くのも無理はない。
 俺のあの目立つ長髪が、無様に短くなっているわけだから。
 俺はタオルか何かを持ってこなかった事を後悔しつつ、不恰好な髪を一瞬ばさばさとかきむしり、彼女を睨みつけるようにして言った。
「……切った」
 それだけを言うと、彼女の横を通り抜けて部室へ逃げるように駆け込む。
 彼女は、今、一番会いたくない相手の一人だ。
 俺は去年の今頃、に告白をして、そしてあっさり振られたのだった。

 俺は部室に駆け込むと、まず顔を洗った。
 鏡を見ると、不揃いに短くてボサボサの髪、長太郎との特訓でボロボロの姿、そして榊監督とのやりとりでぐしゃぐしゃになった顔。
 おそらく俺の今までの人生の中で、最も激ダサな姿だろう。
 正レギュラーに復帰できた事で、さっきまで神様に感謝していた。
 けれど何もこんな姿を、俺を振った女に見せる事もないだろう、神様よ。
 俺はそんな事を考えながら、何度も何度も顔を洗った。

 
 翌日、教室へ行くと、俺はクラスメイトから質問攻め。
 もちろん、髪についてだ。
 覚悟はしていたし、仕方ない。長髪は俺のトレードマークで、それがびっくりするくらい前触れもなく、短くなっちまったんだから。
 俺は聞かれる度、「気分転換」と答え、その場をしのいでいた。
 そして、ちらりと目の端でを見る。
 彼女は特に俺の方を見る事もなく、いつものように静かに女友達と話していた。

 は、去年の夏前に鳴り物入りで入ってきた転校生だった。フランスから帰ってきたばかりだという彼女は、色白で小柄でとても可愛らしく、フランス語も英語も堪能だという。ウチの学校じゃ帰国子女なんか珍しくもないけれど、彼女はまったく俺の好みど真ん中の女の子だったので、俺は一目でのぼせ上がってしまい、転校して来てから数日で呼び出して告白をしたんだったと思う。だって、うかうかして他の男に持っていかれたらたまらないからな。
 そしてその結果は、先にも言ったように惨敗だ。
『好きな人がいるから』
 と、言いにくそうに話すに、俺は何て言ったのか覚えてはいないけれど、仕方ないなと潔く引き下がった。
 俺は自分で言うのも何だが、決してモテない方じゃないし、女の子と話すのだって上手い方だと思う。だから自信がなかったわけじゃないけれど、でも彼女にだったら確かにもっと良い男がいても仕方ないのかと、そう思ったから。
 それ以来、彼女とは話をしていない。
 三年生になった今年もまた同じクラスになったのだが、それでも、未練があると思われるのが嫌で、ほとんど口をきいたことがなかったし、あまり彼女を見ないようにしていた。
 なのに、一年ぶりの会話が、昨日のあれだ。
 神様を恨む気分も分かるだろう?

 ひどく軽くなった頭にまだ慣れないまま、その日の授業が終わり、俺は当番で教室の掃除をしながら、クラスメイトとしゃべったりしていた。
「しかし、ほんっと、思い切りばっさりいったもんだなァ。何だよマジ、失恋とかじゃねーの?」
 男友達がしつこくふざけながら言って来る。
「だから、気分転換だって言ってるだろ。これから重要な大会も控えてるしな」
 俺は集めたゴミをひとまとめにして、集積所に向かった。
 うなじに吹きつける風が、やけに新鮮に感じる。
 そのうちこの髪にも、慣れるだろう。
 俺も、クラスメイト達も。
 ゴミ集積所に向かう先を見ると、一瞬俺の歩くスピードが遅くなる。
 先には、がいた。
 そうだ、彼女も今日の掃除当番だった。
 手には教室内の不要になったらしき資料。彼女も集積所へ行くのだろう。
 俺は少し思案して、そして心を決め、歩いて行くと彼女の隣に並んだ。
「……あ、宍戸くん……」
 は少し意外そうに、俺を見た。
 俺はなんでもないように、しばらくそのまま歩き続けた。
 彼女も、何も言わず歩く。
 静かだけれど、不思議と、気まずい雰囲気ではなかった。
「……髪、似合ってるね」
 は何度かちらちらと俺を見て、言った。
 俺は歩きながら、そう言う彼女を見下ろす。
 にっこりと穏やかに笑う彼女は、やはり、とても可愛らしかった。
 はそれだけ言うと、特にそれ以上、俺に何を聞くわけでもなくまた前を見て静かに歩き続ける。
 俺の髪について、腫れ物に触るように避けるわけでもなく、だからといって他のクラスメイト達みたいに何を聞くわけでもなく、さらりと触れる彼女はやけに大人っぽく感じた。
「……俺、この前の大会で負けちまって……」
 俺はどうしてだか、急にに話し出した。
 何を言おうとしているのだろう。自分でも驚きながら、俺はまた話し続ける。
「テニス部は一度試合で負けると、正レギュラーを落とされるんだけど、俺はどうしてもまた正レギュラーとして試合をしたくて……特訓をして、また使ってもらえるよう監督に頼み込んだんだ。それで……髪を切った」
 にこんな事を話して、どうしようと言うのだろう。
 わからないけれど、俺はを見ないまま、まっすぐ前を見て歩きながら、今日クラスメイトの誰にも言わなかった事を話していた。
 は俺の方を見ながら、不意に足を止めた。
 俺も歩くのをやめて、彼女を見る。
 彼女は大きな目で俺をじっと見ていた。
「……そうなんだ。すごいね、宍戸くん」
 は俺の目を見たまま言う。
 俺は彼女の少し茶色い目を吸い込まれるように見つめた。
「……すごいって、何が?」
 つい、そう聞き返してしまう。
「ええと……」
 は指を口元にあてながら、考え込むようにしてしばらく黙る。
「何て言ったらいいんだろう。努力をしたり、やる事をきちんとやった上で、欲しいものを欲しいと、きちんと言えるって事。そういうのって、勇気があるし、とても強いと思う」
 彼女はまた俺の目を見据えて、ゆっくりと言った。そして恥ずかしそうにうつむく。
「ごめん、何だか上手く言えなくて。でも、すごいねって、テキトーに言ったわけじゃないの。本当にそう思ったから」
 そう言うと、またゆっくりと歩き出した。
 俺は彼女の言葉を頭の中で何度もリピートする。
 欲しいもの。
 俺の、正レギュラーの座。そして、監督に土下座をする勇気。
 そうだ、俺はキツいトレーニングを重ねる事なんか、どうって事はない。
 怖いのは、それで目的を達せない事。自分の無力を思い知らされる事。
 けれど、もしそうなってもそれが現実だ。
 俺はそれをも見つめる覚悟を持って、監督に土下座をして髪を切ったんだ。
「……おう、サンキュ」
 俺はに何て言ったらいいかわからなくて、一言そうつぶやいた。
 そういえば、俺は彼女とまともに会話をするなんて、これが初めてかもしれない。
 去年の今頃、彼女に付き合って欲しいと告白する前からロクに話した事もなかったんだから。
 俺は彼女が、こうやって一言一言、考えながらゆっくり丁寧に話す女の子だと初めて知った。

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2007.5.8

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