● 恋は最後のフェアリーテール(8)  ●

 テニス部の皆と別れて、私と真田くんはいつものように帰路に着いた。
 自転車を押して歩く私は無口なまま。
 真田くんに腹を立てても仕方ないかもしれないけど、ちょっと今回の真田くんの対応は気に入らなかった。私、あんな風な子じゃないのに。
 だけど、こんな時だし余計な事を言ってケンカになるのはよろしくない。
 一晩も過ごせば私の気持ちも治まるだろうし、あれくらいの事は他人からしたら大した印象じゃないのかもしれない。
 そう考えながら何も言わず黙って歩いていると、真田くんが口を開いた。
、どういう事だ?」
 彼のその言葉の意味がわからなくて、私はつい立ち止まってしまった。
「どういう事って、何が?」
 そして問い返す。
 真田くんは不機嫌そうな顔のまま。
「……せっかく俺が一緒に行ったのに、お前は俺を頼ろうとしないし、蓮二に対して『助けられた』というような顔をしていただろう? それに仁王とお前は大して親しくなかったはずなのに、今日、仁王はやけに俺に話し掛けてきた。どういう事だ?」
 えええー、真田くん。
 私はどこからつっこむべきか戸惑ってしまう。そして普段だったら、多分落ち着いて話せるだろう程度の事なのに、若干イライラしていた私はついカッとなってしまった。
「どういう事って、私だって言いたいよ。真田くんを頼ろうにも、真田くんは私の姿なのに、まんまと幸村くんの誘導に乗って妙な反応をしちゃってたじゃない。私、あんな事言ったりしない」
 当然真田くんは私を睨みつける。
「仕方がないだろう! 突然、委員会の後輩とのまったく覚えのない事を言われたのだ。あんな突拍子もない話を聞いては、お前が不安な思いをしてしまうのでは、と慌ててしまったのだ!」
 突拍子もないって……真田くん、本当に彼女の気持ちとか、まったく気付いてなかったんだなあ。そんなところが多分真田くんの良いところの一つなのだとは思うけど、それは『鈍い』と紙一重だ。普段なら微笑ましく感じるそんな事も、こういうイライラした時はネガティブに思えてしまう。
「別に私は今更そんな事でびっくりしないよ。三島さんと話した時、ああこの子は真田くんの事好きなんだろうなあって私も思ったもの」
 ついそんな風に言い返してしまった。
「何を! お前までそんな風に勘ぐるのか!」
 真田くんは激昂して言う。
「勘ぐるっていうか、そう思ったっていうだけよ。だからって、別に真田くんが彼女に対してどうだっていう事じゃないけど」
 私はなるべく落ち着いた声で返した。
「そのように見えるだとか思うだとか、主観的な話で言うのならば、じゃあ俺の主観を言わせて貰う。お前は今日の場でも俺よりも蓮二を頼っていたように見えたし、仁王はやけにお前に馴れ馴れしい。そういった事は、正直、あまり気分が良くない! そういう事だ!」
 落ち着こうとしても、真田くんの話は私を苛立たせるばかり。
「何を言ってるのよ。今の私は、真田くんが柳くんと友達だから、それらしくふるまっているだけじゃない。元から柳くんとはそこそこ話をする方だし。それに仁王くんが話し掛けてる私って、真田くんでしょ! そもそもあれはねえ、真田くんがツンデレだから仁王くんが面白がっちゃうんじゃない!」
「ツンデレとは何だ! わけのわからない事を言うな!」
 私は深呼吸をしたけれど、どうにも落ち着けそうになかった。
「……もう、今日はこれ以上話しても無駄だし、私は帰る。トレーニングは休み!」
 それだけを言うと自転車にまたがって、真田くんを残して走り出した。
 後ろでは、『勝手に休みにするな!』と真田くんが怒鳴っているけれど無視。
 


 真田くんの部屋で一人、宿題をやりながら私は後味の悪い気分だった。
 今まで真田くんと、ちょっとした諍いは何度かあったけど、別れ際まで言い争うような事は初めてだったから。
 友達との仲でもそうだけれど、ケンカをしたまま別れて家に帰るのって本当に憂鬱な気分になる。
 どうして私の気持ちをわかってくれないのだろうっていう事と、どうして私はあんな風に言ってしまったんだろうっていう事とがせめぎあって。
 教科書から顔を上げてため息をつき、今日の真田くんを思い出した。
 どうしてあんな風に言うのだろう。
 今、ただでさえ私は不安で仕方がないのに。
 それなのに、真田くんとケンカだなんて。
 今の私は本当に一人で、頼れるのは真田くんしかいないのに。
 本当に、本当に泣きたい気分だ。
 もう一度ふうっとため息をつくと、私の携帯にメールの着信を知らせるライトが灯った。
 一瞬、真田くんからだろうかと、あわてて画面を見ると友達の祥子からだった。
『謹慎生活はどう? 今日はテニス部の子たちと遊びに行ったらしいけど、真田とも上手く行ってるの?』
 そんな短いメール。
 私はそれを見て、また泣きそうになった。
 こんな時友人からのちょっとした一言は、例えて言うのなら、水に潜りつづけて息が苦しくなったところでやっと顔を水面に出して美しい空気を肺に吸い込んだような感じ。
 私は真田くんの姿で、真田くんは私の姿で、そんな私たちは二人だけで暗くて深い湖の底に沈んでしまっているような気分だったから。
 彼女に私たちの詳しい事情を話すわけにはいかない。けれど私の今のなんともやるせなく心細いイライラしたような気持ちを、ちょっと彼女にメールで愚痴ってみた。
 真田くんの友達にからかわれてしまったり、そういった時の真田くんの対応がとても私をハラハラさせたり、そんなような事を。
 すると彼女からもすぐに返事が返ってきた。
『大変だね。真田はしっかりしてるけど、なりふり構わないところがあるから、ま、大目に見てやりなよ』
 なんて、呑気な返事だ。
 大目にって! まったく他人事だと思って。
 そんな風に思うけど、それでも彼女とのそんなちょっとしたやりとりで私の心がふっと落ち着いた事に気付いた。
 こうやって『自分』としてやりとりをしていると、ああ私自身、ちゃんとここに存在しているんだと安心する。
 なりふり構うも構わないも、今は私は真田くんに、真田くんは私の姿になっているんだよ。
 私は目を閉じて、真田くんを思い出した。
 真田くんが、ちゃんと真田くんでいる時の彼を。
 春に初めてまともに口をきいた時、初めて一緒に日の出を見た時、彼の誕生日に二人で花火をして初めてのキスをした時、そして暑い夏の日の全国大会の試合。
 ……そういえば真田くんはいつも自分を律して毅然としていて、それでもなんて言うのだろう……決して他人の言う事にとらわれず、自分を信じて進んでいる。
 初めて私に好きだと(いうような事を)伝えてくれた時も、クラスの皆がびっくりして見ているのに、私が教室の窓から校庭に落っことしたピンクのアフロを走って拾いに行ってくれたんだった。
 そして、夏のあの、地面に膝をこすりつけながら勝ち取った試合。
 真田くんは自分で自分をしっかりと見て、その自分がきちんと信じて恥じない事をやってきているんだ。他人からどう見られるかなんて関係なくて。
 私は窓ガラスに映る自分の姿を見た。
 真田くんの姿をしているけれど、やっぱりこれは真田くんじゃない。
 真田くんはこんな泣きそうな情けない表情をしないだろう。
 改めて自分の腕をぎゅっと握って、その太くて血管の浮き出たたくましい腕を見つめる。
 これは真田くんではないけれど、私でもない。
 情けない顔にもなるよね。真田くんと自転車の二人乗りをしていた私は、一体どこへ行ったんだろう。
 私は今こんな姿で、でも多分真田くんの事を好きな二年生のあの女の子は、小さくて女の子らしくて可愛かった……。そりゃあ、その肝心の真田くんも、今は女の子の姿になっているのだけど……。
 そう考えて、自分の腕をぎゅうぎゅうと握りながら私ははっとまたガラスに映る自分を見つめた。
 私がそんな風に不安だとしたら、もしかしたら真田くんもそうなのだろうか。
 不安になって困っている私を、男の子として力いっぱい助けられない自分が、もどかしかったりするのだろうか。
 そんな中でも、真田くんは他の女の子の事で私が不安にならないようにと、まずそれを一番に考えてくれたんだ。
 私は、自分が他人からどう見られるかばかり気にして、そんな真田くんの気持ちや真田くんも抱えているだろう不安をちゃんと考えていなかったのかもしれない。
 携帯を手にして、真田くんの番号をディスプレイに表示させてみたけれど、顔を合わせずにきちんとこのはっきりとしないもどかしい気持ちを伝える事ができるのか自信がなくて、また充電器にカチンと電話を置いた。
 宿題にも身が入らなくて、部屋の隅に置いてあるダンベルを持ち上げてみる。
 真田くんが教えてくれたように、何度か持ち上げた。
 宿題をやったり、電話を見てうじうじしているよりも、その反復運動は心なしか私の気持ちを落ち着かせるような気がした。



 翌朝、私は少し悩んだけれどいつものように4時に起きて自転車で家を出た。
 昨日の朝よりもさっさと漕ぎながら、私の家の前にたどりつくとそこにはジャージを着て腕組みをした真田くんが塀によりかかっていた。
 私の姿を見つけると、少し意外そうに目を丸くして、それから気まずそうに眉間に皺をよせる。
 自転車から降りてスタンドを立て、私は真田くんの前に立った。
 昨日考えた事を、伝えなくちゃ。
「昨日は、すまなかった」
 真田くんが口を開くのが先だった。私は驚いてじっと彼を見下ろす。
「このような時なのに、お前に八つ当たりをするような事を言って……」
 もどかしそうに手を握ったり開いたりしながら、彼はゆっくりと言った。
 私はそんな彼をじっと見て、ああ、うん、確かにもどかしいなあと思った。
 自分の大きな手のひらを見て、そして少し考えてから、私の姿をした小さな真田くんをぎゅっと抱きしめた。
 とても、ヘンな感じ。
 いつもは、私が大きな真田くんに包まれていたのに。
 今の真田くんは、すっぽりと私の体に隠れてしまうくらい小さい。
 彼は一瞬びくりとしたけれど、そのまま私の上着をぐいっと握り締めた。
「私の方こそ、ごめんなさい。不安な気持ちにさせてしまって」
 こんな小さな体になった真田くんは、どれだけ不安だっただろう。
 いつもはきっと私を励ますために、ちっともそんなそぶりは見せないけれど。
 女の子の体になっても、やっぱり彼は強い男の子だから。



 その日はトレーニングを早めに切り上げて、そして案の定夕べもお風呂に入っていなかった真田くんを風呂に放り込んで、そして久しぶりに二人で日の出を見た。
 今の日の出は7時前くらいだから、それでも十分に間に合う。
 小学生の頃に読んだ絵本で、ある日世界の終わりが来るのだ、という話があった。
 世界の終わりのその日を待って、人々はそれぞれに生きるのだ。人々にはそれぞれに大切な人とのさまざまな過ごし方があって、そして息を殺して世界が終るその当日を迎えるけれど、結局世界は終らなかった。その瞬間が過ぎても世界はそれまで通り動いて、人々は静かにいつもどおりの生活に戻るのだ。子供心に、その話に一体どんな教訓があったのかはさっぱりわからなかったけれど、今でも、夜明けを見るとその話の『世界が終るはずの瞬間』を思い出す。
 真っ暗な夜と朝との境目の、その夜とも朝ともいえない世界で息を殺して空を見つめている私たち。その時、建物も木も人も車の下の猫も、何もかもがなぜか神妙に息を潜めているように感じる。何かが来るわけでもないのに。
 私と真田くんは、坂の上のガードレール沿いに立ち止まってお互いぎゅうっと手を握って東の空を見つめていた。
 まるで、世界が終る瞬間を二人で迎えるのだというように。
 私たちにじっと睨みつけられた東の空は徐々に赤く辺りを染めていった。
 その気配が始まると、それからは早いものでその赤は辺り一帯をどんどん濃くその色に染めてゆき、まるで世界が赤一色になるのではないかと思っていると突然に力強い光と明るい空の色が落ちてくるのだ。
 その光に包まれ出すと、それまで息を殺していた世界はほうっと呼吸を始める。
 まるで何事もなかったように、猫は走り、新聞配達のバイクはエンジンを唸らせ、何も変わらない普通の一日の様相を呈する。
 私と真田くんも、それまでぎゅうぎゅうと握り合っていた手の力を少し緩め、お互いの顔を見ると笑った。
「……じっとしていると、やはり寒いな」
 真田くんは寒そうにその両足を擦り合わせ、マフラーを巻きなおす。
「うん、じゃ、学校行こっか」
 終らなかった世界の普段どおりの一日に向かって、私たちはまた歩き出した。

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2008.1.6

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