● 恋は最後のフェアリーテール(4)  ●

「はぁ……真田くん、私……もう、無理……。お願い、これくらいで許して……」
 呼吸の荒い私の隣で、同じように息を弾ませた真田くんが怒鳴る。
「……何を! まだまだ、これからだ! これくらいで俺が満足するわけなかろう!」
 私たちは放課後、ジャージに着替えて延々家の近所を走り続けていた。
 彼の提示したトレーニングメニューに、私は一応の抵抗は見せたのだがやはりそれは無駄だった。メニュー表を受け取った私は、『ウン、わかった。これでやっておく』と言って見せたが、そのあたりは信用がなかったのだろう。真田くんは監督を兼ねて自分も一緒にやる、と言い出した。真田くんのお祖父さんの道場での朝の稽古だけは勘弁してもらったが(だって、剣道なんかできない!)、日々のトレーニングに関しては彼は断固として譲らなかった。それで、下校の途中私の家に寄り、いつものように宿題をやった後に着替えをしてトレーニングに突入したというわけだ。ちなみに私は母親に、『さんが少々体を鍛えたいというので、ご一緒しようと思う』と真田くんの姿で言わされたのだが、案の定母親は、『あらまあ、いつもダラダラしてるが運動するとは良い事ね、さすが真田くん』とご機嫌だった。私がそんな事考えるわけないじゃないの、お母さん!
 しかし、普段の私ならばとてもやらないようなトレーニングで真田くんが私自身のボディを引き締めてくれるというのならば、それは悪い話ではないかもしれないと私も一瞬楽天的に考えた。が、いかに真田くんの屈強なボディをもってしても、中身が極めて貧弱な私の精神では、彼の課したトレーニングにまず私が音を上げるのはそう時間のかかる事ではなかった。
 ちなみに、私のポンコツボディに早々にストップを判断した真田くんは、自転車で私の伴走をしている。
「……だいたい真田くん、ずるいじゃない! 自分ばっかり自転車で!」
「仕方がないだろう! お前の体が貧弱なのだ、これ以上の負荷は心臓に負担がかかる! 心配せずとも、この後の筋トレは一緒にやる!」
 真田くん、燃焼させてくださるのはありがたいけど、私の体はそんなにムキムキにしてくれなくていいよ!
 私は昼間とはちょっと違う意味合いで泣きそうになりながら走り続けた。

「水分は摂取したか?」
 ひとしきり走って公園で足を止めた真田くんは、自転車のスタンドを立てて私を振り返った。言われずとも、きちんと飲んでいます。私はごくりとスポーツドリンクを口にして、大きくため息をついた。生まれてこのかた、こんなに走ったのは初めてだ。これが毎日だなんて!!!
 私は少々腹立たしい思いで真田くんを睨みつけるが、彼は一向に意に介さない。
 しかし確かにこれは真田くんの体だから、思っていたよりかなり走れるのだけどなんていうのだろう。私の『こころ』と真田くんの『体』はまだ上手くはつながっていないというのか、多分まだ自分でも思ったようには動かせないのだと思う。いくら、機能的には上々な真田くんの体だとしても。などと、私が今の自分のこころと体について思いを馳せていると、真田くんは、さあ次だ! とせっつくのだ。まったく、せっかちだなあ。
「まずは腕立て伏せだ!」
 早速筋トレに入らねばならないらしい。
「慣れぬうちは、両手はなるべく広めにしてだな、そして胸がつくかつかないかギリギリまで身体を落としてゆき……」
 真田くんは、なぜこうも筋トレの事になると熱いのだろうか。
 私に口答えをする一切の間をも与えず、ガンガン指導を進めていった。
 まったくテニス部副部長の様相だ。
 描写が単調だしあまりにも辛くて思い出したくないので、後は腹筋・スクワットなどと続いた、という事だけ言っておく。
 尚、このトレーニング、最初は真田くんは、真田くんの自宅でやりたいと言ったのだけど(ダンベルなどの道具が揃っているから)それだけは私は必死で抵抗して取りやめてもらった。
 だって私、まだ真田くんの家に行った事なかったのに。初めて伺って挨拶して、そしてもくもくと筋トレをする彼女、なんてちょっとひどすぎる。さすがに真田くんも、それには同意を示して取りやめてくれた。
「よし、あとは俺の部屋にダンベルがあるから、それでさっき説明した通りアームカールやデッドリフトなどのトレーニングを自分でやっておいてくれ」
「うん、わかった!」
 勿論、やるわけない。
「そうだ、あと、ストレッチを忘れるな」
 ドリンクを飲んでいる私を、真田くんは芝生の方に促した。
「トレーニングの後はきちんとストレッチをして筋肉をほぐしておかねばならない。そうでないと、疲労が蓄積するからな」
 私は真田くんの指示の元、わき腹を伸ばしたり、股関節を広げてみたりのストレッチをした。へえ、真田くん結構体軟らかいんだなあ、とちょっと感心する。
「ちょっとうつぶせになってみろ」
 ストレッチはなかなかに気持ちよかったので、私は彼の言う通りにする。
「こうやって背筋も伸ばしたり、足を曲げて大腿の前の筋肉をしっかりと伸ばしておけ」
 真田くんは私の足先を持って、ぎゅっと引っ張ったり曲げたりして伸ばしてくれた。
 ああ、真田くん優しいなあ、と思ったけど、まあでも自分の体だからねぇ。考えた事なかったけれど、真田くんは結構ナルシストなのかもしれない、などと思いながら私は彼のケアを受けていた。それにしても自分の体だと思うからなのか、真田くんはかなり無遠慮に触ってくるので、私はちょっとだけ緊張してしまった。

「よし、あまり遅くならぬうちに帰るか」
 一通りのメニューを終えてご機嫌になったらしい真田くんは、すがすがしい顔で自転車を押して行った。私たちはクールダウンがわりに歩きながら私の家に向かう。私は疲労困憊で口数も少ないまま。
 私の家の前に到着すると、私は一瞬『ただいまぁ』と家に入りそうになる。
 違う違う。
 私は真田くんの家に帰らなきゃいけないんだ。
 家の門の前で、私はきゅっと拳を握り締めた。
「あの、真田くん、私このまま真田くんの家に帰るね。荷物持ってきてあるし。あの、じゃあ、また」
 今家に入ると、なんだかまた心細くなって泣きそうになるかもしれないと、私はそこで彼に別れを告げた。
「あ、ああ、うむ……。……今日は、その、よく頑張ったな」
 自転車のハンドルを持った私に、真田くんはちょっと言いにくそうにつぶやいた。照れくさそうな顔をしている。それはよくよく知ってる私の顔なのに、なんだかやけに心に染み入って私まで照れくさくなった。そして、ちょっと嬉しくなる。
「あ、うん。まあ、真田くんが今まで一生懸命鍛えてきた体なんだし、ちゃんとしなきゃね。うん、じゃあまた明日」
 私はそう言って彼に手を振ると、自転車をこいだ。
 一人になるのは心細いけど、真田くんだって同じなんだ。
 私も頑張らないと。
 そう言い聞かせながら、真田くんの家の方に向かって自転車を漕ぎ続けた。



「ただいま」
 私はそう言って、おそるおそる真田くんの家に入った。
 実は朝、少々家の中で迷ってしまった。
 けれど、朝、まだ家の人が起きていない時間にうろうろしたおかげで、なんとか真田家の造りは覚える事ができた。
 玄関を通ると、私はキッチンに顔を出す。そこでもう一度、ただいま、を言った。
「あら、弦一郎おかえりなさい」
 そこでは真田くんのお母さんが笑顔で迎えてくれた。
 うちのお母さんと違って、大分おっとりとした上品な人だ。いかにも真田くんのお母さん、という感じがする。
「お父さん、もう少しで帰ってくるって。先にお風呂入ってきたら?」
 真田くんがトレーニングをして帰ってくる事はよくあるのだろう。そもそも私は今、ジャージ姿のままだし。お母さんは慣れた様子でそう言った。確かに汗をかいて疲れたし、私はその言に従って部屋に荷物を置くと風呂場へ向かった。
 それにしても、何と言ったらいいのだろう。
 朝には着替えをしたり、昼間はトイレも行ったし、ある程度今は真田くんである自身の体を見てきたけれど、こうやってお風呂にまで入って隅々まで洗わねばならないというのは、まあ確かに衝撃的な経験だ。
 だけど、仕方ない。ギャーギャー言ってる場合じゃないもの。
 浴槽につかってふうっとため息をつきながら、ついつい眉間に皺をよせてしまう。
 当たり前だけど、本当に女の子の体とは違うなあ。
 今日もブーブー言いながら真田くんに言われた通りトレーニングをしたけれど、確かに自分の体とは比べ物にならないくらい力があるし、本当にずっと動きつづけられるんだなあとちょっとびっくりした。
 前は、私がよく夜遅く帰ったり、一人でうろうろしているのを真田くんが心配したりするのがちょっとよくわからなかったけれど、実際男の子になってみると少し分かるような気がする。私が自分で思っていた以上に、男の子はたくましい。そしてそうなった自分から見ると、女の子の私の体は本当に小さくか弱く見えるのだ。こんな真田くんみたいな体の持ち主が、ちょっと力を出せばそれこそ何も抵抗できない弱々しい存在に。
 いつも真田くんが私に触れる時、恐る恐るそうっと、という風なのもちょっとわかったような気がする。真田くんみたいに強い人からしたら、自分より小さい女の子に一体どれくらいの力で触れていいのかが、わからないのかもしれない。
 そう思うとちょっとおかしくなった。
 真田くん、私はこの屈強な真田くんの体に比べれば弱いけど、そんなには弱くないよ。
 今日、一緒に走ったり腕立てをしたりして、わかったでしょう?
 そんな事を考えて、くすくすと笑ってしまう。
 それにしても、今朝の着替えだけであの大騒ぎだった真田くん、無事にお風呂に入れているのだろうか。考えると、私は今自分が風呂に入っている以上に恥ずかしい事は否めないわけだけれど、それは仕方ない。もう構わないから、真田くん、無事にお風呂に入れていますように!



 お風呂から上がって真田くんの自室にいると、早々にお母さんから声がかかった。お父さんも帰ってきて、食事の時間らしい。
 私は若干緊張しながら食卓に向かう。
「お、もう風呂に入ったのか、弦一郎」
 着替えをすませたらしいお父さんが静かな笑顔で言った。
「はい、トレーニングをしてきましたので」
 私は少々ぎこちなく答える。
 食卓からは、赤だしの味噌汁と煮魚の良い匂い。
 お母さんのよそってくれたご飯を受け取る。やっぱり男の子のお茶碗て大きいなあ、それに大盛!
 頂きます、ときちんと手を合わせて食事をいただく。
 今日はばたばたしてお腹が空いたなんて忘れていたけれど、中学生の男の子だもの、やっぱりお腹空いてたみたい。私は結構がつがつと食べてしまう。どんな時でもお腹は減るものだなあ。それに、真田くんのお母さんのご飯、美味しい!
「そうそう、お兄ちゃんね、週明けにはアルバイトも終って帰ってくるって言ってたわよ。弦一郎と稽古するの、楽しみだって」
 そういえば、真田くんにはお兄さんがいるんだっけ、大学生で一人暮らしの。
 私ははっとして顔を上げた。
 稽古って……剣道なんだろうなあ。私、真田くんに剣道も習っておかなければならないのだろうか……。またもや不安な気持ちがあふれてきて、俯いて味噌汁をすすった。
「お正月にはそうやって皆揃うし、ほら、弦一郎が仲良くしている子、さんも一度連れていらっしゃいね。前から言ってるでしょ」
 その言葉に私ははっと顔を上げて、そして思わずカッと一瞬体が熱くなった。
 そうか、真田くんが時々遠慮がちに言っていたのを私はあんまり気にもとめていなかったけれど、ちゃんと本気で誘ってくれてたんだ。真田くんてば家の人に私の事、どんな風に話してたんだろう。
 私は目の前の、静かで優しそうなお父さんとお母さんを見た。
 こんな風になる前に、きちんとお呼ばれしてご挨拶しておけばよかったなあ。
 ちょこっとだけ切なくなった。
 うん、と小さく肯きながら、もくもくとご飯を食べる。
 それにしても、真田くんの体だとほんとにいくらでもご飯食べられる。太る心配とかもあんまりないのかも、と思うともりもり食べてしまった。
 そして私ははっとまた思い返した。
 お昼、真田くんはえらく大きなお弁当を食べてたけど、私の体で食べ過ぎたりしないでねって言うの忘れてた!
 運動するから大丈夫かもしれないけど、私はひどくマッチョになった自分を想像して、また憂鬱な気分になる。

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2008.1.2

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