その日の夜は妙な夢を見た。
いつも真田くんが漕いでいる自転車を、私が必死で漕いでいるのだ。
そして後ろのキャリアからは、『もっとしっかり漕がんかあ!』とどっしり座った真田くんが怒鳴る。
そんな事言ったって、後ろにのっかられると重いんだから! しかも真田くんの鞄、石が入ってるし!
そんな夢でうなされながら私は目をさました。
枕もとでは目覚し時計の電子音が鳴っている。
いつもは携帯のアラームを設定してるんだけど、夕べは目覚ましをかけたんだっけ?
体がやけに重たくて、うううとうなりながら目覚ましを止めて窓の外を見るとまだ暗い。
目を凝らして時計を見ると、なんと4時。
4時って!
なんつう時間に目覚ましをかけてんだ、私。
ベッドから降りようとすると、なんだかおかしな感じ。
子供の頃読んだメアリー・ポピンズの話を思い出した。
その話によるとベッドには左右や壁際かどうかに関係なくその日によって『悪い側』と『良い側』があって、『悪い側』から起き上がるとその日一日は最悪の日なんだって。確かそんな事が書いてあった。
しかし、いくらこれがベッドの『悪い側』だとしてもどうにもおかしい。
だって、これ、私がいつも寝ているベッドじゃなくて布団だもの。
私は立ち上がって部屋の明かりをつけると、それは確かにどう見ても畳に敷いてある布団だった。
というか、これは私の部屋じゃない。
部屋どころか。
カーテンのうっすらと開いた窓ガラスに映った自分の姿を見て、私は仰天した。
だって、そこにいたのは真田弦一郎だったから
そしてそんな風に私が驚くのと、枕もとで充電してある携帯電話がブブブと着信を知らせるのは同時だった。
薄暗い早朝の刺すように冷たい空気の中、私は公園のベンチに腰をおろして腕組みをしていた。
私というか、真田くんの姿をした私、なのだけれど便宜上『私』という事で。
大林監督の尾道三部作的に言えば昨日までの私の体はどうなっているかというと、その結論は一つしかない。
腕組みをした私の視線の先には、軽快な足音でジョギングをしてくる人影があった。
立海大附属中の学校指定のジャージを着てジョギングしてくる私、だ。
走ってきた私は、ベンチの前で一通りクールダウンを終えると肩を揺らして呼吸を早めたまま不機嫌そうな顔で私を見た。
「、お前は運動不足なのではないか。これしきの距離で息が上がるとは、たるんどる!」
私は……つまりの姿をした真田くんは、極めて不愉快そうに鞄をベンチに放った。
「ああ、ごめんね、私、文化部だし……」
私たちは電話で話し合った後、学校に行く途中の公園で待ち合わせた。
彼は律儀にジョギングをして来たらしいが、私の体では思うように走れずご機嫌斜めなようだ。まあ、当然だろう。
「それにしても、一体どうしたものか」
真田くんは眉間にしわをよせたまま、ベンチに座ってため息をついた。
至極最もな一言だ。
本当にどうしたものか。大林監督、どうしたらいいんですか。尾道で階段から転がり落ちれば良いんですかね。
「とりあえず学校に行く前に、少々話し合っておかなければなるまい」
静かに言う彼を、私はえっと声を上げて見下ろした。
「えっ、学校行くの!?」
「当たり前だろう。俺は小学校の時から無遅刻無欠席無早退なのだ」
俺は、という事はつまりは私がそうしなければならないという事か。それは、責任重大だ!
「それじゃあしょうがないけど……、あ、そうだ真田くん、着替え持ってきた?」
彼は相変わらず不機嫌そうに、顎で私のトートバッグを指した。
朝一に私たちは電話で、とりいそぎ待ち合わせて話をしましょうとなったのだけれど、彼は枕もとに置いてあった私の制服を見て『俺がこんなものが着れるか!』とちょっとキレ気味だったので、私はとりあえず一式を持ってくるだけは持ってきてちょうだいと指示を出したのだ。最近は寒いからと、着替えを一式枕もとに置いてから寝てよかった。
「あのぉ、真田くん、私、そのダサい学校指定のジャージで登校するっていうのだけは絶対に困るから、やっぱり制服は着て欲しい。真田くんは風紀委員長だから、わかるでしょう?」
彼もジョギングをしながら若干は落ち着いたのか、それは確かにそうだな、となんとか私の説得に応じてくれた。
「じゃあ、そこのトイレで着替えてきて。細かいところは、後でチェックしてあげるから」
トートバッグをベンチから取り上げると、私はそれを真田くんに渡した。が、彼は受け取ろうとしない。
「女の服など着た事がないから、着方がわからん。も一緒に来い」
えー! 真田くん、結構手がかかるなあ。
私はしぶしぶ彼と一緒にトイレへ向かった。
若い男女が一緒に入るなど、世が世ならいがかわしい目的にでも使用されそうな身障者用トイレに二人で入って、私は手荷物台の上に着替えを広げた。
「シャツはボタンの向きが反対だけどほとんど一緒だし、ネクタイも一緒でしょ。スカートはなかなか慣れないかもしれないけれど、ちょっと我慢して」
私が言うと、彼はこれまた渋々といった風にジャージの上着を脱いだ。
どうやらパジャマの上にそのままジャージの上着を羽織ってきたようだ。
「あっ!」
私は真田くんに持ってこさせた着替えを広げながら声を上げてしまった。
「いやだ、真田くん、ブラジャーもしないで走ってきたの!」
制服の間にはさまっている見慣れたアイボリーのブラジャーを発見して、私はあわてて彼を見た。ちなみに私は夜寝るときはブラジャーしない派。しかし、よくぞ夕べの私、枕もとにブラジャーも一緒に用意していたものだ。
「そんなもの、つけ方がわからん」
彼は憤慨したように言うのだった。まあ、無理もない。
「じゃあ、教えてあげるから、ちゃんとつけてちょうだい」
私は、さあ!さあ! と両手で彼に向かってブラジャーを差し出す。それにしても、こんな形で真田くんに下着を見られる事になるとは思わなかった。とりあえず、昨夜用意しておいたのが勝負下着とまではいかないものの、新しめのちょっと可愛らしいものでヨカッタ。
「しかし、俺がそんなものをするなど、抵抗があるな」
彼はまた腕組みをすると、他人事のように言ってブンブンと頭を振るのだ。
抵抗があるって! ノーブラでジョギングの方がよっぽど抵抗があるよ!
「じゃあ真田くんは、私がノーブラで学校をうろうろしてもいいって言うの!? それでも風紀委員長!?」
一向に進まない着替えの作業に、私は少々イライラして珍しく怒鳴ってしまった。
しかもその声は紛れもなく真田くんのおなじみの怒鳴り声なので、ずいぶんとドスの聞いた風に響き渡る。
「……いや、それは感心せん」
「じゃあ、わがまま言わないでちゃんとして!」
真田くんは腕組みをしたまましかめ面をしてひとしきり唸ると、やむをえん、と意を決したようにつぶやき私の鞄を寄越すように言った。私の鞄はつまり真田くんの鞄なんだけど(当然、あのバカみたいに重たい石は置いてきました!)、彼はそのポケットから手ぬぐいのようなものを取り出す。彼はそれを丁寧に折りたたむと、ぎゅっと目隠しをした。
「これで良い。いくら今はこれが俺自身とはいえ、お前の裸を見るわけにはいかんからな。さあ、ぞんぶんに着替えさせてくれ!」
そう怒鳴ると覚悟を決めたようにホールドアップよろしく、両手を上げてみせた。
えー、真田くん、律儀というかなんというか、そんな事を言ってる場合じゃないと思うんだけど!
まあ仕方がない。
私はまるでお姫様にでもするように、彼に制服を着せて行った。
着替えが終ると、彼は目隠しを取って鏡を見る。ずっと不機嫌そうだった彼は、鏡を見ると少し笑った。
「……だな」
そう言って、私を振り返った。
それは私の姿で私の声なんだけれど、その静かで落ち着いた一言は紛れもなく真田くんだった。
「うん」
私もなんだか少しほっとして、彼を見て微笑んだ。
「あ、ちょっと待って」
はっと思い出して、真田くんが持ってきたバッグからブラシを取り出した。
彼の髪を梳いて、水道の水で毛先を整える。
まあ、これでなんとか私の登校スタイルの形になった。
やいのやいの言う真田くんの着替えには思いがけず時間がかかり、トイレから出るとすっかりもう登校の時間になっていた。
「なんだ、これは! なんと肌寒く、不安定な服だ!」
外に出たとたんの彼の不満げな言葉が、制服の短いスカートを指している事はすぐにわかった。まあ、予想のついていた反応だ。
「まあまあ。そういうの、慣れだから。修行の一環だと思って」
私は自転車を押しながら彼をなだめる。
歩きながら、私たちは当座の打ち合わせをした。
とりあえずお互いの役割をそれぞれに果たさなければならない。まずは最低限、言葉遣いや仕草に気をつける事と、それぞれの友達づきあいの注意点などを話し合った。
自転車置き場に自転車をとめて鍵をかけると、私たちは教室に向かう。
朝、私と真田くんが二人で教室に入る事なんて、勿論初めての事ではないのにひどく緊張した。
まだ時間は早いので、クラスメイト達もまばらだ。
私たちの登校姿など、いちいち誰も気にも留めないというのに私は鼓動が早まる事に気付く。その拍動は一つ一つがしっかりと重たくて、早まるといってもいつもの自分の心臓の動きとは少し違っていて、ああ、これは真田くんの心臓なんだなと改めて感じる。
「真田くん、さん、おはようございます」
教室で真っ先に声をかけてきたのは、柳生くんだ。柳生くんは真田くんと同じテニス部・風紀委員で彼とは相当に親しい。私の緊張は高まる。
「ああ、おはよう」
真田くんが先に返事をした。
その声に私もはっと我に返って、おはよう、と返す。
ああ、真田くんってば、ぶっきらぼう! 私、柳生くんは嫌いじゃないから、普段もうちょっと愛想良くしてるんだけれどなあ。まあ男の子同士の友達って、いちいちそんなに挨拶するたびニコニコしないからね。特に真田くんは。そんな風にちょっとはらはらしながら彼を見て、そして思わず普段の自分の席に向かいそうになり、あわてて真田くんの机へ行って鞄を置いた。
今週末からは冬休みだ。あと四日間でもう学校は休みになる。四日間くらい休んでしまいたいと激しく思うのだけど、小学校以来の無遅刻無欠席無早退の真田くんの記録を途絶えさせてしまうわけにはいかないようだし、真田くんも欠席しようという発想はないようだ。私ならぜんぜん構わないんだけれどな。
机に教科書を仕舞いながら、憂鬱な気分一杯でため息をついていると背後で耳慣れた声が聞こえてきた。
「、おはよう! 今日は早いねー、おっ、やけに豪快じゃない! 真田くんのモノマネ?」
祥子の声だった。その声に振り返って、私は思わず立ち上がる。
真田くんは私の席に座って、難しい顔をして腕を組んでどっしりとかまえた、いつものスタイル。
それ、脚、がっつり広げすぎ!
私はあんまり行儀の良い方じゃないけど、スカートでそんなに脚広げたりしないよ!
「!」
私は駆けつけて、真田くんの両膝を私の両手でぐっと閉じた。
「脚を広げすぎだろう! パンツが見える!」
真田くんてば普段はいろいろと細かいところにうるさいくせに、どうしてこういうところに無頓着なんだろう! ちょっと腹が立つ!
真田くんは驚いた顔で私を見上げ、そしてはっと組んだ腕をほどき、すまなそうにうつむいた。
「すまな……いや、ごめんなさい」
そして、しおらしく言うのだった。祥子が笑いをこらえているのがわかる。いや笑ってないで、友達としてちゃんと注意してよね、祥子!
「わかれば良い。これから気をつけろ」
私はそう言い捨てて自分の席に戻った。
どう? いつも真田くんには叱られてるから、こんな風にそれっぽく言うのなんてお手の物。そしてシャクな事に、あんな風に私が叱られているのもクラスメイトたちには全く違和感はないようだった。
さて、休み時間になると私と真田くんはまるで傷ついた小鳥同士のように二人で身を寄せ合う。私たちは普段そんなに教室でべたべたしてる方じゃないから、ちょっと珍しい光景だったかもしれない。だけど、それぞれに今クラスメイトに話し掛けられたりすると、上手い受け答えができるのか自信がなくて、つい二人になってしまう。
「……図書館に行って、本を借りてくる」
二時間目の後の休み時間に彼は言い出した。
休み時間やなんかでも、一人で黙々と本を読んでいればあまりクラスメイトも話し掛けてこないだろう、という発想だ。確かに普段の私は突発的に読書に集中する時もあるから(それは往々にして漫画だったりする事が多いんだけど)、真田くんにしてはなかなか気の利いた考えかもしれない。
「それは良いかもしれんな」
私はちょっと彼っぽく言ってみて、肯いた。
私も購買にペンを買いに行こうと思い(真田くんのはどうも重たくて書き辛いのだ)、一緒に廊下へ出た。
彼と別れて購買部の方の棟に入ったところでの事だった。
購買の手前に、仁王くんと幸村くんが二人でいるのだった。
彼らは私(つまり真田くん)に気付くと仁王くんが、おっ、という顔をして笑いながら手招きをする。
私は思わず身を固くした。
あの二人、テニス部の中でもどうも苦手な二人なのだ。
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2007.12.29