● 恋は最後のフェアリーテール(10)  ●

 やったー!
 明日から冬休みだ!
 私は、飛び上がってくるりと廻って踊り出したい気分だった。
 というか、普段の私なら実際にそうして、オマケに覚えたてのギターをかきならすところだけれど、今の私がそんな事をすれば教室中のクラスメイトがドン引きする事請け合いなので、黙って喜びを噛み締めているだけ。
 何しろお休み大好きな私ですからね。
 明日から休みだと思うと、終業式での先生の長ったらしい話や、冬休みの宿題に関するガイダンスも大人しく聞いていられるというものだ。
 しかしながら、普段なら友達とクリスマスやお正月の予定を立ててわくわくするところなのに、今回はそうはいかないところが辛い。
 それどころか、テニス部の皆様との練習会や、真田くんのお兄さんとの剣道の稽古や、ややこしい予定が一杯だ。
 そう思うと大好きなはずの休みなのに、私はちょっと憂鬱な気分になってきてしまった。
 とりあえず明日からどうするかという議題で、終業式が終った後に帰り支度をした私と真田くんは校庭の隅のベンチに腰掛けて話し合っていた。
「ひとまずだな、俺は一度、自分の部屋へ行きたいと思う」
 真田くんが言い出した。
 そういえば、私は自分の家に寄って必要な私物を持ち出したりしているけど、真田くんは一度も自分の部屋に戻っていないのだ。
「自分の参考書や本など、手元に置きたいものもあるしな」
 至極もっともな意見だ。
「それに、この状況を何とかするための手立ても考えなくてはならん」
 それも確かにそうだ。
「……けど、どうしたらいいんだろ」
 私の問いに、彼は難しい顔をして首を振った。
「それはわからん。が、休みに入って時間ができるのだ。調べ物をするなど、今までよりも建設的に取り組めるだろう」
 彼はしばし考えると、よし、と言って立ち上がった。
「そのために、冬休みの宿題は早めに済ませよう。できれば今日中にだ。書初め以外は全部できるだろう。さあ、行くぞ」
「ええっ、全部って、宿題を全部!?」
 私は年内に冬休みの宿題に手をつけた事なんてなかったので、そのあまりにアグレッシブな発言に少々たまげてしまった。
 私たちはそんな事を話しながら真田くんの自転車を取りに、いつもの自転車置き場に向かった。
 自転車の鍵をはずして自転車を押しながら裏門の方へ向かうと、なにやら妙な声が聞こえてくる。
 言い争うような声だ。
 女の子の声と、低い男の人の声。
「どういう事ですか? だったら、職員室に一緒に来てください!」
 やや逼迫した女の子の声。
「だから、そんなんじゃないって言っているだろう、しつこいな!」
 そしてくぐもった男の声はやけに低くて野太い。どうやら男は、学校の生徒ではないようだった。
 私たちは顔を見合わせると、あわてて声のする方へ向かう。
 すると裏門を少し入ったところの垣根の影に、三島さんがいた。三島さんは部活のトレーニング中なのか、ジャージ姿だ。
 そしてその向かいには年配の男性。
 年齢的には父兄というくらいなのだが、その雰囲気は明らかに父兄という体ではない。まあ平たく言えば『不審者』といった風情で、手にはビデオカメラが。
 どこからどう見ても、盗撮マニアである!
「真田先輩!」
 私たちの姿を見ると、三島さんはほっとしたように叫ぶ。
 そしてその声で私たちの方を振り返った男は、とっさに逃げようとした。
が、三島さんは男の、カメラを持った手を掴んで逃がそうとはしない。
「離せ! このガキ!」
 思い切り振り払われた彼女は、地面に転がり、男は走った。
「三島さん!」
 私は自転車を放り出して彼女に駆け寄った。
「大丈夫!?」
 彼女はすりむいた手のひらを少し痛そうにさするけど、キッと顔を起こして男の逃げた方を睨む。
「先輩! あの男、無断で女子テニス部を撮影していたんです!」
 私が男の方を振り返ると、すでに真田くんが『待たんかー!』と叫んで走って追いかけているところだった。
 こうしてはいられない! 普段の真田くんなら、任せておけば大丈夫だろうけど今の真田くんは女の子なんだ!
 私はあわてて立ち上がって走り出す。ああ、真田くんとトレーニングしておいてよかった!
 すると、私の後を三島さんも走って来るのだ。
「三島さんは、危ないから……」
 私が言いかけても、彼女は走りつづけたまま。
「風紀委員として、あのような不審者は許せません! 私、陸上部ですし、きっと走って追いつけます! 先輩だって追いかけてくださってるんですし!」
 なんとも真面目だ!
 とにかく追いつかなくちゃ!
 私たちが門を出て走っていると、角を曲がる手前で、なんと男と真田くんが取っ組み合いになっているのが見えた。
 明らかに真田くんはパンツ丸見えだと思うけど、そんな事を言ってる場合じゃない。
 真田くん! もう少しで追いつくから、頑張って!
 私は懸命に走った。
 けど、いくら真田くんの堅牢な精神が宿っていても所詮は運動不足な私の体だ。
 懸命に取り押さえようとしても、真田くんは男に髪を引っ張られて引き剥がされそうになっていた。
 ごめん、真田くん! 私がもっとちゃんと運動して鍛えていれば、真田くんにこんな思いをさせずにすんだのに!
 もう少しで追いつく、というところで急に男の苦しそうな声がする。
 男の首には、見慣れた色のマフラーが巻きついていた。
 立海大附属中指定のあのマフラーだ。
 そして、それを締め上げる先には幸村くんが立っていた。
 苦しそうにそれを両手で掴もうとする男の手からビデオカメラが地面に落ち、地面に座り込む形になっていた真田くんがさっとそれを拾い上げる。
さん、大丈夫?」
 そのまま男の手を後ろ手にひねり、幸村くんはあのきれいな顔で少し心配そうに真田くんに尋ねた。
「大丈夫だ」
 真田くんは一瞬幸村くんを睨みつけるように見上げて、シュルッと自分のネクタイを外すとそれで男の手を縛り上げた。
 なんだか、手馴れてるなあ!
 私は三島さんと立ち止まり思わず感心して見ていると、幸村くんが厳しい顔で私を見た。
「真田。らしくないね、一体何をやってるんだ。自分の彼女くらい、ちゃんと守りなよ」
 彼の言葉にはっとその目を見た。
 いつも穏やかで、たまにちょっと人をからかうように笑うその目は、今はぴりりと真摯で厳しくて、ああきっとテニスコートで部長としている時ってこういう顔をしているのだろうな、と感じた。
 彼の言葉は『真田くん』に向けられているのだとはわかっていても、それは私に向けられたも同然だ。
 私は今、こんなにしっかりとして頑丈な真田くんの体を持っているのに、三島さんよりも真田くんよりも役立たずだったんだもの。真田くんを守ってあげられなかった。
「……すまない。ありがとう、幸村」
 私はそれだけしか言えなかった。
「真田は、さんを保健室に連れて行って手当てしてあげなよ。足、すりむいてるだろう? この男は僕が職員室に連れて行く」
 男の悪態を無視して、幸村くんは静かに続けた。
「あ、ああ、わかった。そうだ、三島さんも手が……」
 私が言いかけると、幸村くんは真田くんの手からビデオカメラを取り上げ、それを三島さんに渡した。
「三島さんは僕と一緒に一度職員室に来てくれるかい? この男がしていた事、見ていた?」
 彼の質問に、三島さんは肯いた。
「彼女は僕が後で保健室に連れてゆくよ。だから、真田はさんと行ってくるといい。三島さん、それでいいだろう?」
 優しい声でしかし毅然と言う幸村くんは、まるで試合終了を告げる審判のようであり、また試合のオーダーを出す監督のようでもあった。
 その言葉に三島さんは静かに肯いて、ほんの一瞬寂しそうな顔で私たちを見た。
 でもそれは本当にほんの一瞬で、すぐに彼女は試合終了後のスポーツ選手のような、凛とした表情に戻る。
 私も肯いて、もう一度彼に礼を言うと二人を後にして真田くんと保健室に向かった。
 私と並んで歩く真田くんは、複雑そうな顔でうつむいている。
「あの、ごめんね、真田くん。私がもうちょっと頑張ってれば……」
「いや! 俺の方こそすまない。お前の体だというのに、怪我をさせてしまって」
 うつむいた顔を上げて、あわてたように言った。
「あ、気にしないで。痛いのは真田くんだからこういうのも何だけど、それくらいの擦り傷は自分でもよく作ったりするし、すぐ治るし」
 それでも真田くんは相変わらず浮かない顔のままだった。
 保健室に行くと、丁度会議だったのか先生がいなかったので、真田くんに教えてもらいながら処置の道具を用意した。
 真田くんはこういう事に慣れているようで、さっさと傷口を水で洗いに行って自分で手当てをした。そういえば、真田くんとつきあうようになる前、こうやって保健室で捻挫の治療をしてもらったっけ。
 役立たずの私はぼーっとそんな彼を見ながら、懐かしく思い出していた。
「……幸村が、来てくれてよかったな」
 膝小僧にガーゼを貼り付けながら、真田くんは言った。
「うん、本当。幸村くんて、なんだかちょっと苦手って思ってたけど、やっぱりしっかりしてて頼りになるね」
「……ああ、そうだな。それに比べて俺は、お前の体も何も守る事ができん」
 そこで私はやっと気付いた。
 真田くんは、やっぱりもどかしいんだ。
 普段の自分だったら、きっと今日みたいな事があっても一人で十分対応できただろうに。
 幸村くんの言葉は、真田くんにも響いていたんだ。
 私はちょっと胸が痛くなった。
 私の姿で、全力で走ってとっくみあいをする真田くんは、それでもとても懸命で素敵だった。私なんだけど、私じゃない。
 私も真田くんも、自分が自分じゃないのが本当にもどかしいね。
 真田くんに、一体なんて言葉をかけたら良いのかわからなくて、膝の上で握り締めている彼の拳を、私はぎゅっと握り締めた。
 明日になって目がさめたら、冬休みだし、そしてこれが全部夢だったらいいのに。
 そんな風に思いながら、強く強く、彼の手を握った。

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2008.1.8

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