12月も後半になって、もう週末からは冬休み。
常に騒がしい私の、中等部最後の一年はきわだって騒がしかった。
委員も何もやらずにのらりくらりとしてきた写真部の私が、卒業アルバムの写真を頼まれたついでに卒業アルバム製作委員を引き受けてしまったり、そして、初めて男の子とつきあってみたり。
まあそんな風な今年の諸々のめまぐるしい出来事と、今、私が遅刻しそうで廊下を走っているという事は全く関係ないのだけど。
その日、私は始業ぎりぎりで教室に滑り込んだ。
別に珍しい事ではないので、友人達は『よっ、今日はちゃんと1時間目からか』なんていつものように声をかけてくる。
けれど、彼は違う。
「! また遅刻ギリギリではないか! 寒いからといってたるんどるぞ!」
クラス委員の真田くんは、席に着こうとする私を睨みつけて怒鳴るのだ。
「いや、起きる事は起きたのよ。でも犬の散歩に行ってたら、面白い顔の猫がいてついついずっと見てたら、時間が過ぎちゃってね」
「言い訳は無用だ!」
春からつきあっている真田くんは、私が遅刻をしたりする度、まったく懲りもせずにお説教をしてくれる。最初の頃は参ったなあと思っていたけれど、まあこれもありがたい事なのかもと今では慣れて、甘んじて日々の説教を受けている。
何しろ私は、学校に行く途中でふらりと寄り道をしてしまったり、天気が良い午後はつい授業をさぼって写真を撮りに行ってしまったり、どうにもふらふらしている性質なのだ。
もちろん、友達と夜遅くまで遊びに行く事も好きだし。
ただ、真田くんとつきあうようになってからは、『今日は遅刻します』とか『今日の午後はサボります』とか、まるでお母さんに言うみたいに申告するようにしている。
だって、心配するのがわかるからね。
すると彼は『いいかげんにしろ』と勿論お説教はあるのだけれど、私が好きなようにする事を止めたりはしない。
私の友達は、きっと私と真田くんなんてすぐに上手く行かなくなると思っていたらしいけれど、意外に私たちは上手くやっている。
今日も、真田くんに一通り説教されて席につくと、丁度先生がやってきた。
まあ、そんな具合です。
「、今日はアルバム委員の集まりか?」
昼休み、私が友達とお弁当を食べていると真田くんが通りすがりに尋ねて来た。
「うん? あ、そうなのよ。レイアウトを話し合わないといけないんだって」
「そうか、俺は多分用があって部室に行っている」
真田くんは何でもないように言う。私は思わず嬉しくなって、背筋を伸ばした。
今は真田くんはテニス部は引退していて、部活に顔を出す事はほとんどなくなった。
夏までは、いつも私が彼の部活を終るのを待って一緒に帰っていたけれど、最近はこうやって真田くんが私を待ってくれるのだ。
そんなちょっとした事が、私にはとても嬉しかった。
「うん、終ったらそっちに顔出すね」
私が言うと、真田くんは返事もなく去ってゆく。
友達の祥子はそんな彼の後姿を見て、ふうっと息をついた。
「……ほんと、よく続いてるね?」
何度も聞いた台詞を彼女はまた言うのだった。
「ねえ、と真田」
千佳もため息をつく。
このひどい友人達は、多分私と真田くんは夏あたりに破局を迎えるだろうと、数人を募ってそのXデーのトトカルチョをしていた。夏休みに、やけに派手に私を遊びに誘うなあと思ったら、各々自分の賭けた期間に破局が来るよう頑張っていたらしい。
ひどい友達でしょう?
まあ実際のところ、せっかくの夏休みも真田くんは全国大会で忙しくてぜんぜん一緒に遊びに行ったりできなくて私もちょっとヘコんでいたのだけれど、彼女達のトトカルチョを知ると、そんな思い通りになってたまるもんですかと頑張れたところもある。真田くんが忙しい間、彼女たちがさんざん遊んでくれて、気も紛れたしね。
「まあ、いいじゃない。人の好みはそれぞれって事で」
私がすまして言うと、祥子はおかしそうに笑った。
「意外とがつきあい悪くなる事がなかったから私たちはいいけどさ。を好きだった先輩とかがね、どうせすぐ別れるからってタカをくくってたのにぜんぜんそんな気配がないから焦ってるよ」
「皆、ほんとひどいね。ひどいよ」
私がちょっと憤慨して言うと、二人はいつものように笑った。
ま、これもお約束。
放課後、私は予定通り卒業アルバムの委員の集まりに参加した。
写真を選んでレイアウトを決める作業だ。
プロのカメラマンの人が撮ってくれた写真も多いのだけれど、私たち写真部の撮った写真も結構採用されている。
今年の春、私が初めて真田くんとちゃんと口をきいた頃に撮った彼の写真もその一つだ。
懐かしいな、と私はその写真を眺める。
二年生の頃にはひどく真面目でおっかない優等生だ、としか思っていなかった真田くんが、面と向かうと私なんかに対してもやけに真摯に話をする人で、そして懸命にトレーニングする姿は本当にまっすぐで素敵なんだと、びっくりしたっけ。
そんな彼の全国大会決勝での試合の写真は、残念ながら一枚もない。
勿論私はばっちりカメラを携えて観に行ったのだけれど、まったく写真は撮れなかった。
だって、ファインダーを通して観ているなんて、もどかしいような試合だったから。
あの暑い夏の日、私はそれまでもとても好きだった真田くんを、もっと好きになった。
そんな事を思い出しながら、私は委員の皆とページ構成の話を続けた。
皆で、『これ、懐かしー!』なんて言っちゃってぜんぜん進まないんだけどね。
そんな楽しくも効率の悪い会議を終えて、私はテニス部の部室に向かって校庭を歩いた。
空を見上げるといかにも冬らしい寒気の波打った雲がゆっくり動いており、冷たい北風が私の襟元から侵入する。
あわててバッグからマフラーを出して首に巻いた。
ちなみに、うちの学校はマフラーも学校指定。変わってるでしょう?
何ソレって思っていて、私は去年までは使った事がなかったのだけれど今はちゃんとその指定のマフラーを使っている。だって指定外のを使うと多分、風紀委員長の真田くんがうるさいから。
なんていうのは建前で、指定のマフラーを使うと、まるで真田くんとオソロイみたいでちょっといいなあと思ったのだ。普通だったらきっと真田くん、女の子とペアの物なんて絶対身に付けないだろうから。それが、ペアマフラーですよ。ま、私もそういう性質じゃないけど、でもなんだかね、ちょっといいなあって思ったから。
そんな事を考えつつ部室に近づくと、丁度中から柳くんが出てきた。
私と目が合うと、あの穏やかな細い目でにこっと笑ってくれた。
「やあ、さん。弦一郎ならすぐに出てくる」
「うん、ありがとう」
柳くんは意外と私に親切だ。意外とって失礼かもしれないけど、ほら柳くんていつも成績良いし真面目だし、なんていうか『弦一郎、あんな女とつきあってはダメだ』とか言ってそう、というイメージがあったから。真田くんと待ち合わせていたりする私を見つけると、いつも親切に声をかけてくれて彼が来るまで話し相手になってくれたりする。
きっと真田くんとつきあうようにならなければ話す事もなかっただろうような子で、真田くん自身もそうなのだけれど、私のそれまでよく一緒にいる友達とはぜんぜん違うタイプでとても新鮮だった。
真田くんと一緒に過ごすようになって、私は本当にいろいろ新しいものを見たり感じたり、とても嬉しい。
そんな私はついにやにやしていたのか、柳くんがおかしそうに笑った。
「なんださん、今日もご機嫌だな?」
「ええ、そう? あいかわらず真田くんには叱られてばかりよ」
「いつも楽しそうじゃないか」
柳くんはからかうように言う。
そんな具合に話していると部室から、真田くんがマフラーを巻きながら出てきた。
彼を見つけると、私は大きく手を振った。
「じゃあ、また」
柳くんはくすっと笑って正門に向かってゆくのだった。
「委員会は終ったのか?」
真田くんはポケットから自転車の鍵を出して私を見た。
「うん、終って今来たとこよ」
「そうか、もう帰れるか」
彼が自転車置き場の方を顎で指すと、私は肯いた。
彼が跨った自転車のうしろに私も乗って、そして彼の背中に手をまわし手袋をした手をぎゅっと前で結ぶ。
そして真田くんがぐいぐいと力強く自転車をこいでゆくのだ。
雨が降らない限り、私たちはこうやって一緒に帰る。
冬の冷たい風も、真田くんの大きな背中にぎゅっと顔を押し当てていたらまるっきり私には無力なもので、私はずっとその暖かい背中に守られながら見慣れた景色を眺める。
「アルバム作成は大分すすんだのか?」
帰り道の途中の坂の上で一度自転車を止め、景色を見ながら真田くんは私に言った。
いつもここで休憩をして話をしてゆくのが習慣なのだ。
最近は、真田くんは私の家に寄って一緒に宿題をすませてゆく事が多くなったけれど、それでもこの習慣は変わらないまま。
「それがね、写真を見てるとみんなでワイワイ脱線しちゃってね、なかなか進まないのよ」
私はそこでいろんな事を真田くんに話す。彼はどんな話でもきちんと聞いてくれるのだ。
私が普段つきあう仲の良い友達は、ほんとうににぎやかでいつもふざけてばかりでノリが良くて、もちろんそんな彼らを私は大好きなのだけれど、真田くんのようにどんな事も真面目に真正面から受け止める人に私は初めて会ったと思う。そして、とても好きになった。彼の融通の利かなさだとか、厳しさやその真面目さを、クラスメイト達は恐れたり、時にはからかいの対象にしたりもするけれど、私は彼のそんな『逃げ』をつくらないまっすぐな強さが本当に好きだ。
私の話に楽しそうに相槌を打ってくれる彼を見ながら、私は時々ふっと考えるのだ。
そんなまっすぐに強い彼が、どうして私を好きになったのだろうな、と。
真田くんがどんな子なのかというと、前述のように私はいろいろとその素敵なところをあげられるのだけれど、じゃあ私はどんな女の子でどんなな風に真田くんから好かれるようなところがあるんだろうと考えると、さっぱり思い浮かばないのだ。
写真を撮るのが好きで、友達とライブハウスに行って騒いだりするのが好きで、あちこちにふらりと一人で景色を見に行くのが好きな、気まぐれな人間なのだという事くらいしか。
そう思うと、時々ふっと心細くなる。
その時、手袋をした私の手の上から真田くんの手がぎゅっと握られてきた。
「冷えてきたな、そろそろ行くか。……宿題は今日はどうする?」
「うん、今日も家でやっていかない? 物理、難しそうだったから、教えて欲しい」
私が言うと、彼は少し口元をゆるめて自転車のスタンドを外した。
坂を登ってきた時のように、また私は真田くんの背中にほっぺたをくっつけてどんどん下ってゆく。
私は誰で、どういう人間なのか?
賑やかで楽しい毎日の中で、ふっと考えてしまう事もあるけれど、こうやって真田くんの熱を感じていると私は確かにここに彼と一緒に存在しているのだと、心からほっとする。
私の家は真田くんの家への通り道で、いつもこうやって一緒に帰るものだから、彼が私の家に寄って行くようになるのは自然な事だった。
夏の暑い中、家の門の前で話していたら母親が『あらあらあら、そんな暑いところで話してないで、中で冷たいものでもおあがりなさいよ』と、彼を家の濡れ縁に上げて麦茶を出してくれたりしたのだ。真田くんはしっかりした男の子なので、それはそれは立派な自己紹介と挨拶をして、すんなりとうちの母親には気に入られていった。まあ、多分世間の中学生の親の大多数というのは、真田くんみたいな子を好きなものだと思う。
そしてこのところ真田くんは『も、うちに遊びに来るといい』などと言ってくれるのだけど、実はまだ行った事のないまま。二人で出かける途中に通りかかった事のある彼の家は私の家と似た古い日本家屋で、でもきっと中にいる家の人は我が家とはだいぶ芸風の違う人なんだろうなあと、なんだか気後れしてしまって。だって、私は真田くんと違って大人の人に気に入られるタイプじゃないからね……。真田くんが言うところのチャラチャラした服しか持ってないし。
「おじゃまいたします」
門のところに自転車を止めると、真田くんはいつもどおりの挨拶をしてうちの玄関を上がった。おじゃましますと言っても、この時間は母親は別棟でお茶の教室をやっているから聞こえないのだけれど。うちの母親は口うるさくはないけれどおしゃべりだから、いればいたで真田くんにヤイヤイいろいろ話し掛けてやかましくて、いないとちょっとほっとする。
キッチンからお茶を淹れて持っていって、私たちは私の自室で黙々と宿題をやるのだ。
なんといっても真田くんですからね。
それはもう黙々と真剣に。
「真田くん、この問題って、これで良いと思う?」
彼は大体私よりさっさと解いてゆくので、私はちょっと自信のないところを教えてもらう。勉強を教えてもらうとなると、真田くんは極めて面倒見がよくて丁寧で、ああそりゃあ副部長だなあっていう感じがするのだ。
「そうだな、それで合っている。も、大分物理に関して要領が良くなってきたな」
切原くんなんかはよく試験の成績が悪くて真田くんに叱られたりしているけれど、まあ私はこのところ結構真面目にやっているから幸い勉強の事ではそんなに叱られたりしないのだ。
そうやって、私よりも一足先に宿題を終えてしまう彼は、私が終るのをお茶を飲んだりしながら静かに待っていてくれる。
私が一通りすませると、『終ったか?』と、特に私の苦手な科目の部分をチェックしてくれて、一仕事終えたように『よし』とつぶやいてノートやテキストを鞄にしまう。
「ありがとう」
私がそう言って、帰り支度をする彼の前でぼうっとしていると、彼は鞄を置いて私の目をじっと見て、そしてそうっと私の髪に触れる。私を引き寄せるのではなくて、彼が私の方に身を寄せて唇を合わせる。
そう、私と真田くんは5月の彼の誕生日に初めてのキスをした。
そういう事に不慣れな私たちは、二回目のキスをするまでにまたしばらく時間がかかった。確か二回目のそれは、夏休みに入ってからだったと思う。
それから彼が私の家に寄るようになって、帰り際にこうやって口付けてゆくのが、このところの私たちのささやかな習慣。
真田くんの大きな手を頬に感じて抱きしめられて、そんな彼と熱い唇を合わせるのはとてもドキドキしてそれでいてほっとするような、私の大好きな瞬間だった。
けれど、その甘い時間を重ねる度、私は徐々に緊張を伴うようになってくる。
要するにそれ以上の事を、一体いつするようになるだろうか、という事なのだけれど。
つまり私たちはまだそれ以上の事は一切していなくて、キスをして身体を寄せ合うという、本当にそれだけなわけで。
いや、それはそれで私はまったく構わないのだけれど、私はそういう『さあ、Xデーはいつか!』みたいな妙な緊張感がとても苦手なのだ。
だからといって『真田くん、Xデーはいつですか。告知くだされば、それまではゆるりと気を抜いておきますし、日程がせまれば気を引き締めて臨むよう心積もりをいたします』というわけにもいかない。果たし状じゃないんだから。
そもそも真田くんにそういう気があるのかも定かではない。
私が自室で彼とキスをして緊張するというのは、15歳の男の子といったらそれ以上の事をしたくなるものだろうという極々一般的感覚に基づいての事だ。
彼からそういう要求があったとか、明確なサインがあったというわけではない。
何しろ真田くんだ。
我々にはそういった事はまだ早い! と確固たる信念を持っているのかもしれないし、私とキスはしても、厳格な彼は特にそれ以上の事には今のところ興味がないのかもしれない。私も正直なところ、これ以上に彼と深く触れ合ってゆくというその経験のした事のない部分に関してはいささか不安だし、彼がそれで良いのならこの優しくて暖かいふれあいだけを繰り返すのが一番安心する。
ただ……。
目を開けると、少し眉間に皺をよせた熱い目で、一旦唇を離す真田くんが見える。
彼は一度ため息をつくと、もう一度私に唇を重ねた。
彼の気持ちはよくわからないけれど、こういう時、確かに彼の渦巻く熱を感じるのだ。そんな熱を感じる度、私は、彼に熱く私を求める気持ちがあるといいと思う。自分でも矛盾した気持ちだとわかっているけれど。
それでも彼は、また大きく息をついて体を離し『では、そろそろ帰る。親御さんによろしく伝えておいてくれ』と、静かな凛とした目に戻って言うのだった。
本当は、するとかしないとかは、どうでもいい。
彼が私とこうして過ごす時、どんな気持ちでいるんだろうと、私はそれが知りたかった。
真田くんが私の手を取って立ち上がり、鞄を手にするのをじっと見つめる。
その時、ショルダーがずり落ちて鞄の中身が床に落ちてしまった。ファスナーが開いたままだったのだ。
「いかん、閉め忘れていたか」
ばさばさと散らばるテキスト類と共に、ゴトンと大きな音を立てて落ちるものがあった。
石である。
「真田くん、何コレ!」
私はその大きな石に驚いて叫んでしまった。
「これか? これは力石といって我が家に明治の時代から伝わるものだ。いろいろないわれがあるが、俺はトレーニングのために常に持ち歩いている」
彼はテキストを拾い集めて鞄に入れながらさらりと言う。
真田くんの鞄っていつもやけに重いなあと思ったら、こんなものを!
まったく、何を考えているかわからない子だ。
「ええ? これ、何キロくらいあるの?」
「そうだな、10キロとちょっとくらいか」
私はかがんでそれを持ち上げようとする。
「気をつけろ、には重いぞ」
すると真田くんもあわててかがんで、一緒に持ってくれた。
マジで重い。こんなのいつも持ち歩いてるなんて。
ほんと、真田くんが何を考えてるのか、一度真田くんになってその頭の中を見てみたいよ。
その『力石』を二人で持ち上げると、彼は鞄の蓋をあけてズドンとそれを底にしまった。
まったく、男の子の鞄から何が出てくるかと思ったら石って!
びっくりしたけれどなんだか真田くんらしくておかしくて、私はくっくっと笑いながら彼を門のところまで見送った。
庭のオリーブの木の傍を通ると、木の枝で休んでいたらしいヒヨドリがけたたましく鳴きながら飛んでゆく。
「それでは、また明日」
そのとてつもなく重い鞄を自転車の籠に放ると、彼は振り返って私に微笑んだ。
「うん、また明日ね」
私は思い切り手を振る。
脳天気な私は、『明日』にこうやって真田くんの姿を見上げる事はないのだと、その時は当然まだ知らなかった。
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2007.12.28