● ダンス(8)  ●

 翌朝、ホテルのレストランでコンチネンタルの朝食をとりながら、跡部くんは言った。
「エアーは夕方だから少し時間がある。どこか行きたいところはあるか? この辺りだったら何度も来ているから、案内してやれるが」
 こんな事、いっぱしの社会人の男の人だってなかなか言えないだろうにね、なんて思いながら私は優雅にゆで卵を剥く彼の指先を見た。
「ありがとう。できれば、昨日資料をもらったアグリツーリズモの土地の辺に行ってみたいな。ちょっと遠いかしら?」
「……いや、一番近い町だったらそれほど遠くもない。十分行って来れるだろう」
 彼はそう言うと、携帯電話を取り出した。
 兵藤さんに連絡を取るのだろう。
「あ、あのね、できれば電車とかに乗ってみたいんだけど」
 私はあわてて言った。
 彼は少し驚いた顔で私を見て、それから電話の通話ボタンを押した。


 食事の後、荷物を持ってロビーにいると、いつものようにシックなスーツを来た兵藤さんがやってきた。
 私たちに挨拶をすると、跡部くんにメモを渡す。
 何だろうと、ちょっと覗き込むと、それは電車とバスの時刻がきっちりと書き込まれたメモだった。
 そして兵藤さんはきびきびとフロントに行って、チェックアウトの手続きをすませる。
 この、いつも姿勢の良い兵藤さんという人は、果たして子供の行事につきあわされる窓際タイプの人なのか、それとも大事な景吾坊ちゃんの世話に選ばれた生え抜きのエリートなのか、どちらなんだろうと私は思ったりもしてたけど、多分後者なんだろうなあとその凛々しい後姿を見ていた。

「……はああいう奴が好みなのか?」

 するとふいに跡部くんが聞いてくる。
 跡部くんは突然に、こういう卑近な事を言ったりするから面白い。

「まあね。いかにも大人のエリートサラリーマンて感じで、好き。優しいし」

 私はそう言って笑った。
 跡部くんは自分で聞いておいてきながら、バカバカしいといった顔でメモをポケットにしまってそっぽを向いた。

 私たちは兵藤さんに駅まで送ってもらうと、荷物だけ車に預けて電車に乗った。
 跡部くんが手配してくれた車も勿論快適だったのだけど、私は電車やバスに乗るのが好き。そこで、その土地のいろんな人を見るのがとても好きだった。
 私たちを乗せた列車は、町中を抜け、車窓からの景色は少しずつ建物がまばらになってゆく。列車の中では家族連れや、学生、老人、様々な人たち。彼らは東洋人の二人連れの子供を見ると、ちょっと珍しそうにするけど優しく笑いかけてくれた。
私は窓の外を眺めながら、時折ちらりちらりと跡部くんを見る。
 彼は普段通りの調子なのだけれど、気のせいか、いつもよりのんびりした顔をしているような気がする。彼も、列車の旅が嫌いじゃないのかもしれない。


 目的の駅について、そしてバスに乗り、私たちは小さな田舎町に到着した。
 デ・マルチーノ学園がアグリツーリズモに使う町の一つだった。
 そこはこれといった観光の目玉があるわけではないけれど、静かで美しい町だ。
 古くて小さな教会、広い農家、小さなカフェやバー。
 遠くに見えるスイスとの国境のあたりの山は穏やかで美しくて、私たちはゆっくりとその牧歌的な町を歩いてゆく。
「……研修でこんなとこに来れるんだ。イタリアに来れる事になって、ほんとよかった」
 私が言うと、跡部くんはククッと笑った。
「お前、ほんとにイタリア好きなんだな」
「私? 好きっていうか……来た事なかったし……来てみたら、いいところだなって」
「……こっちに来てから、随分と楽しそうだからな」
「そう? 確かに楽しいけど、私、学校でもいつも楽しいよ」
「……学校で俺と話す時はいつも仏頂面じゃねーか」
 私は言われてみて、ふと思い返す。
 そういえば、委員会のメンバーで皆で過ごす時と違って、跡部くんと二人でいる時、私はあまり笑ってなかったかもしれない。
「……そうかなー。そんなつもりはないんだけど」
「いつも、そんな風に笑ってりゃいいのに」
 私は、学校で跡部くんといる時の、何か身構えたような自分の気持ちを思い出した。
 跡部くんといると何かしら皆から言われたりするのが嫌で、バカみたいに身構えてた。まるで子供だ。そう、私は今でもまだまだぜんぜん子供なんだ。
 私は急に恥ずかしくなって、歩く速度を速める。
 パーティの時、何でもお見通しのようだった跡部くんは、今のこんな私の気分もお見通しなのかもしれない。

 町を抜けて少し歩くと、アグリツーリズモで宿泊する施設のある農場があるはずだった。
 私たちは町のカフェでパニーニと飲み物を買うと、黙々と歩き始めた。
「まったく、車で来りゃすぐなのに」
 彼は暑くなって来たと見えてジャケットを脱いで肩にかけると、冗談めかして言った。
「いいじゃない、歩くの好きだわ。跡部くんだってスポーツマンなんだから、ぜんぜん平気でしょ」
 そんな事を言い合いながら歩いていると、町の外れから広い農場が開けて見えた。
 大きくて古い石造りの建物がいくつも建っていて、美しい花が植えられている。
 私たちはしばらくだまってその景色を眺めていた。
 そして道端の木陰にある木製のベンチに座った。
今日は気温が高くて、空にはふんわりとした夏みたいな雲が浮かんでいる。
 初めて来たところなのに、懐かしいような、ほっとするような、そんな気持ちになった。
 私たちはそのまま紙袋の中のパニーニを食べ始める。
「……イタリアに来て、こんなにパニーニばかり食うのは初めてだぜ」
 跡部くんはおかしそうに言った。
「ま、嫌いじゃねーけどな」
 私は今度はボリューム控えめにしたパニーニを食べながら、そんな彼を見た。

 パーティで出会った王子様は、思っていたより口が悪くて、王子様というよりえらそうな王様だという事を私は今では知っている。
 それでも私の胸の中には、あの時彼にどきどきして夢中になった自分がまだ住んでいると気づいた。
 そして今の私は、彼が王子様や王様なだけではない事も知っている。
 彼は、私の知らない世界へ冒険に連れ出す悪ガキ、ハックルベリー・フィンでもあるのだ。今の私は、彼の悪ガキっぷりにかなりやられてしまっている。

「……何だ?」
 私の視線をとらえて、彼は言った。
 私は何を言ったら良いのか、わからない。
 そうだ、私は……パーティでダンスの約束を守らずに途中で帰った事、まだ彼に謝っていなかった。何度も言おうと思いながら、もう二年以上も経ってしまった。
 彼はあの時の事を、覚えているだろうか。
「あのね……」
 何て切り出せば良いのかわからないけれど、一言私はつぶやく。
 彼はじっと私を見て、私の次の言葉を待っていた。
 その時。
 私たちの背後で、何やら騒ぎが聞こえてきた。
 驚いて振り返ると、私たちと同じくらいかもう少し年かさの少年達がワイワイと騒いでいる。
「……どうしたのかしら?」
 私が不思議そうに言うと、跡部くんは立ち上がった。
「……そこの井戸に、誰か落ちたらしい」
 彼は言って、私にジャケットを預けると少年達の方へ向かった。
「井戸に!? 大変じゃないの!」
 私は思わず叫んで、跡部くんのジャケットを握り締める。
 跡部くんは少年達と何か話している。
 私はイタリア語もわからないし、何もできなくて木陰でオロオロしているだけ。
 少年達はどんどん集まってきて、でも何を言っているのかわからなくて。
 跡部くんは少しばかり背の高い少年と何か話して、町のほうを指差している。多分、誰か大人を呼んで来いと言ってるのだろうと思うけど、私も確かに早く大人の人を呼んできたらいいのにと、はらはらしながら騒ぎを見守っていた。
 
 すると。

 私のいた木陰の近くの小柄な少年が、さっと私に近づいてきた。
 私がふとそちらを見ると、彼はあっという間に私が持っていた跡部くんのジャケットと私の小さなバッグを奪い取って走り出したのだ。
 私が『あっ』、と声を出すと、彼はいつのまにか道に止まっていたバイクの後部座席に乗り、そのバイクはすばやく走り出してどんどん小さくなる。
 同時に、騒いでいた少年達は蜘蛛の子を散らすように走っていなくなってしまっていた。
 ほんの一瞬の出来事で、残されたのは、あっけに取られた顔をしてるだろう私と、思い切り眉間にしわを寄せた跡部くんの二人だけ。

「……やられたな。ジャケットに金も電話も入ってる」

 跡部くんは眉をひそめたまま、髪をかき上げて言った。
「……私もお金はバッグに……」
「パスポートは?」
「あ、それは車に預けてあるけど」
「俺もだ。不幸中の幸いだな」
 さすがに跡部くんはため息をついた。
「……ごめんなさい、私、ぼーっとしてた」
「……仕方ねえ。俺様があんなありふれた手にひっかかるなんざ……」
 彼は悔しそうに舌打ちをして言って、腕時計を見た。
「それより、どうやって空港に戻るかだ。電話をかける金さえないし、今から車で迎えに来てもらったとしてもチェックインの時間にぎりぎり間に合うかどうか……」
 彼は考えをめぐらすように空を見上げた。
「最悪、エアーを取り直すか、だな」
 私は自分の不注意さを呪った。
 跡部くんは、きっと何とかしてくれるだろう。でも、私はそんな風に跡部くんに頼りたいんじゃなくて……。
 私も必死で何か手を考えようとしていると、私たちの背後の道を農家の方から大きなピックアップトラックが砂煙を上げてやってくるのが見えた。
 私はそれを見ると、夢中で道に出て手を振った。
「おい、あぶねーぞ!」
 跡部くんがあわてて私に叫ぶけれど、私は手を振りつづける。
 ピックアップトラックは私の姿を確認したためか、徐々にスピードを落として私の目の前で停車する。
 運転席からは白いひげのおじいさんが不思議そうに顔を出した。
 私はまったくどうしようもない片言のイタリア語を組み合わせて、お金を盗まれてしまった事、急いで空港に行かなければならない事を説明し、なんとか最寄の町の警察まで乗せてもらえないかと彼に言った。
 助手席からはおばあさんが心配そうに見ている。
 すると、背後からきれいなイタリア語が聞こえた。
 跡部くんだった。
 跡部くんが丁寧に、運転席のおじいさんに話をしてくれた。
 しばらく話をすると、おじいさんとおばあさんは柔らかく微笑む。
 そして、跡部くんは『グラッツェ・ミッレ(どうもありがとう)』と言うとひらりとトラックの荷台に飛び乗った。
 荷台から私に向かって手を差し伸べる。
「リアのタイヤに足を乗せて上るんだよ。早くしろ」
 私は言われた通りよじ登ると、跡部くんにひっぱられてトラックの荷台に乗り込んだ。
 初めて触れる跡部くんの手はとても大きくて、力強くて。
 二年前、パーティのラストダンスでこうやって手を取り合うはずだった私たちが、今になってトラックの荷台で手を握り合うなんて皮肉なものだ。
 私たちが乗り込むのを確認すると、トラックは大きな音を立てて発進した。
 跡部くんのセダンとはまるで違う乗り心地だけれど、なんとも力強くて私はほっとする。
「……なんて言ってくれたの?」
 私はゴツゴツとした荷台になんとか腰の落ち着くところを探しながら彼に尋ねる。
「デ・マルチーノの見学に来た日本の学生だと自己紹介した。あっちから来た車だ、毎年うちの三年がアグリツーリズモで泊まってる農家に違いないだろう? すぐに了解して、助けてくれる事になった」
 跡部くんは風で乱れる髪をおさえながら、なんでもないように言った。
「……ああそうか! 先輩たちがお世話になった事のある宿舎の方なのね!」
「……なんだ、お前、そんな事もわからずこの車を止めたのか?」
 彼はバカにしたような顔で私を見る。
「まあいい。お前のおかげで助かったぜ」
 彼はそう言って笑うと、荷台のスコップやレンチを隅に追いやって腰を落ち着けた。
 助手席からおばあさんが顔を出して、跡部くんに何か言う。
「……何て?」
「ケツ、痛くねぇか? だと」
 跡部くんは笑いながら私を見て、荷台に置いてあった麦藁帽子を被ってみせる。
 それはまさに、洗練されたハックルベリー・フィンといった様。
 トラックの荷台にいても跡部くんは優雅で、そのミスマッチな様に、私もなんだか笑ってしまった。

 丁度ミラノに出る用事があったというその農家の夫婦は、私たちを空港まで送ってくれた。私は正直なところ、お尻が痛くて仕方がなかったけれど、なんとも嬉しくてほっとして胸をなでおろした。
 トラックでやってきた私たちを見て、さすがに兵藤さんは驚いて飛んで来た。
 跡部くんが、ご夫婦にお礼をと言ったけれど、彼らは受け取らなかった。
『私たちの国に来た子供が困っているのなら、助けるのが当然の事だから』と。
 私は片言のイタリア語でお礼を言って、ご夫婦と握手をした。
 研修旅行では是非お世話になりに伺います、と跡部くんに伝えてもらうと、二人は嬉しそうに笑った。

 私たちは兵藤さんから荷物を受け取ると、チェックインカウンターに滑り込む。
「兵藤さん、お世話になりました」
 ゲートに入る前に私が言うと、兵藤さんはいつもの端正な笑顔を見せてくれた。
「景吾さん、お気をつけて。さんもまた、いつでもイタリアにおいでの際はお声をかけてください」
 映画かドラマに出てくるような台詞を言って、彼は私たちに手を振った。
 こうして、私のあっというまのイタリア滞在は終了した。


 飛行機に乗って、私は時計を日本時間に合わせなおした。
 日本に到着したら昼になるから、機内でしっかり寝ておいた方がジェットラグを予防できると跡部くんは教えてくれた。
 私は恒例の機内食を食べると、洗面を済ませていそいそと眠る準備をした。
 洗面所から帰ってくると、跡部くんはまだシートを倒していない。
 彼の事だからもうすっかり寝に入ってるだろうと思ったのに、少々意外だった。
「……まだ寝ないの?」
「ああ、もう寝る。……そういえば、お前が、あそこで何を言いかけたのかと思ってな」
 彼はいつもそうやるように、左手を眉間のあたりに掲げて私を見て、言った。
「んん、何って……?」
 私は記憶をたどる。
 そういえば、あの井戸の騒ぎの前。
 パーティの時の事を、今更彼に何て謝ろうと頭を悩ませてたのだった。
 ほんの一言なのに。
 こんなにずっと一緒に過ごしているのに。
 私はどうしても、なかなか言い出せない。
 私の腕時計は日本時間に戻った。
 それと共に、いつも学校で跡部くんと顔を合わせる時の、少し身構えてしまうようなそんな気持ちがよみがえる。
 イタリアの太陽の下では、あんなに素直に、ただただ彼を素敵な男の子だと思ってたのに。
 日本ではやっぱり彼は、氷帝学園の生徒会長で、テニス部の部長で、大金持ちで、女の子達に抜群に人気のある跡部景吾なのだ。
「……ごめん、何を言おうとしてたのか、忘れちゃった」
 私がそう言うと、彼はフンと鼻を鳴らしてシートを倒し、目を閉じた。

Next

2007.6.24

-Powered by HTML DWARF-