●● ダンス(9) ●●
空港に到着すると、跡部くんの「マイバッハ」が迎えに来ていて、私の自宅まで送ってくれた。
「跡部くん!」
家の前で車から降りる瞬間に、私は急いで言った。
「あの、ばたばたしていてなかなかお礼が言えなかったんだけど、今回、私をイタリアに行かせてくれて本当にありがとう。カスタルディ先生と話せてよかったし、研修旅行もイタリアに決まりそうで、本当によかった。私はあの学校がとても好きになったし、イタリアもイタリアの人もすごく好きになったわ。……跡部くんのおかげよ」
降りる間際になってあわてて言う私に、跡部くんは一瞬驚いた顔をする。
でもすぐにいつものクールな表情になって、クッと笑った。
「……今度はもう少しイタリア語を勉強しとくんだな」
そう言うと、優雅に手を上げた。
そんな彼らしい一言に、私も笑って手を振って別れた。
家に帰ると、私はまず湯船に浸かって、そしてまた寝て。
残った休みは必死に宿題をやる事とイタリアの件の報告書を作成する事に追われて、当然あっという間に学校が始まった。
委員会顧問の先生に提出する報告書を持って登校していると、校舎に入る前に誰かが背中をポンとたたく。
振り返ると、部活を終えたばかりと思しき忍足くんだった。
「あ、おはよう」
私がいつものように挨拶をすると、彼はやけに神妙な顔をしている。
「なあ、。お前、連休中、跡部とイタリア行っとったんやて?」
彼の言葉に、私は思わず息を飲んで足を止める。
「ついにも跡部の毒牙にかかってもうたんかと、おっちゃん、朝からブルーなんよ」
彼は冗談とも本気とも取れない調子で続けた。
「……跡部くんが言ってたの?」
「ちゃうちゃう、なんか女子が噂しとった」
私はため息をつく。まあ、確かに先生には通してある話だし、どこからか伝わってしまうものなのだろう。
「……研修旅行の下見でね、急に行く事になったのよ。プライベートじゃないから」
私は冷静なふりをして言った。
「ま、せやろけど。しかし二人でイタリアやろ? しばらくヤイヤイ言われるで」
彼はからかうふりをして、結局のところ忠告に来てくれたのだ。
「だろうね。どうしたらいいと思う、忍足くん?」
私は別段、本当に意見を求めてるという風でもなく、軽い調子で彼に言った。
「せやなあ、は俺と付き合うてるて事にするか。それか、開き直ってマジで跡部の女なんや言うか、どっちかやな」
彼はクククと笑いながら言う。
「だったら、私は向日くんがいいな、楽しそうだし可愛らしいから。忍足くん、彼と仲いいんでしょ、頼んでみてよ」
「アホか、身長158センチ以上の女はな、岳人のスカウターには捕捉されへんねん」
私たちはそんな感じでふざけながら教室に向かった。
私たちの軽口は長くは続かなかった。
教室に入ると、いつものように跡部くんはもう教室に来ていて、そして彼の周りの女の子たちの私に対する視線は普段以上に強烈だった。
忍足くんは私に気遣って一緒に教室に来てくれたのだと思うけれど、彼もそれなりに女の子に人気があるものだから、ある意味逆効果でもあったようで。
私は跡部くんに挨拶することもできず、自分の席に着いた。
そして大きなため息をつく。
今日一日は、ちょっと面倒くさい日になるだろう。
私が予測したそのままに、研修旅行の下見に私が跡部くんと二人でイタリアに行っていたという話はすっかり学校中にひろまっていて、この連休明けの一日目はなんとも過ごしにくい日になった。
親しい友人達は現金なもので、「黙って行く事ないじゃない」なんて言いつつも、私がお土産のアナ・スイのコスメを渡して、トラックに乗った土産話なんかをしたら、すっかり機嫌を直してくれたのだけれど。
報告書を先生に渡して目を通してもらうと、カスタルディ氏からも連絡があったらしく、今年の夏の研修旅行はデ・マルチーノに正式に決定するだろうという事だった。
私はほっとして、そしてなんともいえない達成感が胸にわいてきた。
どんな事があっても、何を言われても。
これが一番嬉しい。
授業が終って、友達と待ち合わせるために私は交友棟のサロンで一人文庫本を広げていた。
実はその内容はほとんど頭に入ってこない。
私の頭の中は、まだイタリアの空や、跡部くんで一杯だ。
私は大きくため息をついた。
分かっていた。
私は初めて会った時から、ずっと跡部くんが好きだった。
あの時のパーティでダンスの約束を果たせなかった事をなかなか彼に謝らなかったのは、私にとっての「執行猶予」だったのだ。
きっと私が彼に一言謝れば、『ああ、別に構わない』そんな一言を返されて終っていただろう。
でも、私が何も言わないまま宙ぶらりんにしておけば、あの頃の私は胸の中でまだ彼がダンスに誘ってくれるのを待っていられる。
あの頃のまだ小さな私に待ちぼうけをさせて二年とちょっと。
そんな風にすごしてきた。
もっと早くに彼に一言お詫びをして、さっさと小さな私を解放してあげればよかったのか? それはわからない。
わからないけれど、もうここまで来たのだから、小さな私が溶けていなくなるまで、そっとしておきたい。
なのに、周りはいつも騒がしい。
どうしたらいいんだろうね?
私は膝に置いた自分の手元を見た。
そういえば、今日のスカートはあのパーティで着ていたものだ。
私はあれから随分背が伸びて、いろんな服も着慣れて、当時の自分にはまだ大人っぽすぎてなんだかぎこちなかったこの服も、すっかり普段着に着れるようになった。なのに中身はあんまり変わってないんだなと改めて気付かされて、苦笑いをする。
その時、サロンが若干騒がしくなるのを感じた。
私がふと顔を上げると、目の前に跡部くんが立っている。
私は驚いて何を言ったらいいのかわからず、黙って彼を見上げていた。
彼はゆっくりと私のテーブルの向かいに腰掛けた。
「……報告書、先生に出しておいたわ。まず間違いなく、デ・マルチーノに正式に決定するだろうって。どうもありがとうね」
私がそう言うと、跡部くんは右手で前髪をかき上げてため息をついた。
「……お前は忘れっぽいのか、相当に強情なのか?」
ちょっと眉間にしわをよせて言う彼の言葉の意味がわからなくて、私はしばらく馬鹿みたいに彼をじっと見ていた。
「……二年前にダンスの約束をすっぽかした言い訳を、一体いつになったら俺様に言いに来るつもりなんだ」
私の手元から文庫本がぱさりと落ちる。
「……あ……」
私は思わず手で口元を押さえた。彼はじっと私を見たまま。
「あの……ごめんなさい。あの時、パーティの途中で母親が迎えに来て、急用で帰らないといけなくなっちゃったの。謝ろうと思って跡部くんを探したけど、あの時なかなか見つけられなくて……」
私は二年前に言うべきだった事を、ようやく口にした。
「バーカ、そんな事は分かってる。重要なのは、お前がそれを俺に伝えに来る事なんだ。中等部に入ってから、どれだけ待ったと思う。……あんなに俺様と話したくて、踊りたくて仕方なかったクセに」
彼はいつものように左手を額にかかげると、にやっと笑った。
私はそんな彼を、目を丸くして見つめる。
小さな私の気持ちを、跡部くんはきっとわかっていた。
それは私は覚悟の上だったけれど、まさか今更それを突きつけられるとは思わなくて、少々戸惑ってしまう。
じゃあ、どうしたらいいの、跡部くん。
私が泣きそうな気持ちで心の中でつぶやいていると、彼は立ち上がって右手をパチンと鳴らした。
「樺地」
跡部くんがそう言うと、彼の背後で控えていた大柄な二年生の子がすっとやってきて、そして私たちの前の大きなテーブルを持ち上げるとサロンの隅に押しやった。
「え……、ちょっと……!」
私が驚いて見ていると、跡部くんは樺地くんにクイッと顎で指示をする。
「ウス」
彼は低い声で返事をすると、サロンの奥のピアノの前に座った。
そしてその大きな手で、優しいワルツを奏ではじめるのだ。
「約束してから二年とはだいぶかかったものだが、まあいい。その服も、今の方が似合ってるしな」
彼はそう言うと、私に手を差し出した。
「お前のダンスは、俺のものだろう?」
私はゆっくり彼の手を取って立ち上がった。
跡部くんの手は、ピックアップトラックに引き上げてくれた時と違い、ふんわりと私を包む。
私が戸惑いながらも立ち上がると、跡部くんは樺地くんのピアノに合わせ、実に優雅に私をクルクルとまわしてゆくのだった。
「……何か言えよ、あーん?」
私を抱き寄せ、クルクルと回しながら得意げに言う彼に向かって、私はそっと耳元に顔を寄せ、ささやいた。
「……私、跡部くんが好きだわ」
それは、まず私が言いそうにないセリフで、そして彼も予測しなかった反応だったようで、この一撃はシチリアオレンジやリモーネの酸味よりも強烈に効いた。
跡部くんは驚いた顔で私を見て、照れくさそうに一瞬目をそらす。
「バーカ、そんな事わかってる」
そんな彼の反応に私は満足して、くすっと笑った。
彼は王子様で、王様で、そしてなにより、ハックルベリー・フィンのような悪ガキだ。
だって、こんな学校のサロンでテーブルを放り出して、大勢の前でクルクル踊るなんて馬鹿げた事、悪ガキの企みとしか思えない。
私は、そんな事をしでかす悪ガキに夢中なのだ。
もうすぐ夏が来る。
次は二人でどんな冒険をしようか?
ねえ、跡部くん。
(了)
「ダンス」
2007.6.25
