● ダンス(7)  ●

 私たちを乗せたセダンは、町中を抜けスイス国境近くのデ・マルチーノ学園へ向かった。
 自然がたっぷりの静かな町の中に、その学校はあった。
 車で学校の敷地内に入り、石造りの建物に足を踏み入れると笑顔で迎えてくれる人がいた。
「日本からいらした方ですね、どうぞこちらへ」
 茶色の髪の優しい笑顔のその女性は、私と跡部くんを案内してくれた。
「私はミカエラ・ファジオーリといいます、今日、あなた方をご案内する役目なの。今、理事長は会議中だから、まず私と学内を見て回りましょう」
 彼女はゆっくりとした英語で私たちに説明をしてくれる。
 私たちもあわてて自己紹介をした。
 ミカエラはベテランの美人教師で、とてもてきぱきと私たちを案内してくれた。彼女と一緒に学内を回っていると、学園の生徒たちは興味津々といった様子で私たちを見て、隙を見ては話し掛けてきた。
 一年生らしい小柄な男の子が『僕、ドラゴンボール、好き』なんてゆっくりした英語で話し掛けてきて、思わず笑ってしまう。
 氷帝と同じく歴史の古いこの学校には様々な古い資料や、町の歴史にちなんだ碑なんかもあって、ミカエラの説明が非常に的確だった事もあり私の興味は尽きなかった。
「あっちが資料館なのだけど、今改修中なの」
 ミカエラはそう言って、広い学園内の改修中の部分を申し訳なさそうに示した。
 次には会議室のようなところへ連れて行かれ、いくつかのファイルを見せてくれる。
「これがね、うちの学校と提携してるアグリツーリズモの農場で、生徒達が行った時の写真よ。氷帝の生徒さんが来られる時も、いつもここにお世話になるわ」
 そう、この学校への研修旅行の目玉の一つにアグリツーリズモがある。
 つまりは農場体験のようなものだ。
 私もそうだけど、多くの生徒はそれをとても楽しみにしていた。
 写真を見ると、ここの生徒たちもとても楽しそうに農家で過ごしている様子が伺える。
 はっと顔を上げると、跡部くんも興味深そうに写真を見ていた。
「……研修旅行、皆でここに来れるといいな」
 彼は私と目が合うと、笑ってそう言った。
 珍しく素直でストレートなその言葉は、まるで不意打ちのようで私の心にするりと入ってきた。


 一通り案内されてから、私たちは理事長室に向かう。
 事前の資料の通り、改修中なのは資料館と宿舎。資料館は確かにこの学校の重要な部分で、見学ができないというのはかなり痛手になるかもしれない。
 そんな事を考えている私を部屋で迎え入れてくれたのは、恰幅のよい初老の紳士だった。
「ようこそ、景吾に。遠いところからよく来てくれたね」
 理事長のカスタルディ氏は顔をしわくちゃにして笑うと私たちの手をぎゅっと握ってくれた。私はその太陽のような笑顔にしばし圧倒されてしまう。
「うちの学校はどうだったかね。大事な資料館が工事中で入れず、研修先としてどうなのか少々自信がないのだが」
 カスタルディ氏は少し膝を折り、私を覗き込むようにして言った。
 私は急に緊張してくる。
 この時のために、私はイタリアまでやってきたのだ。
 そんな責任感が急にのしかかってきたから。
 私は助けを求めるように跡部くんの顔を見た。
 彼は私と目を合わせて、でも口を開く様子はない。
 そう、わかってる。
 これは私の役目だから。
 私は深呼吸をして、ゆっくり話し始めた。
 
 私はこの学校と生徒と先生がとても好きになったという事。
 この町と学校の歴史はとても興味深く、きっと皆勉強になるだろうという事。
 姉妹校の中で、これだけ自然に恵まれたところに立地している学校はここだけなので研修旅行先としてとても貴重であるという事。
 生徒たちが特にアグリツーリズモを楽しみにしているという事。

 つまりは、とにかくこの学校に研修旅行に来たいのだという事を私は必死で説明した。
 緊張のあまり、上手く言葉が出てこなかったり何度も言い直したり、途中で泣きそうな気持ちになる。
 こんな風に大人の世界でちゃんとした交渉事をするなんて、日本でだって今までやった事がない。
 こんな風な説明で、ちゃんと交渉になっているのだろうか。
 私は自分の言える事を全て言い尽くして、ふうっと息をついた。
 恥ずかしくて跡部くんを振り返る事ができない。

 私が話し終えると、カスタルディ氏は大きくうなずいて、ちょっと待ってと言い、デスクの受話器を取った。
 そして電話でしばらく何か話をする。内容はイタリア語だからわからない。
 電話を終えると、カスタルディ氏は私たちの方を振り返る。

、うちの学校を好きになってくれてありがとう。どんなにここへ研修に来たいと思っているのか、よくわかったよ。正直、今年は断ろうかと思っていたけれど、君たちみたいなしっかりした生徒がわざわざ来て、そして希望を述べてくれるなら、是非来てもらいたいよ。今、施工業者に確認をして、確実に夏前に工事を終らせるよう確約を取った。安心していらっしゃい」
 彼はそう言うと、またあの太陽のような笑顔でそして、私を優しくハグする。
「景吾、きみのようなしっかりした生徒が代表者でこういった場を設けてくれて感謝するよ。これからも氷帝の生徒の代表として、頑張っていってくれ」
 そして、跡部くんに言うと彼にも力強いハグをした。
 跡部くんは、当然だというように、それでも嬉しそうにカスタルディ氏を見て、微笑んだ。

 私たちはミカエラとカスタルディ氏に見送られ、兵藤さんがまわしてくれたセダンでデ・マルチーノ学園を後にした。
 少々名残惜しかったけれど、また夏に来れるんだと思うとわくわくする。
 校庭からは、生徒たちが手を振ってくれていた。
「いかがでしたか、景吾さん」
 兵藤さんが助手席から振り返って尋ねる。
「ああ、上々だ」
 跡部くんは何でもないように答えた。
 私はまだ緊張と嬉しさで胸がどきどきしているのに、やっぱり跡部くんは違うねえ、なんて思っていると彼はふと私の顔を見た。
「しっかりやったじゃねぇか、委員長。よかったな」
 そして不意にそんな事を言うものだから、私は急に照れくさくなってしまい、フイと窓の外に顔を向けてしまった。
『ありがとう』って言おうと思っていたところだったのに。


 ホテルに戻って、正真正銘の安堵のため息をつき、私は楽なワンピースに着替えた。
 明日の夕方には飛行機に乗って帰国する。
 まったく、遠足の下見に鎌倉行くのも、イタリア行くのも、跡部くんには本当に同じなんだなあとくっくっとおかしくなる。
 その時、私の部屋の扉がノックされた。

「晩飯、どうする。特に希望がないなら、行き着けの店に予約をしておくが」

 来訪者は当然跡部くんで、携帯電話を片手にいつもの優雅なポーズを取っていた。
 私はふと、今朝跡部くんが実に美味しそうに食べていたものを思い出した。
「そうね、朝、跡部くんが食べてたの。パニーニだっけ? あれが食べたいなあ。すっごく美味しそうに食べてたじゃない」
「はあ? パニーニ?」
 跡部くんは拍子抜けしたような顔で私に聞き返した。


 私たちはホテルを出て、近くのにぎやかなトラットリアに行った。
 パニーニというのは、まあイタリア風サンドイッチといった感じで、ちょっと堅めのパンに肉や野菜なんかをはさんだもの。
 カウンターから、中に入れる具をあれこれ指定して好きなものをはさんで作ってもらえる。
 私はわくわくしながら、ガラスケースの向こうを指差して、あれとこれと、と欲張っていろんなものをはさんで飛び切りボリュームのあるパニーニを作ってもらった。
「入れすぎだよ、バーカ」
 跡部くんはそう言うと、自分のはまた肉と野菜とチーズで、それでもちゃっかり二つ頼んでいた。
 私たちは外のテーブルでそれぞれのパニーニにかぶりつく。
 自分でもある程度予測はしていたけれど、私のパニーニは具を入れすぎたため、うまくかじれなくて野菜がぽろぽろとこぼれてしまった。
「だから入れすぎだって言ったじゃねーか」
 跡部くんは呆れたように言うけれど、それでもこの欲張りパニーニは最高に美味しくて、私は彼のそんな憎まれ口も気にすることなく、ばくばくと食べてレモネードを飲んだ。
 二つ目のパニーニを食べにかかる跡部くんを見て、私はふと彼に尋ねた。
「……跡部くんは日本で友達や彼女とハンバーガー屋なんかに行ったりする事ある?」
「俺様がそんなもん食うわけねーだろ。バーカ」
 彼は当然のように答えた。
 そうだろうねえ、と私はつぶやきながら、なるほどだから彼のこんな様子が珍しくて、今朝は微笑ましい気分になったんだなあと納得した。
 私たちはパニーニを食べ終えると、当然ジェラード屋に向かった。
 イタリアでジェラードなんてベタねえなんて思ったけれど、町中では本当に皆いい年した男の人とかおじいちゃんなんかでも、美味しそうにジェラードを食べているのだ。そりゃあ、女子中学生が食べないわけにいかない。
 店では色とりどりのジェラードが置いてあって、当然私はとても悩むのだけれど、ふわりと鼻腔をついたレモンのさわやかな香りが印象深くてレモンのジェラードを選んだ。
「ウノ リモーネ ペルファボーレ(レモンのやつ一個ください)」
 と、怪しい感じの片言のイタリア語で言ってると、跡部くんがクックッと隣で笑う。
「バカだな、旨いのはこっちだ」
 彼は何やら真っ赤な色をしたジェラードを指定して注文していた。

 テーブルについて早速食べると、甘酸っぱい新鮮なレモンの味のするジェラードは本当に美味しかった。しかし、跡部くんが自信たっぷりに注文していた赤いのもどうも気になる。私がちらちらと彼の手元を見ていると、彼はクククと笑いながら、ひょいとそれを私の前に差し出した。
「ちょっと食ってみろよ」
 私は待ってましたとばかりに、スプーンですくって口の中に入れる。
 わ、と声を出しそうになった。
 真っ赤な色のそれは、スイカでもイチゴでもなく、なんとも鮮烈な味のオレンジだった。
「シチリアオレンジだ。旨いだろ」
 悔しいけど、レモンのよりも格段に美味しかった。
 私は悔しさのあまり、黙ってうなずいて自分のレモンジェラードを食べつづける。
 彼はおかしそうにクククとまた笑った。
「食えよ。取り替えてやるから」
 そう言うと、赤いジェラードを私の前に置いて、私の手からレモンのカップを取り上げた。
「いいの?」
「ああ、俺はリモーネも嫌いじゃない」
 私はお言葉に甘えさせていただき、赤いシチリアオレンジのジェラードを堪能した。
 甘ったるしくなくて程よい酸味のあるその味は私には初めての経験で、本当に美味しかった。さすが跡部くん、食べ物にうるさいだけあって、美味しいものをよく知っている。
「……跡部くん、そりゃあ女の子にモテるはずだね」
 美味しいものをもらったら現金なもので、私は本当に素直にそんな言葉が出てきた。
 彼は心外というように鼻を鳴らす。
「あーん? 俺様がいつもこんな青くせぇ事ばかりしてるわけねーだろ、バーカ」
 私はなんだかおかしくて、くすくす笑った。
 何だろう。
 跡部くんは、学校にいても、パーティにいても、イタリアに来ても。
 どこででも同じだ。
 どこででも、同じように自信たっぷりで、自分の思うようにしていて。
 同じなのに、こんな日本から遠く離れたところでいる彼を見ていると、日常からかけ離れた状況なのに私はとても落ち着くし、とても素直に、彼を素敵な男の子なんだなあと改めて感じる事ができる。普段学校では、いろんな人の目やなんかがあって、どうにも素直に彼の良いところに惹かれたりし難いのだ。
 初めてパーティで会った時のように、ストレート一発で魅力的だと感じたら良いだけの事なのに。まったくちょっと歳を重ねると、いろいろとうまくいかない。
 けれど、目の前でジェラードを食べる跡部くんが、最高に素敵な男の子だという事だけは今、確実に言える事だった。

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2007.6.23

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