● ダンス(6)  ●

 周囲の物音と、機内の照明が灯された気配で、私ははっと目覚めた。
 隣では跡部くんが既に起きて新聞を読んでいる。
 私はあわててシートを起こして彼に、おはよう、と言うと洗面所に顔を洗いに行く。フライトアテンダントはすでに朝食の準備をしていた。

「……もう朝ご飯出てくるみたいよ」
 
 私が席に戻って言うと、跡部くんは興味なさそうな顔をしながら新聞をたたんだ。
「まったく飛行機に乗ると、ブロイラーみたいに飯を食わされてばかりだな」
 彼の言葉を聞いて、私は思わず吹き出してしまった。
「……何がおかしい?」
 彼は不服そうに眉をひそめる。
「ごめん、うちの父親がまったく同じ事言ってたからね、おかしくて。だって、同級生の男の子ってみんなよく食べるし、機内食たいらげてお代わりって言うくらいだと思うから」
 私はくっくっと笑う。
「バーカ」
 彼はいつものクールな表情で、それだけ言った。

 朝食を終えると(跡部くんは、やはり水とフルーツとチーズだけ。ダイエット中の女子みたい)、飛行機はそろそろ高度を落とし始めた。
 私は目の前の液晶画面を操作して、現地時間を確認すると時計を合わせる。
 そういえば、もうサマータイムなんだ。
 少し、どきどきしてきた。
 ついにイタリアまで来た。
 跡部くんに言われて強引に、というのがきっかけだけれど、この限られた時間の中で精一杯の事をやって帰りたい。
 私は深呼吸をして、そしてカチリとシートベルトを締めた。

 ミラノ・マルペンサ空港のアライバルゲートに着くと、私たちをめがけて迷わず歩み寄ってくる人がいた。ダークな色のスーツにメタルフレームの眼鏡をかけた長身の男の人。
「景吾さん、ご無事の到着何よりです」
 静かな声で慇懃に言う。
 そして私を見ると、穏やかに笑って目礼をした。
さんですね。兵藤といいます」
 私もあわてて自己紹介をした。
 どうやら跡部くんの迎えの人のようだ。
 私は勝手にイタリア人が来るのかと思っていたから、ちょっと安心した。
「車を待たせてあります、どうぞ」
 彼は私たちを出入り口に促す。
「……ちょっと待て」
 跡部くんは手で彼……兵藤さんを制すると足早にその場を去り、そしてあっという間に戻ってきた。手には何か紙袋を持っている。
「行こうか」
 私たちはまた大きな高級セダンに乗った。
 今度は「マイバッハ」ではないようだけれど、何しろ多分高級なセダン。多分車種は、教えてもらったとしても私にはわからないだろう。
 まだ暗いミラノ郊外を走る車の後部座席で、跡部くんは紙袋を開けると何かを取り出した。
 そしてそれにかぶり付く。
 それは肉と野菜のたっぷりはさまったイタリア風サンドイッチ……パニーニだった。
 空港のバーで買ってきたらしい。
 彼はいつものすました顔でそれをぱくぱくと平らげると、更にもう一つ取り出してそれもあっという間にお腹に収めた。そして満足そうにミネラルウォーターを飲む。
「……何だ?」
 ついついそれをじっと見ている私に、不審そうに彼は一瞥をくれた。
「……ううん、なんでもない」
 私はちょっと笑い出しそうになるのをこらえて、窓の外に目をやった。
 跡部くんの『食べて良いものと食べてはいけないもの』の基準は今ひとつわからないけれど、大きなパニーニを二個あっというまに食べてしまう彼はとても中学生男子らしくて、なんだかほっとしておかしくなってしまったのだ。
 
 私たちを乗せたセダンは、ミラノの町中に入ると、大きな落ち着いたホテルのロータリーに止まった。
 エントランスで、兵藤さんは私たちに一枚ずつカードキーを手渡す。
「お部屋の手続きは済んでいます。お時間になりましたら、また迎えに上がりますので」
「わかった、ありがとう。早い時間に悪かったな」
 跡部くんが落ち着いた様子でそう言うと、兵藤さんは私たちに一礼し、車で去っていった。
 私が手荷物を持ったままぼうぜんとしていると、跡部くんはさっさとホテルの中に入ってゆく。私はあわてて後を追った。
 私たちは金色の髪の案内係の青年に、部屋まで案内された。
 跡部くんは自室に入る前に、廊下で足を止める。
「11時に迎えの車が来る。それまでに仕度をしておけ」
 そう言って、彼は部屋の中へ消えた。
 私は彼の隣の隣の部屋へ案内され、ベッドに荷物を置くとようやく深呼吸をした。
 広くて落ち着いた趣味の良い部屋。
 でも、今はそんな事はどうでも良い。
 十分寝たと思ったのに、やけに疲れてる。
 私はなんとか、持ってきた衣類をクローゼットに掛けることだけをして、服を脱ぐとふかふかのベッドにもぐりこみあっというまに眠りについた。

 ふと気づくと、私の頭元ではアラームが鳴りつづけている。
 慌てるわけでもなく私は体を起こして、そして時計を見た。アラームをかけた時間から15分ほど経過していて、ああ15分も鳴りっぱなしだったのか上品な音だしな、なんてしばしぼうっとしていた。
 伸びをして、なんとかベッドから抜け出すとバスルームへ直行。
 シャワーを浴びながら、ああ、家のお風呂に入りたいなあと、すでにホームシック気味な事を考えてしまう。
 ほんと、ありえないなあ。
 どうして私は突然イタリアにいるんだろう。
 なんて事をぐるぐると考えてたら時間が迫っている事に気づいて、あわてて髪を乾かし服を着た。
 母親から借りてきたスカーフを巻いてジャケットを着ると、ロビーに下りる。
 ロビーのソファには既に跡部くんがいて、新聞を読んでいた。
 私の姿に気づくと、ぱさりと新聞をガラステーブルに置いた。
「結構早かったな」
 そしてジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、何やらしばらくイタリア語で話し始めた。電話での会話はそうは長くなくて、彼は穏やかな笑顔で通話を切った。
「カスタルディ氏だ。今から伺って良いそうなんで、行くぞ」
 そう言って立ち上がり、颯爽とロビーを出てゆく跡部くんは、まったく多忙なジェットセッターといった風情で私は改めて感心してしまった。
 尚、カスタルディ氏というのは、氷帝のミラノの姉妹校であるデ・マルチーノ学園の理事長。跡部くんは先方と、何かとまめに連絡を取ってくれていたのだ。

 昨日、飛行機の中で彼の隣で眠るとき、いつもと違ってなぜか不思議に落ち着くと感じた。
 どうしてなのか今ならわかる。

『頼りになるひと』

 ありふれた表現だし、何を今更、とも思う。
 けれど改めて、跡部くんは頼りになる人だな、と考えたらとてもしっくりと来た。
 今まで、彼は優秀な人だとは思っていたけれど、頼りになる人だと感じた事はなかった。実際、彼は様々な賞賛を受けても、そのような言葉で評される事はあまりなかったように思う。
 それは、多分彼がいつも自分で好き勝手に振舞っているように見せているから。
 セダンの後部座席で彼の横顔を見ながら、私はふと考えた。
 彼は誰かのために何かをするとしても、決してそんな風には見せない。
 自分は自分のために好きにやってるだけだ。
 いつもそう振舞っている。
 でも、その実、彼の行動は誰かのためになっていて……。
 
 私が彼の隣で落ち着くのは、多分、彼のそういうところに気づいたから。

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2007.6.22

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