● ダンス(5)  ●

 明後日からイタリアへ行くなんて、まあ、彼お得意の冗談だろう。イタリアへの研修旅行がだめになりそうで、がっかりしている私をからかうための。
 そんな事を考えながら帰宅すると、リビングのテーブルに、私のパスポートとユーロ札が置いてあった。

ちゃん、委員会のお役目で急にイタリアに行く事になったんですって? 大変ねえ。でも跡部くんが一緒なんでしょ? しっかりした子だから安心ね。あ、ほら、お父さんが出張に行った時のユーロの残り、出しておいたから持っていきなさい。わざわざ両替しなくても十分だと思うよ。そうそう、そこのメモは免税店で買ってきてもらうもののリストだから。お父さんはいっつも間違えてきちゃうのよねぇ。ユーロが余ったら、ちゃんも好きなもの買ってきていいわよ」

 母親が、そんな事を言いながらいつものように晩御飯の仕度をしていた。
 どうやら、すでに学校から連絡があったらしい。
 中学生二人が突然明後日からイタリアに出かけるという事に、学校も親もまったく何の疑問も抱かないというのが私は不思議で、でもこれが跡部マジックという奴なんだろうなとため息が出た。
 パスポートとユーロ札を手に取る。メモには化粧品の長ったらしい名前が5点ほど記してあった。
 私はなんだか可笑しくなってきてしまい、くくくと声を出して笑った。
 まったく跡部くんはすごい。
 彼にかかると、こんな「ありえない」事が、あっさりお茶の間の現実になってしまうのだから。


 出発の日、私は簡単な旅支度をして学校へ行った。
 朝、内心ちょっとハラハラしながら跡部くんの席の近くを通るけれど、彼は特に何を言うわけでもなくいつもどおり。
 私はほっと胸をなでおろす。
 委員会の公務(?)とはいえ、さすがに跡部くんと二人でイタリアへ研修旅行の下見に行く、なんてのは人に知られたくない(いろいろな意味で面倒くさい)。彼もそれくらいは心得ていると見えて、何も言わなかった。
 空港を21時すぎに出発の、ミラノ・マルペンサ行きJAL直行便。
 私たちは今夜、それに乗る。
 私は教室の窓から外を見た。
 快晴の空。

「よう、。なんや、ご機嫌さんやな。連休、どこか行くんか?」

 隣の席からは忍足くんがからかうように声をかけてくる。

「ううん、別に。休みなのが嬉しいだけ」

 私はつとめて冷静にそれだけ言った。
 今夜のフライトを思ってわくわくしている自分を、私は認めざるを得ない。
 なんて言ったら良いのだろう。
 決して、王子様と二人の逃避行という感ではなくて、トム・ソーヤーとハックルベリーが無人島に行くような。そんな気持ちだった。
 ユーロを持たされて送迎の車まで用意される私たちは、台所からベーコンの塊をくすねるトム達とは程遠いわけだけど、何しろ私にとっては生まれて初めての冒険らしい冒険なのだ。
 ちらりと相棒のハックルベリーを振り返ると、彼はあいかわらず、私が振り返るのをわかっていたかのようにこちらを見てニヤリと笑う。
 私はいつもよりワンテンポ遅れて、目をそらして前を向くのだった。



 ホームルームが終ると、跡部くんは席を立ってさっさと教室を出た。
 
「急げよ。裏門だ」

 すれ違いざまにそれだけを言う。
 私は連休を前にして楽しげに話してくる友人達と上の空で話をして、そして適当に切り上げると裏門に走った。
 跡部くんの送迎の車はいつもは正門に堂々と横付けなのだけれど、今日は私に気遣って人目につかない裏門に来てくれた。
 そう、彼は人の気持ちがよくわかる。
 わかった上でどうするのか、というは彼の胸ひとつなのだけれど……。

 縮尺がおかしいんじゃないか、というくらいに大きく立派なセダンの後部座席に乗り込むと、私は、「よろしくおねがいします」なんて通学バスに乗る時みたいな事を言ってシートに体を埋めた。
 車は静かに発車する。
 足元はふかふかの絨毯で、力強いがびっくりするくらい静かで滑らかな走行感。ちょっと初めての感覚だった。
「……これ、なんて車?」
「マイバッハだ」
 予測はしていたけれど、聞いてもさっぱりわからない。まあいいか、とため息をついた。
「向こうの学校との約束って何時だっけ?」
「明日の午後だ。が、早く到着したらいつ来てくれても構わないという事だ」
 明日の午後にはイタリアのミラノか。
 私はまだ、なんだか信じられない。
 信じられないけれど、私たちを乗せた「マイバッハ」は確実に空港へ向かうのだった。

 空港に到着すると、チェックインをする前に跡部くんはドレッシングルームで着替えを済ませてきた。
 それは初めて会った時の装いと似た雰囲気ではあったけれど、当時からすると彼はとても背が伸びて、顎のラインもしっかりして、本当に大人の男の人のようになったのだなあと、私は改めて思い知らされた。
 基準服の時は、シャツの丈がちょっとショートでキュートな雰囲気のある彼も、スーツになると本当にシックで落ち着いていて、今更ながら少々驚かされた。

「……はもともと私服だから着替えなくて済んでいいな」

 彼は手荷物をまとめて、ネクタイを少しゆるめながら私に言った。
 じゃあ、跡部くんも好きにしたらいいじゃない、と私は言いそうになったが、彼がそうすると非常に影響力が大きいのだという事が私にもわかっていて、その言葉は飲みこんだ。
 その代わり、あなたのスーツ姿はとても似合っている、と言う事を表現する笑顔で慇懃に彼を見る。
 私の言いたい事は十分彼に伝わったようで、彼はフフと笑うと髪をくしゃっとかきあげて、カウンターに向かった。

 チェックインもイミグレーションもすませ、私たちは中の会員制のサロンで搭乗を待った(私は跡部くんのお供で入れたわけだけれど)。
 中の待合のソファでは、連休のレジャーを楽しむグループの他に忙しそうなサラリーマンも多く、彼らは一心不乱にPCを開いて無線LANなんかを利用していた。
 そしてちらりと隣を見ると、同じように小さなモバイルを開いている跡部くん。
 まったく様になってるなあ、とちょっと感心して眺めた。

「……跡部くんはやっぱりちょこちょこ海外に行くの?」
 私は何気なく尋ねた。
「そうだな、家族旅行以外でもこうして用事があれば、出かける」
 彼はそっけなく答える。
 一体、どんな用事があるんだか想像もつかないけれど、私は妙に納得。
 彼は空港で、勝手知ったる我が家のように行動しているから。
 私はそれ以上何も言わず、彼の隣で文庫本を広げた。


 夜間飛行は順調だった。
 安定高度に入ると、さっそく機内食が配膳される。
 私は機内食が大好きだから、わくわくしながらトレイのアルミをぱりぱりと開けていった。プラスティックのフォークで魚料理をつつきながら隣の席を見ると、我らが王様はパックのミネラルウォーターの蓋を開けて一口飲み、そしてデザートの葡萄を食べるだけでメインには手もつけない。
「……跡部くん、お肉や魚、あまり好きじゃないの?」
 無粋だと分かっていても、私はついつい尋ねてしまった。
 だって機内食って、私は小さな頃から大好きなのに。
「原則として機内食は食わねー。調理に際して大量の保存料が使われているからな」
 私は、パンで思い切りソースをぬぐいながら彼の言葉を聞いた。
「……おいしいのに」
「不味いモンと体に悪いモンは食わない主義だ」
 それだけを言うと、チーズのパックを開けてそれを齧り、そして水を飲み干すのだった。


 機内食が片付けられると、消灯となった。
 広々としたシートを倒すと、十分に休めそうだ。
「マルペンサに到着したら迎えの車が来ている。到着は現地時間で早朝になるだろうから、一旦ホテルにチェックインして休んでから学校へ向かう。しかしそう時間はないから、機内でしっかり寝ておけよ」
 跡部くんはドラマか何かに出てくるエリートワンマン上司みたいな事を言って、たっぷりとシートを倒し、寝る体勢になった。
 私が本を仕舞ったりゴソゴソしていると、彼はあっという間に寝付いたようだ。
 こうやって休むべきときにしっかり休むという事に、慣れているのだろう。
 その優雅な寝顔を、私はしばし眺めていた。
 こんなにじっくり彼を見るのは初めてかもしれない。
 いつも彼と接するのは、ヒット・アンド・アウェイという感じであわただしかったから。
 私も彼と同じようにシートを倒し、目を閉じた。
 不思議だ。
 学校では彼と会ったり話したりすると、あんなに落ち着かなかったのに、今はこんな近くに二人でいて、驚くくらい落ち着く。
 どうしてだろう。
 家族以外の誰かといて、こんな風に落ち着くのは初めてかもしれない。
 どうしてだろうな……そんな事を考えていたら、私はいつのまにか眠りについていた。

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2007.6.21

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