私は今でもまだ大人だとは言いがたいけれど、あのパーティの時の自分の稚拙なかけひきは思い出すだけでも恥ずかしくなる。
けれど同時に、女の子というのは誰に習ったわけでもなくとも、気になる男の子と出会うとあんなそぶりに出てしまうものなのかな、と我が事ながら微笑ましい。
とにかく、それまで見たこともないような王子様に出会ってしまって、当時の私は必死だったと思う。
誰と話していても彼を探し、そして彼が近くを通る度に胸が高鳴って。
何度も何度も視線は交わしても、私たちが実際に交わす会話は、excuse me程度のものでしかなくて。
パーティ客たちと話していると、結局そのほとんどは氷帝の高等部と大学部の生徒という事がわかった。
彼は、高等部の生徒にしてはやや幼い印象があるし、おそらく中等部の生徒なのであろうと私は目星をつけた。
という事は、氷帝に入学したら私は彼と同じ学校に通う事になるのだ。
改めてそう考えると、私は少しどきどきした。
なぜなら、それまであんな人が身近にいた事がないから。
ハイソサエティな家の子供が多いという氷帝のイメージを急に実感した。
先輩にあたる人なのだとしたら、私の方からきちんと一度自己紹介をした方が良いのかしらと、私は改めて考えたりもしたけれど、この西洋主義的なパーティの場でなら、男性である彼の方が先に私に自己紹介したって良いんじゃないかとも考えたり、結局私は彼と会話を進めることをしないまま。
私が少々疲れて木陰に立っていると、彼がすっと椅子をすすめてくれたり、でもそして私が何かを言おうとすると、彼はフフと笑って他の人と話しに行ったり。
また、私がスウェーデン人の学生の名前がなかなか発音できないでいたら、彼がやさしい発音で教えてくれて、ちゃんとお礼を言おうと思ったら、私はそのスウェーデン人にクレアのところへ連れ出されてしまったり。
私たちは一向にお互いの名前を知り合う事がなかった。
私はなかなか決心がつかない。
自分から自己紹介をして、彼の名を尋ねる?
自分の心に問うと、私は彼の名や学年を知りたいと、そう思っているのは確かだった。
ほんのちょっとした、まったく不自然じゃない会話を交わすだけなのに、なぜこうも躊躇してしまうのだろう。
私がそうやって胸をキリキリさせていると、ふっと私の隣で、彼が立ち止まった。
そして私の視線をとらえる。
今までみたいに、通りすがりにからかうように、というのではなくしっかりと真剣に。
そのまなざしは、私の目から後頭部を貫通して、そのまま体中をぐるぐると巻き取られるような、そんな感じさえ抱いた。
じっと彼に見つめられるままにしていると、彼はこう言ったのだ。
「クレアが、もう少ししたら音楽をかけると言ってたぜ。最後は、俺と踊らねえ?」
その言葉に、私は心臓をわしづかみにされたような気持ちになる。
突然の申し出、そのちょっと乱暴な言い方、彼の私を見る角度、口元に浮かべた勝気な笑み、そのどれも、当時の私にはとても刺激的だった。
私はかろうじて表情を変えることなく、黙ってうなずく。
すると彼は、また自分の名も言わず、私の名を尋ねる事もせず、さらりとその場を去ってゆくのだった。
私の胸はどきどきと高鳴る。
名前なんかどうだっていい。
パーティのラストダンスを、私はあの王子様と踊るのだ。
その約束が、私の胸を熱くさせた。
けれど私の有頂天な気持ちは長くは続かなかった。
「ちゃん!」
パーティ会場に突然母親が現れたのだった。
私は面食らってしまう。
「お母さん、どうしたの?」
「ちゃん、パーティの最中なのにごめんね。あのね、お父さんの会社の社報にね、新しい家の前での一家そろった写真を載せたいんですって。会社のカメラマンさんを連れて、お父さんがもうすぐ帰ってくるから、ちゃんも来てって。おめかししてて、丁度よかったわね」
もっと早い時間だったら、私は退屈なパーティを抜けられると喜んだ事だろう。
けれど、今の私にはラストダンスの約束があった。
でも、それは母親には言い出せず、私はクレアやクレアのステイ先の家の方に挨拶をしてパーティを中座する事になった。
私は必死で、彼を探す。
せめて一言挨拶をして帰ろうと。
しかし、こんな時に限って彼は見つからなかった。
「ちゃん、どうしたの?」
庭を後にしながらも、ちらちらと振り返る私に、心配そうに母親は声をかけた。
「……ううん、なんでもないの」
結局私は、彼に自己紹介もできず、ダンスの約束も果たせないままその場を去ることになったのだ。
氷帝学園中等部の入学式はそのパーティの数日後だった。
クラスを割り当てられ、数日間登校した頃だったと思う。
その頃、クラスの中では幼稚舎からずっと氷帝に通っているという生徒が多くて、外部入学の私はまだ心細い気持ちでいたと記憶している。
休み時間に私が自分の教室にいると、不意に廊下側が騒がしい。
「はいるか」
聞き覚えのある声が響いた。
私はまだ呼び出しをされるほどに知り合いもいないはずなのにと少々驚きつつも、席を立って廊下に出た。
私は驚きで息を呑む。
そこには、パーティで会った彼が立っていた。
あの自信たっぷりで、ともすれば芝居がかっているとも見えるような粋な立ち姿は、間違いない。
彼の方も驚いた顔で私を見ていた。
「……か?」
不遜な態度でそれだけを言う。
『人に名を尋ねる前に、自分が名乗りなさい』
という意味を込めて私が黙っていると、彼はようやく言った。
「俺は跡部景吾。中等部の一年だ」
アトベケイゴ。
頭の中で彼の名を反芻する。
「よ」
そしてようやく私も自分の名を改めて告げた。
彼はじっと私を見る。あの時のパーティで私をダンスに誘った時のように、真剣な顔で。
周囲では私たちを興味深そうに見る人が大勢いる事に、私はふと気づく。
彼もはっとそれに気づいたようで、表情を改めて言った。
「今回、生徒会役員として来た。ちょっといいか?」
「……なあに?」
「は基準服を着ていないし、これからも着ないそうだが、どうしてなのか聞かせてもらえるか?」
「……氷帝の基準服は強制じゃないって聞いていたし、入学案内にも書いてあったけれど。理由が必要なの?」
私は突然の彼の登場にまだ動揺を抑えられないけれど、つとめて落ち着いたそぶりで尋ねた。
「勿論、強制はしない。ただ、無条件で許されるというわけでもないんでね。理由を聞いておきたい」
彼は相変わらずの、あの意志の強い目で私に言った。
「そんなたいした理由はないんだけど。ここの基準服は私にあまり似合わないし、そもそも短いスカートが嫌いなの。かといってあれで長くしたら、ヘンでしょ? それだけの理由じゃだめなの?」
私が手短に言うと、彼は私を改めて頭のてっぺんからつま先まで眺める。
その日の私は確か、シンプルなグレーのパンツに、アイグナーのシャツかなんかを着ていたんだったかと思う。
彼、跡部景吾はククと笑った。
「そうか、了解した。確かに、お前には基準服より私服の方が似合うな」
彼はそれだけを言うと、私に手を振り去ってゆくのだった。
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2007.6.18