と日直を担当した翌日、仁王は昼休みになると真っ先に彼女の席へ向かった。
「、学食行くんじゃったら、一緒に行かんか」
さらりと誘った。
今日は水曜日だ。
たいてい弁当を持ってきている彼女も、水曜は弁当を持っておらず学食へ行く事が多い。
きっと彼女は今日は学食だと、仁王は確信を持っていた。
彼の申し出に、は一瞬驚いたように顔を上げて眼鏡を外した。
「……うん、行こっか」
彼女はほんの少し口元をほころばせて、眼鏡とテキストを仕舞うと、席を立った。
「仁王くん、いつも学食なの?」
販売機で食券を買うと、彼女は振り返って尋ねた。
「いろいろじゃな。弁当持ってきちょる時もあるし、何か買うて屋上で食う事もあるし、こうやって誰かと学食来る事もあるし」
「そうなの。私は水曜はお母さんが忙しいから、大概お弁当ないんだよね。学食の定食も結構好きだからかまわないんだけど、友達みんながお弁当だったりするとちょっと寂しいからちょうどよかった」
そしてそう言うと嬉しそうに仁王を見上げるのだった。
トレイに日替わり定食をのせてテーブルに向かう前に、は水の入ったグラスと箸を仁王のトレイにもさりげなくのせてくれる。
仁王はそんな風にしっくりと自分の傍を歩く彼女を斜め後ろから見つめた。
他の女だったら。
きっと昨日の理科実験室での行為で、あっさりと彼の手中に落ちている事だろう。
けれど彼女とは、まだ試合開始のサイレンが鳴っただけ。
最高じゃないか。
これからたっぷり楽しめる。
「仁王くん、どうしたの?」
彼女の向かいで一瞬箸を止めて彼女を見つめていた仁王に、は不思議そうに尋ねる。
仁王ははっとして、また箸を動かした。
なかなか読めない彼女の心を、考えていたのだ。
彼女の耳朶にはきっとまだあの感触は残っていて、いつでも呼び起こす事ができる程だろう。けれど、その張本人をこうやって目の前にして、単に『学食の連れができてよかった』という喜びの笑顔を見せるだけ。
それは駆け引きでそう見せているのか、それとも単純に仁王のあの行為にはそれだけの力しかなかったのか。
そんな甘い悩みを思い巡らせていた。
「いや、、普段は眼鏡かけちょらんのか、と思うてな」
コロッケをほおばりながら、ふと尋ねた。
「ああ、眼鏡ね。普段の生活では特に必要ないんだけど、授業でノートを取る時なんかにかけるくらいなの。これくらいの距離でも仁王くんの顔ははっきり見えるよ」
「ふうん、普段はかけちょらんのか。じゃあ、キスする時に邪魔になったりはせんのじゃな」
味噌汁をすすりながらさらりと言う彼の言葉に、は一瞬箸を止めた。
そして、くくくと笑う。
「うん、そうね、普段はかけてないから、そういうマンガみたいなシチュエーションはないね」
そう言って、少し恥ずかしそうに笑った。
のしぐさや言葉から、仁王は頭の中で彼女の色事を勝手に思い描いてみる。
彼女に恋人がいるのかどうか、そんな事を彼は知らない。
少なくとも、クラスであまり男子生徒と親しそうにしているところを見たことはない。大人しくて真面目で、一見男とつきあっているようなイメージはない。
けれど、仁王は彼女を知れば知るほど、彼女が男に触れるしぐさや口付けを交わす様をとてもリアルに想像できてしまうのだ。そういう艶っぽさがある。
彼女のその相手が自分だったら、どんなにか素晴らしいだろう。
まるでテニスの強豪チームを前にして、試合の組み立てを考えているみたいだ。
仁王はふとそう思った。
彼にとって、最高に楽しく魂が躍る時。
そして、全てが彼の思い通りに行って試合に勝利した時の高揚。
を前にして、彼はそんな喜びを想像しながら口元がほころぶのを隠せなかった。
午後には美術の授業。
今日の内容はデッサンだと先週から予告されていた。
美術の教師とは比較的仲が良い仁王は、始業前に教師にそっと提案をした。
三年生になって新しいクラスメイトと懇親をはかるために、互いの顔を描くようにしてはどうかと。
彼のそのスタンダードな提案はあっさり受け入れられ、そして仁王はちゃっかりとの前を陣取ったというわけだ。
「……私、仁王くんを描くの?」
当然のように彼女の前でスケッチブックを開く仁王に、はさすがに驚いたように尋ねて来た。
「そうじゃ。俺はを描く。嫌か?」
「……ううん、別に嫌じゃないよ」
仁王のあからさまな接近に、はしょうがないなというようにくすくす笑ってスケッチブックを広げた。
これでいい。
仁王は、に彼自身の好意をこうやって示す事を惜しまない。
ただ、決定的な事は言わない、決定的な行為はしない。
それが、今回の作戦。
彼女はこれくらいの事で、仁王が彼女に惚れているのだと恋人気分になったりするような女ではないだろう。それがわかっているから、ギリギリのところまで攻めてゆくのだ。
決定打を出さずに。
さて、その美術の授業中、仁王は黙々と向かい合っているのスケッチをした。
彼が目を上げると、彼女はスケッチブックに向かっていたり、時にはばっちりと目が合ったり。
目が合うたび、彼女は少し恥ずかしそうに笑うけど、ちらちらと彼を観察しながら熱心にスケッチを続ける。
と目が合うたびに、仁王は視線で彼女に語りかけた。
なあ、お前、どんな女なんじゃ?
男はおるんか?
俺をどう思うちょる?
俺に惚れてしまいんしゃい。
ダーツのブル(中心)を狙って矢を投げるように集中して、彼女と目が合うたびに心で語りかける。
は仁王と目が合うと、照れくさそうにはするけれど目はそらさない。
「……仁王くん、色素、薄い方なのね?」
そして不意に言った。
「ああん?」
「髪とか、肌とか、目の色。髪……染めてるのかなあって思ったけど、元々色が薄いんだ。きれいね」
彼女はそうつぶやいて、スケッチをしながらまた彼を見た。
仁王の肌や髪や目は、確かに普通よりも少し色が薄く、そのためか逞しい体をしていながらも涼やかな印象を与える。
「……ああ、肌も日焼けとかにちょいと弱いんじゃ」
仁王はと視線をからませたまま言った。
「お前さんも、よくよく見ると美人さんじゃ」
彼が言うと、はまた笑う。
「そんな事、あんまり言われた事ないよ」
「それはお前さんに隙がなさすぎるからじゃろ」
仁王は思っている事をそのままに言った。はまた笑う。
授業の終わりが近づいて、二人は互いのスケッチブックを広げて机に置いた。
の描いた仁王は、細い線を丁寧にいくつも重ねた繊細なものだった。
似ているのか似ていないのか、仁王は自分ではわからないが、彼女の自分に対するイメージがこうなのかとじいっとそれを見つめる。やや儚い、繊細なイメージだった。
仁王の描いたを見せると、彼女は、えーっと声を出した。
仁王はくすっと笑う。
彼は絵は不得手な方ではないから、とんでもない絵を描いて彼女を驚かせたのではない。
の顔を描いて首から下に、丁寧に鎖骨のラインを描いたのだ。
「なんかこれ、裸みたいじゃない」
「鎖骨まで描いた方がデッサンぽいじゃろ。想像で描いただけじゃ。その下も想像して描いて欲しかったか?」
悪びれずに彼が言うと、は少し間をおいて笑う。
「仁王くん、変わってるね」
「お前さんもじゃ」
「私は普通だよ」
周りではクラスメイトたちが、互いに描き合った絵を交換したりしている。
仁王はスケッチブックをぱたんと閉じた。
「俺は、この絵が気に入っちょるから、自分で持って帰る」
「……私も自分で描いた仁王くん、結構気に入ったから持って帰るわ」
そう言って二人、くくくと笑う。
「ねえ、仁王くん」
道具を片付けて美術室を後にする準備をしながら、は静かに言った。
「何じゃ?」
「どうして私に近づいてくるの?」
彼女はゆっくりとそう尋ねた。
「……お前さんに興味を持ったからじゃ」
仁王は非常にシンプルに、そしてまったく彼の心をそのままに伝えた。
これは決定打ではない。
彼女はこれくらいでぐらついたりしない。
「……そう」
仁王の言葉にはまた柔らかく笑って、そして道具を片付けるとゆっくりと美術室を後にした。
彼女は自分との試合を受け入れてくれていると、仁王は感じた。
そしてまるで、長い長いうっとりするような休暇に入るような、そんな甘い気分になった。
Next
2007.8.31