● 恋のコールドゲーム(1)  ●

 仁王雅治は、曲者ぞろいの立海大附属中テニス部レギュラー選手の中でもひときわ毛色の変わった少年だった。
 「コート上の詐欺師」という異名を取る彼のプレイスタイルは、相手がどのような選手であってもその何枚も上手を行くような考え抜かれたもので、それは彼の鍛え上げられた身体能力と技術の裏づけもあり、チームからも厚い信頼と期待を受けていた。
 そのスタイルは、彼の際立った「人間」を見る能力に由来している。
 仁王は、チームの中でも最も「人の心の動きの機微」に敏感な人間だった。
 いや、テニス部レギュラーの中で、などという狭いくくりではなくともその能力と性質は突出したものであろう。
 今のところ、その彼の能力はテニスプレイヤーとして如何なく発揮されている。
 そして、その能力はもちろん他の場面でも多々生かされている。
 そのうちのひとつは、言うまでもなく、色事である。

 よく鍛え上げられて均整の取れた体、美しい目をした整った顔立ち、愛嬌のある方言を操りつつ巧みに話題を提供する仁王は、当然ながら女子生徒から人気があった。
 そして彼も気に入った女子生徒と人間関係を深めてゆく事に関しては積極的な方である。
 人の心の動きに対して敏感であるという事は、それだけ人をよく見ているという事であり、そんな彼は元来、人間が好きなのであろう。そんな彼を「女癖の悪いロクデナシ」という者もいるにはいるが、仁王は多くの女子生徒と深い関係になる割に、洒落にならない修羅場を演じたという噂はほとんどなかった。
 そういう、少年だ。



 そんな仁王雅治には、ここしばらく気になる女子生徒がいた。
 彼女は三年になってから初めて同じクラスになり見知った生徒で、名はと言う。
 整った顔立ちをしているが大人しく、目立つ言動はしない女子生徒で、男子生徒から騒がれるようなタイプではなかった。もっとも仁王が今まで関わりを持ってきた女子生徒は、学内でも名をはせる美女から大人しく目立たぬ少女まで、一見明確な好みなどないわけだけれど。
 が最初に仁王の目を引いたのは、授業中のちょっとした仕草だった。
 彼女は普段は眼鏡をかけていないのだが少々目が悪いらしく、授業中に板書された事をノートに書き写す時だけ度の軽い眼鏡をかける。
 その眼鏡をかけたり外したりする、何気ない仕草がとても女らしかったのだ。
 彼女は美しい顔立ちをしてはいるが、明確なセックスアピールを主張するタイプではない。が、眼鏡をかけて髪を整えたり、眼鏡を外して眼鏡ケースに仕舞うその指の仕草やまなざしが、なんとも艶っぽく見えたのだ。
 仁王は最初にその仕草を見た時、自分が彼女を抱き寄せ口付けるイメージを瞬時に思い描いた。そして彼女の顔に自分の顔が近づくその瞬間に、巧みに何気ないように眼鏡を外す彼女の仕草を。
 その時以来、仁王はを目で追う事になる。


*******


 そしてその日は、仁王はと日直の役目を担っていた。
 この事は、念入りに仕組んだ事だった。
 彼女と組んで日直をするために、仁王は数日前の自分の当番をクラスメイトと交代してもらった。順当に行けば、彼はと当たる事はない。それを巧みにずらすための細工だった。
 それまで、実はほとんど彼女と口をきいたことのない仁王は、一緒に日直になったからといって浮かれて話しかけまくるような事はしない。

「よぅ、。今日、日直じゃろ。よろしく頼むわ」

 その日の朝、仁王はと顔をあわせると、なんでもないように言った。
 は自分の席から顔を上げると、柔らかく微笑む。

「あ、日直、仁王くんなんだ。うん、よろしくね」

 仁王はの笑顔を見て、胸が躍るのを感じる。
 彼女は自分に対して、どういう振る舞いをするのか? 仁王雅治という男をどう感じるのか?
 今日、狙いをすませてそれを調べよう。
 彼は鼻歌を歌いながら、自分の席に戻った。


 仁王が狙いを済ませるタイミングは、四限目の生物の授業の後だった。
 授業でたっぷりと使った標本模型や図表を、理科実験室に片付けるのは日直の役目だ。
 彼はと、実験室の保管庫の前で作業をしていた。
 は、心臓の構造模型を古いケースに仕舞っていた。
「よりによって、こんなにたくさん模型を使った日に日直なんて、ついてないね、仁王くん」
 そう言いつつも、彼女は丁寧に模型を扱いながら笑って仁王を見た。
「そうじゃな。どれがどの箱に入ってたか、わからん」
 彼がそう言うと、はまた笑う。
「そうそう、仁王くんてやっぱり女の子に人気あるね。今日私、仁王くんと日直でしょう。友達に、だいぶうらやましがられちゃった」
 そんな事を言う彼女を、仁王はじっと見つめた。
 にも、仁王が女子生徒から人気のある男なのだという認識はあるらしい。
「モテる男との日直は、どんな感じじゃ?」
 彼は冗談めかして、言う。
 さて、こんな言い草に彼女はどう反応する?
「ふふ、そうね、悪くないね」
 はおかしそうに笑って、言った。
 ああ、隙のない、それでいて境界線の柔らかな反応だ。
 仁王はそう思って、そして自分の心が弾むのを自覚する。
 彼に憧れたりする、またはその反対に彼を苦手とするような女子生徒の反応ではない。
 彼にまったく興味がないわけではない、でもそれだけ。
 そういう女の反応だ。
 じゃあ、更に一歩踏み込めば、どうなるだろうか。
 仁王は模型をしまった箱のひとつを、保管庫の一番上の棚に収納してを振り返った。

「なあ、。生物の荻野先生の、ちょっと秘密の話、教えちゃろうか」

 彼がそう言うと、は興味深そうに目を大きく見開いた。

「へえ、荻野先生の? なあに?」

 仁王はニヤッと笑うと、の耳元に唇を寄せた。

「荻野先生な、あれ、増毛しちょるぞ」

 そんな一言を言う瞬間、仁王は唇でそうっと彼女の耳に触れた。まるでうっかりと、というように。
 そして少し顔を離して、の顔を見る。
 は先ほどよりも、さらに目を大きく見開く。

「……荻野先生が? 嘘、だってまだ30前でしょ?」

 二枚目の生物教師の増毛説に、彼女は予想通りの反応。
 でも、仁王が見たいのはそんな話に対する反応ではない。

「本当じゃ。保健室の先生が言うちょった」

 そして彼はそうやってささやくためにもう一度、彼女の耳元に唇を寄せる。そしてその白い耳朶を、一瞬唇ではさんで軽く舌でなぞり、すぐに彼女から一歩離れた。
 それ以上は何もしない、という事を示すために。

 さて、彼女はどう反応するのか?
 彼は一瞬のうちに、頭の中でイメージを繰り広げる。

 真っ赤になって、何をするの?と怒るか。
 何もなかったように、知らん顔か。
 恥ずかしそうに照れるだけか。

 それによって、仁王は彼女への今後のスタンスを考える。
 こういうプロセスが、彼は楽しくて仕方がないのだ。
 甘い期待で胸を一杯にしながら、を見つめた。

 彼女は一瞬耳を押さえて、くすくすと笑う。

「くすぐったいじゃない、仁王くん」

 そしてそれだけ言って、また模型を収納する作業に戻ったのだ。

 彼のやった事がセクシャルな意味合いを持つ故意な行いだと、彼女はわかっている。
 仁王には、その確信はある。
 彼の振る舞いを、さらりと受け流すその言葉や表情や仕草は、決して作ったようなものではなく、とても自然だった。
 そして、彼は背筋をするりとなでられたように、ゾクゾクとした。
 この、受け入れられているのか受け入れられていないのか判断しかねるような、あいまいな境界線。その絶妙な感覚は、彼の心を強く煽り立てるのだった。
 には、慎重に注意深く、全力でかかろう。
 なし崩しに、なりゆきで、などという関係では満足できない。彼女とは。
 この女が、心から自分に惚れたと目を潤ませるところを想像すると、それだけで体の芯がビリビリと熱く痺れる。
 そんな絶頂感を味わいたい。
 仁王はふふっと笑って自分の髪をかきまわすと、静かに標本模型を収納する作業を彼女と共にした。
 彼の頭の中では、試合開始のサイレンがなるのが聞こえる。

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2007.8.30

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