● ぼくの自転車のうしろにのりなよ(前編)  ●

 弦一郎が朝練を終えて教室に行くと、一番後ろの窓際のあたり、いつものように騒がしい一群がいる。
 とその友人達だ。
 今日はギターやら何やらを持ち出しての大騒ぎだった。
 厳格なクラス委員でもある弦一郎が教室に入ってきた事に気づくと、心持ち、彼らの声のトーンが下がる。それでは彼の登場に気づいたか、振り返ると笑顔で弦一郎を見た。
「おはよう、真田くん」
 楽しそうに笑う彼女は、肩からエレキベースを掛けた上に、両手にドラムのスティックを持っていた。
「何だ、そのチンドン屋みたいな成りは。一体、ドラムなのかベースなのかどっちなのだ」
 弦一郎がにこりともせずに尋ねると、は声を上げて笑った。
「真田くん、チンドン屋なんてうちのおばあちゃんみたいな事言う」
 の言葉に、弦一郎はむっとした顔をしてみせるが、別段本当に気を悪くしているわけではなかった。
「これね、今度千佳ちゃんのバンドに一度参加させてもらう事になったんだけど、何のパートをやろうかって話してたの。最初はドラムがいいなあって思ってたんだけど、ほら、ドラムって後ろの方で目立たないじゃない。せっかくやらせてもらうんだったら、前に出て写真に写りたいし、だったらギターかベースって事になって、ベースの方が弦が少ないから覚えやすいかなあって。真田くんはどう思う?」
「俺に分かるわけがなかろう」
 机に鞄を置くと、弦一郎は窓の外を見た。
「それより、今日は晴予報だったのだが、急に雲行きが怪しくなってきた。雨が降ると思うか?」
 弦一郎が尋ねると、はがらりと窓を開けて、上空を見た。
「……そうね、日中はそこそこ降るかもしれないけれど、それはちょっと厚い雲が通るからで、すぐに止むと思う。東風も吹いてないから、大きく崩れる心配はないわ」
 はスティックで上空の鼠色の雲を指して言った。
 写真部の彼女は、風景を撮る関係からか、非常に気象に詳しかった。その事は弦一郎が以前に彼女に対して抱いていた、『騒がしいチャラチャラした女子生徒』というイメージからすると、少々意外で、そして彼女に興味を持つきっかけとなった。
 春頃に自身の写真を撮ってもらって以来、それまでろくに話した事のなかった彼女とよく話をする。彼女に限らず女子生徒とほとんど無駄口をきくことのない弦一郎にとって、よりによってクラスの中でもかなり目立つ彼女と話をするなど最初は若干戸惑ったものだが、慣れてみるとそれほど気遣う事でもなかったし、今ではクラスの中でも比較的多く会話をする相手の一人だ。
「そうか、よかった。予報を信じて自転車で来たから、帰りに降られると困ると心配していたところだ」
 彼女の言葉にほっとして席に座った。

 弦一郎が懸念していた通り、やはり日中は雨が降り出した。存外しっかり降っており、本当に帰りには止むのかと思っていたら、の言葉通り午後のホームルームが始まる頃には雨脚は弱まって、日差しが見えていた。
 クラス委員の彼は、議事進行をしながらも窓の外を見て、すっかり止んだのを確認すると、をちらりと見た。
 二年の時はホームルームをサボタージュしがちだったは、当時何度か弦一郎が理由を述べて注意すると、その後ホームルームにはきちんと出席するようになったのだった。
 彼と目が合うと、は小さなVサインを出してみせる。
 ちゃんと出席しているという事か、予想通り雨がやんだという事に対してか、どちらへのアピールかはわからないが、とりあえず弦一郎は小さくうなずいてみせた。

 ホームルームが終わると、すっかり空は晴れ渡り予定通りに部活動を行う事もできたので、弦一郎はその天気もあいまってすがすがしい気分だった。
 トレーニングを終え、部室で着替えて帰ろうと歩いていると、グラウンドのフェンスにふと目が行く。
「うむ?」
 気になって近づくと、がフェンスに上ってカメラを構えていた。
 その先を見ると、うっすら赤くなった空に虹がかかっている。
 なるほど、美しい光景だった。
 しかし弦一郎にはそれよりも若干ひっかかる事があり、しかし、少し思案してそのまま素通りしようとした。
 と、背後から同じく部活を終えたであろう生徒達が近づいて来る事に気づく。
 弦一郎は足を止め、踵を返すと彼女の元へ近寄る。
!」
「……ああ、真田くん」
 は一瞬だけ振り返ると、またファインダーをのぞく。
「そんなところからじゃなく、もっと別のところから写さんか。危ないぞ」
「だって、ここがね、すごく良い角度で校舎も入ってベストポジションなのよ」
 はカメラを構えたままで言った。
「しかし……パンツが見えそうだぞ!」
 弦一郎は低い声で怒鳴る。
「ええっ!?」
 さすがには声を上げて振り返った。
 そして、フェンスにひっかけている足がずるりとすべり、滑落した。
!」
 弦一郎は驚いて駆け寄る。
「大丈夫か?」
「……ああ、カメラは大丈夫、よかった」
「いや、お前自身はどうなんだ」
 は着地してから地面でも足を滑らせ、すっかり尻もちをついていた。
「大丈夫だけど……急にあんな事言われたらびっくりするじゃない、真田くん!」
 レンズに蓋をすると、は顔を赤くして言った。
「すまない、しかし、そのまま何も言わず素通りするか、若干気まずくとも注意喚起するか考えたのだが、俺としては後者の方がクラスメイトに対し、人間として親切ではないかと思い……」
 彼女の様子を見て少々あわててしまった弦一郎は一生懸命伝えるのだが、彼女が左足をさすっているのが目に入った。
「足、ひねったか?」
「……うん、そうかも」
 はフェンスにつかまりながら、ゆっくり立ち上がった。そのままフェンスを伝って、そうっと歩いてみる。左足に体重が乗るたび、顔をしかめる。
「……いかんな。保健室で冷やそう」
「ううん、少し休んでれば大丈夫だから……」
 の言葉を無視して、フェンスの脇に置いてある彼女の鞄を肩に掛けると、そのままを抱き上げた。
「ええ? こうやって保健室に行くの?」
「かなり痛むのだろう? どうせそんなに人もおらんから、気にするな」
 冷静な言葉をかけながら、弦一郎は鼓動が早まっている事を自覚する。
 女に触れる事など初めてだったから。
 しかし、ともかく彼女を無事に運ぶ事、それだけに集中して足早に保健室に向かった。
 保健室に養護教諭はおらず、しかしトレーニング中の負傷などで、応急処置には慣れている弦一郎は手早く物品を準備する。
「靴と靴下を脱げ」
 養護教諭の机の前の椅子に座らせたにそれだけ言うと、冷凍室の氷をビニールに入れた。
 の左足首は少し腫れている。そこに氷を当てた。
「ちょっと! 冷たい!」
 たまらず彼女は声を上げる。
「我慢しろ。スプレーより、まずは早期に氷でアイシングを行うのが最も効果的なのだ」
 抗議の声も聞かず、氷を当て続ける。
「しばらく自分で当てていろ」
 氷の入った袋を彼女に任せると、弦一郎はポケットをさぐってテープを取り出す。
 そしてそれを鋏で丁寧に切って行った。
「……それは何?」
「テーピング用のテープだ。冷やしたらテーピングをする。補強されて若干痛みがましになるはずだ」
 は氷を支えながら、弦一郎をじっと見た。
「……真田くんは何でもできるのね」
「スポーツをやる者、テーピングは基本だからな。それにこれくらいの怪我の処置は一年の頃からたたきこまれている」
 言って、帽子を机に置くとの前にひざまずいた。
「……足、ちょっと触るぞ?」
 弦一郎は一瞬躊躇するが、険しい顔を造って言った。は別段気にする風もなく、うなずく。
 自身の膝に、の足を乗せて角度を作り、丁寧にテーピングを施してゆく。
 部の後輩に指導する際、こうしてやることもしばしばだが、当然ながらの足は後輩達の足とは異なり、すんなりと華奢で勝手が違う。しかしの足は細いというだけでなく、下腿三頭筋が美しく発達していて、写真を撮るのに山に行ったりすると話していた事などを思い出した。
「……はなかなか、いい足をしているな」
 ふと顔を上げて言う。
「……真田くん、そんな事を言う人だった?」
 はおかしそうに笑って言う。弦一郎ははっと顔を赤らめた。
「いや、違う! いかがわしい意味ではなく、きちんと腓腹筋なんかが鍛えられているという事でだな……!」
 あわてて説明するために、ふくらはぎに触れると、はびくりと体を動かした。
 の足はすべやかで、弦一郎も驚いてすぐさま手を離す。
「あ、すまない、あの……つまり、しっかりした足だという事だ」
 ぐっとうつむいて、急いでテープを張り続けた。
「ううん、私の方こそ、治療してもらってるのにからかうような事言っちゃってごめんなさい」
 しばし沈黙が続き、弦一郎は自分の顔がまだ熱い事に気づき、なかなか顔が上げられなかった。
「……でもね、真田くん」
「うむ?」
「女の子は、筋肉の鍛えられたしっかりした足、なんて言われるよりは普通に、いい足してるって言われる方が嬉しいと思う」
 は足を弦一郎の膝に預けたまま、くすくす笑っていた。
「……そうか」
 照れかくしに顔をしかめたまま、机に置いた帽子を取ってぎゅっと目深に被り、弦一郎は立ち上がった。
 はきっちりテーピングの施された左足をさすると、靴下を履いた。
「うん、ありがとう。痛みもだいぶマシになったわ」
「うむ、そもそも俺が声をかけたせいだったからな。悪かった」
 恥ずかしそうに言う彼に、は思い出したように笑った。
「……、帰りはバスか?」
「うん、そうよ」
「家はバス停から近いか?」
「うーん少しは歩くけど……」
 弦一郎はテニスバッグを肩に掛ける。
「俺の自転車の後ろに乗っていけ。家の前まで送っていく。着替えて来るから、ここで待っていろ」
 が驚いて何か言っているが、弦一郎は無視して保健室を走り出た。


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2007.3.28

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