● ぼくの自転車のうしろにのりなよ(後編)  ●

 大急ぎで着替えをすませ、弦一郎は自転車に乗ると保健室の前へ走った。保健室から外につながる扉を開けると、中で心配そうに座っているに声をかけた。
「待たせたな」
「そんなに待っちゃいないけど……」
 は少し困ったような顔で言う。
「自転車って、真田くん、家どこなの? 私の家まで、結構あるのよ?」
 彼が自宅の場所を説明すると、は驚いた声を上げる。
「私の家よりもっと先じゃない。真田くん、そんなところから自転車で来てるの?」
「トレーニングの一環だ」
 なんでもないように言って、に手を貸し自転車の傍まで連れてきた。
 自転車に跨り、鞄を籠に入れるとを振り返った。
「さあ、乗れ」
 は少し戸惑いながら、荷台に横座りになる。
「……真田くんにつかまってて良いの?」
「ああ、でないと振り落とされるだろう。俺は飛ばすからな」
 彼がそう言うと、は遠慮がちに弦一郎の腰に手を回した。
 背中に暖かい体が預けられ、その慣れない感覚に少々動揺するが、弦一郎は何も言わずペダルを漕ぎ始めた。
 部活帰りの生徒が、風変わりな組み合わせの二人乗りを驚いた顔でじろじろと見てゆく。
「真田くん、私なんかとこうしてたら、きっと後で何か言われるんじゃない?」
 の小さな声が聞こえた。
「何をだ?」
「……私はちょっと仲の良い男の子と噂にされて、からかわれたりするのは慣れてるけれど、真田くんはそういうの嫌でしょう?」
 彼女の言葉に、弦一郎はまっすぐ自転車を漕ぎながら、振り返らずに言う。
「下らん。俺はそんな事など気にせん」
 足に力を入れてスピードを上げると、の手にぎゅっと力が入る。柔らかい体が押し付けられ、背中がぐっと熱かった。
 聞けばの家は、ほとんど弦一郎の家への通り道だった。
 普段どおりの道を走ればよい。
 しばらく走ると、行程で一番きつい坂にさしかかった。
「……真田くん、大丈夫?」
 坂道を登っていると、後ろで心配そうな声がする。
「これくらい大丈夫だ」
 一気に坂を上ると、自動販売機の前で一度止まる。
「ちょっと良いか?」
 さすがに若干呼吸を乱して自転車から降りると、弦一郎は自己の脈拍を測定する。
 いつもここで心拍数を測定し、水分補給をするのが習慣だった。
「……、お前、体重は何キロだ?」
 脈拍を測定し終えて顔を上げると、に尋ねた。
「……真田くん、今日はどうしたの? セクハラ発言三連発じゃない」
 彼女は呆れたような顔をして言った。
「セクハラ? どうしてだ? 俺は性的嫌がらせのつもりなどない。今日は普段より心拍数が上がっているので、どれだけの負荷をかけたらこうなるのか、記憶しておきたいだけだ」
 弦一郎が言うと、はため息をついてしぶしぶ答えた。
「……46.5キロよ」
「そうか、おおよそ47キロか……」
「四捨五入しないで! 46.5キロよ!」
 は憤慨して言う。
「……結構神経質だな」
 自動販売機でスポーツドリンクを買うと、プルタブを開けて一口飲んだ。
 はガードレールから、眼下に広がる景色を眺めていた。
「ここ、すごく夕焼けがきれいね」
「ああ。帰りにここで一息入れるのは気に入っている」
「そうなんだ……」
 満足そうに空を眺める。
 風に髪をすくわれながら、夕日に照らされる彼女はとてもきれいで、弦一郎はドリンクの缶を持ったままずっと彼女を見ていた。
 は鞄から、いつも持っているコンタックスのカメラを取り出すと、夕焼け空に向けて何枚かシャッターを切った。
「……はいつも写真を撮る時、必ず一人だな」
 ふと思い出した事を言った。
「ああ、そうね。写真を撮る時って、なんていうのかな……同じ場所にいても自分にピンとくるタイミングがやってくるまで、じっとその場所にいたりするから……同じものを見れる人とじゃないとなかなか一緒にいられなくて。だって、みんな、じっと空を見ていたりしないでしょう?」
 言って弦一郎を見ると、笑った。
「だから……天気の話や、逆転層の話なんかするの、真田くんが初めてよ」
「そうなのか? 俺は……からああいった話を聞くのは、とても面白く興味深いと思っている」
「私も真田くんがそういう話を聞いてくれるのは、楽しいし、嬉しいと思っている」
 彼女は弦一郎の口調を真似てそう言うと、いきなり彼にカメラを向け、シャッターを切った。
「……なんだ、突然、びっくりするじゃないか!」
「いいじゃない、一枚くらいカメラ目線で写ってくれても」
 満足そうにカメラを鞄に仕舞った。
 弦一郎はドリンクを飲み干すと、再度自転車に跨る。
 後は登りはなく、楽なコースだ。
 は弦一郎の腰に手を回して、それまでよりリラックスした様でその頭を彼の背中に預けていた。
 緩やかな下りの道で、休憩も取った後なのに、弦一郎は自分の心拍が一向に落ちてゆかず、かえって上昇するばかりに感じる事が気になった。
 案内されたの家の前で、弦一郎は静かに自転車を止めた。
「ありがとう、本当に自転車で送ってもらっちゃって。バス停から歩くの、正直ちょっときつかったかもしれないから、助かったわ」
 自転車から降りて鞄を受け取ると、言った。
「いや、もともと俺のせいで怪我をしたようなものだからな。すまなかった」
「別に真田くんのせいじゃないって。あとまだ結構走るんでしょう? 気をつけてね」
「うむ。では、また明日」
 弦一郎は頭を下げると、再度自転車のペダルを漕いで自宅へ向かった。
 あとは平坦な道ばかりで、46.5キロの負荷を下ろしたというのに、彼の心拍数は相変わらず下がる気配はない。
 涼しくなった背中には、まだ彼女の柔らかい感触が残っていた。

 翌日、教室に向かうとまたいつもの場所が騒がしかった。
 そしていつものように、弦一郎がその辺りを通ると、若干静かになる。
「……今日は一体何をやっているんだ?」
 この日はが挨拶をしてくる前に、声をかけた。
「ああ真田くん、おはよう。バンドをやるときのね、かぶり物はどれがいいかなあって。どっちが似合うと思う?」
 は、ピンクのアフロヘアと黄緑色のマッシュルームカットのウィッグを交互に被って見せた。弦一郎は黙ったまま、くいっとピンクのウィッグを顎で指した。
「やっぱりこっちよねえ」
 は嬉しそうに言って、それを握り締めた。
「……足はどうだ?」
「うん、ありがとう。夕べも冷やして寝たら、だいぶよくなった。もう大丈夫よ」
「そうか、よかった」
 弦一郎は一度自分の席に座るが、大きく息を吐くと、ピンクのアフロをぎゅうぎゅうと頭に被る満足そうな顔のを再度振り返った。
「……、ちょっといいか」
「なあに? 今日はずっと晴れだと思うよ」
 は彼の席のところまで来て、いつものように窓を開けた。
「いや、それはわかっている」
 彼もの隣で窓の外を見た。
「……少々、話したい事があるんだが」
「うん?」
 は彼の顔を覗き込む。
は、心臓の働きというものは知っているか」
 弦一郎はまっすぐな目で、彼女に問うた。
「……まあ、私は真田くんみたいに頭よくないけど、それくらいはねぇ……」
「そうだな、すまない。……心臓は、全身に血液を送り出す役割をしているわけだが、俺のように激しい運動をしなければならないスポーツ選手の場合、運動時に全身に大量の血液の循環が必要になるので、トレーニングを重ねた結果、一回の心臓の拍動で送り出す血液量というのは普通の人間の倍くらいになるのだ」
「へえ、すごいのね」
 は窓枠にもたれながらも、興味深そうにじっと弦一郎を見て話を聞く。
「それで……。ああ、ええと、すまないが……アフロは外してくれんか」
 弦一郎が眉間に皺を寄せて言うと、はあわててウィッグを取った。
「ああごめんなさい、なんかしっくりきちゃってて。それで?」
「……そう言う状態を、専門用語でスポーツ心というのだが、スポーツ心の者は、運動していない時は一回の拍動で十分に末梢まで血液が行きわたるので、平常時の心拍数が非常に少ない場合が多い。俺は、だいたい一分間に45回ほどなのだ」
「へえ」
 感心したように声を上げた。
「だから、トレーニングをする際、体に負荷をかけてゆくため心拍数を上げなければならないのだが、体を鍛えれば鍛えるほど、なかなか心拍数が上がりにくい。効果的に心拍数を上げてゆくというのもなかなか難しいというわけだ」
「ふうんトレーニングってやっぱり大変なのね、それにしても真田くん、いろいろ勉強してるのねえ」
「それで、昨日の件なんだが」
 弦一郎は、ウィッグをいじりながら彼の話を聞くをじっと見て、深呼吸をする。
「昨日は走行途中および帰宅後と、心拍数を測定したが、非常に良い感じに上昇していた。つまり、いろいろ考えたんだが46.5キロの負荷は俺のトレーニングにまさに最適だったというわけだ。……それで、またに、俺の自転車の後ろに乗ってもらいたいと思うんだが……意味はわかるか?」
 真剣な顔で言う彼に、も真顔で大きくうなずいた。
「うん、真田くんの鍛えられた心臓は、生体として極めて効率の良いポンプの役割を果たしているわけだけれど、更に鍛え上げてゆくには通常のロードワークで負荷をかけるのがなかなか難しくて、私の体重くらいの負荷をかけなければならないっていう事でしょう?」
 自信ありげに言う彼女を、弦一郎はギラリと睨みつける。
「違う! たわけ者めが! ちゃんと、話を聞いていたのか!」
 弦一郎の怒鳴り声で、一瞬教室が静まり返った。
 は目を丸くして弦一郎を見る。
 しばらくの沈黙の後、クラスメイト達もそれぞれのおしゃべりへと戻っていった。
「……びっくりした、怒鳴る事ないじゃない」
 眉をひそめながら、またウィッグをかぶる。
「いや、だからアフロは外せ」
 弦一郎に言われ、はしぶしぶウィッグを外すと窓枠にもたれながら、それを指でもてあそんだ。
「……もう一度、スポーツ心のところから説明してくれる? 私の理解が間違ってたのか、確認するから」
「いや、スポーツ心のくだりはどうでもいいんだ。いいか、つまり……」
 弦一郎はまた大きく深呼吸をした。
「俺が言いたいのは、46.5キロの負荷を、例えば他の女子生徒であるとか、米袋であるとかで代用しても、おそらく昨日のようには心拍数は上がらんだろうという事なのだ。が後ろに乗ってくれないと、俺の心拍数は上昇しない。……これで意味はわかるか?」
 怒ったように言う弦一郎を見ながら、の顔は徐々に赤くなる。そしてその両手からウィッグがぽろりと離れていった。
「あーっ!」
 はあわてて窓の下を見るが、ピンクの塊はふわふわと校庭に落ちてゆくばかりだった。
、アフロは後で俺が責任を持って拾いに行くから放っておけ。で、どうなんだ」
 低く静かな声で詰め寄る。
「……真田くん、わかりにくい上に、前置きが長すぎる」
 彼女は赤くなった顔を隠すように両手で頬を多い、小さく笑った。
「順序だてて説明したつもりだ」
 は目を閉じて、空を仰ぐように顔を上げた。
 そして目を開けて、弦一郎の顔を見上げると、赤らめた顔のまま幸せそうに笑う。
「真田くんの背中にもたれて、あの坂の上からの景色が見れるなら、私はものすごく嬉しい。46.5キロからなるべく変動しないようにするわ」
 彼女の言葉を聞いて、弦一郎はそれまで力が入りっぱなしだった体がふうっと脱力するのを感じた。額を押さえながら、開いた窓にもたれる。
「……そうか、ありがとう……よかった……」
 ふと校庭に目をやると、の落としたウィッグが風で転がってゆくのが見えた。
「いかん、拾いに行って来る!」
 弦一郎は走って教室を出た。
 校庭に出て、転がるピンクの塊を走って追いかける。ちらりと教室を見上げると、が窓から身を乗り出して手を振っているのが見えた。
 思わず一人、笑った。
 きっとこれから、俺の心拍数は上昇させられてばかりだろう。
 そんな事を考えながら走って、やっとピンクのアフロをキャッチすると、それを大きく彼女に向けて振ってみせた。



<タイトル引用>
RCサクセション「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」(作詞:忌野清志郎)より

2007.3.29

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