● ベイビー!逃げるんだ。(2)  ●

 大石とさんの件を目撃して以来、俺は教室でさんを見るたびに、心の中で『ポチ』って呼んでいる。
 あっ、今日はポチが日直かーとか、ポチ弁当食べるの遅いなー、とかね。



 その日は放課後に廊下で大石と会って、二人で部室に向かっている時だった。
「最近、ポチとは顔合わせてない?」
 俺がからかうように言うと大石はヘンな顔をする。
「何だよ、ポチって」
「ああ、さんの事だよん。大石を慕う子犬みたいだろ?」
 俺がニシシと笑って言うと、大石は眉間に皺を寄せた。
「そんな、人を犬みたいに呼ぶのは感心しないな、英二」
 そうそう、大石ってこういうとこがあるんだよなー。
「別にバカにしてるわけじゃないんだよ。子犬みたいでちょっと可愛らしいからさ、親しみを込めて呼んでるんじゃん」
「お前はいつもそうだが、お前がそうやって面白がる事を不快に思う人だっているんだぞ」
 とまあ、いつものような大石の説教が始まった。
 面白がりの俺はこうやってこいつに説教をされるのは慣れっこで、へいへい、と大人しく聞いていた。
 すると、大石のトウトウとした説教の言葉がふと途切れる。
 奴の顔を見ると、明らかに困惑した表情で進行方向を見ていて、そして足が止まった。
 奴の視線の先には、噂をすれば、のポチがいたのだ。
「……英二、すまん、後は頼んだ!」
 そして大石はくるりと踵を返し、猛ダッシュをする。
 おいおい、そっちは部室と反対方向よん、大石ー。
 ぐるりと一周まわる気なんだろうなあ。
 なんて呑気な事を考えながら、俺は大石の後姿を見送った。
 そして、大石のダッシュの後を追うようにポチも早足でやってきて、例の子犬みたいな一途な目で俺の前を素通りしようとする。大石が走った方に向かって。
「ねえねえ、ポチぃー」
 俺は彼女に向かって声をかけた。
 彼女は驚いて振り返る。
「……私の事?」
「え? あ、うん、そう」
 俺は大きくうなずいて、ニカッと彼女向かって笑う。
「大石さ、忙しいよ」
 そして、前に部室の前で話した時と同じように、彼女に言った。
「……そうなんだ……」
 俺が言うと、彼女は大石を追うのを諦めたように足を止めてつぶやいた。
 前もそうだったけど、彼女は俺が「大石は忙しい」と言うと、それ以上は俺にいろいろ大石の事を聞いてきたりはしない。それですっと諦めるのだ。
 俺はちょっと意外だな、と思いながら彼女の伏せた悲しそうな目を見つめた。
「……あ、菊丸くん。どうして、私、ポチなの?」
 すると彼女はふっと視線を上げてさっき俺がつい口走って呼んでしまった、彼女の俺だけの呼び名について尋ねてきた。
「どうしてって、だってさん、大石が大好きで構って欲しくて仕方のない子犬みたいなんだもん」
 俺がそのままに言うと彼女はちょっと驚いた顔で俺を見て、そしてしばらく考え込むような顔をして、ちょっと笑った。
「……そういわれると、確かにそうかも」
 くっくっとおかしそうに笑う。
「だろ? だろ?」
 彼女の反応に俺はちょっと嬉しくなって、一緒にニシシと笑った。



 そんなわけで、俺は大石と一緒にいてポチの姿が見えるたび
『大石ぃ、にーげろー!』
 と奴を逃がしたり、また大石がポチから
『大石くんは、大学もこのまま青学? 将来は何になろうと思ってる?』
 なんて質問をされてタジタジになっているところに飛び込んで、
『ポチ、俺の将来の夢、聞く? 聞く?』
 なんて言ってみてたり、まるで大石のボディガードのような事をするようになった。
 でもどちらかといえば大石のボディガードというより、迷い犬を預かるペットシッターみたいだなあと思っているんだけど。

 その日は、俺と大石が屋上で弁当を食べていたらそこにポチが現れ、当然大石はダッシュで逃げ、無事奴を逃がした俺はポチと二人で弁当を食う事になった。

「ポチはさー、なんで大石が好きになったわけ?」

 俺はデザートの牛乳プリンの蓋を開けながら、今更ながらの事を尋ねてみた。
 ポチは小さな弁当箱のおかずをぼそぼそと食べながら、ちょっと恥ずかしそうにして、ふうっとため息をついた。
「私が図書館でね、棚の上のほうにある本を取ろうとしてたの。でも私、背が低いでしょ。踏み台がいるかなあって思ってたら、大石くんが取ってくれたの」
「なーんだ、すっごいベタなきっかけだなあ」
 俺は、なんだかもっと面白い出会いでもあったのかと思ってたから、ちょっと期待はずれで声を上げてしまう。
「それがね、本の取り方がよかったの」
 ポチは続けた。
「取り方ぁ?」
「普通はね、背表紙の上を指で引っ掛けて手前に引いて取るでしょ? でも大石君は、まず本の背表紙の下のところを指で押して、本を手前に傾けてから取り出すというツーアクションで取ってくれたの」
 ポチは嬉しそうな顔で言う。
「なんだよ、それー、意味わかんにゃい」
「だからね、背表紙の上を指でひっかけて取り出すと、だんだん背表紙がめくれてしまって本が傷むでしょ? 大石くんはそうならないように、図書館の本を丁寧に扱ってるって事。あんな風にする男の子は初めて見たから……」
 彼女の説明を聞いて、俺はなるほど、と思った。確かに大石は物を丁寧に大切に扱う奴だからなー。
「私みたいに、ろくに知らない相手にでもあんな風に親切にしてくれて、誰が見てるわけでもないのに、あんな風に本を丁寧に扱う男の子って、初めてだったの。絶対大石くんはいい人なんだなあって、すぐに好きになっちゃったんだよ。振られちゃったんだけど、ああいう風にはっきり言ってくれるところもいいなあって思って、やっぱり好きなままなの。ちょっとでも大石くんの事知りたいし、なんとか少しでも私の事も知ってもらえたらなあって思うんだけど……」
 ポチは箸を動かすのを止めて、熱く語った。
 俺はうんうん、と肯く。
「そう、大石はね、ほんと真面目で親切でいい奴なんだよ。ちょっと融通がきかないところもあるけど、誠実だしね」
「そうでしょう?」
 俺が言うと、ポチも目をくりくりさせて大きく肯いて嬉しそうに笑った。
 どうやら俺とポチは、『大石が大好き』、という点でとても気が合うようだ。
 俺も嬉しくなって、牛乳プリンを食いながらポチを見て、大きく笑った。



 その後も大石はポチの姿を見れば逃げ出し、そして俺は大石を逃がした後、迷い犬ポチの面倒を見るという日々が続いた。
「……ポチさあ、大石の事が知りたいんだったらさ、俺が教えてやってもいいんだよ。ほら俺、ダブルスのペアで仲良いからいろいろ知ってるしさ」
 ある日、教室でポチと話しながら、俺はそんな事を言った。
 すると彼女は首をぶんぶんと横に振る。
「いろいろ知りたいけど、でも、そういうの人づてで聞くのって、きっと大石くんも良い気はしないと思う。きちんと、本人から聞かないと」
 ポチは相変わらずものすごく真面目で、まっすぐで、決して俺から大石の事を聞きだそうとはしないのだ。
 まったく大石に対する振る舞いはあんなにヘンなのに、妙なところに律儀で筋を通すんだなあと俺はおかしくなってしまう。
それに、こういうちょっと融通の利かない真面目なところ、大石と似てる。
「……大石さ、この前部活のジャージ裏返しに着てたんだよね。そんで、そのままで俺にえらそうに説教してたの。ジャージ裏返しのクセに顔は真剣でさ、俺、叱られてんのにおかしくてしょうがなかったよ」
 俺は真剣な顔のポチに、笑いながら話した。
 ポチは目を丸くして俺の話を聞いて、小さく吹き出す。
「な? こんな話だったら、いーだろ? あいつ、あんなに真面目で優秀な奴なのに、時々抜けてておっかしーんだ」
 ジャージを裏返しに着て説教を垂れる大石を、ポチは上手く想像できたかな?
 俺はそんな事を考えながら、楽しそうに笑う彼女を見ていた。
 ポチは本当に大石が好きなんだなあ。
 俺も大石が好きだから、大石を好きだっていうポチにはすごく好感が持てる。
 それに大石好きな二人で、こうやって大好きな大石についての話をするはすごく楽しいや。
 この一途な迷い犬を、なんとかして大石のところのコにしてやれないかなあ、なんて俺はいつのまにかそんな風に思うようになった。

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2007.7.12

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