俺はテニスのダブルスペアの大石が大好きだ。
なんたってテニスが上手いし、そしてまったく誠実で頼りになる奴で、とにかく良い奴なんだ。
大石と組んでテニスをするのが、俺はいつも本当に楽しくて楽しくて、あいつに出会えた事にとても感謝している。
ある日の放課後、俺は改めてそんな事を考えながらでたらめな歌を歌って部室に入ろうとしていると、その当人、大石が珍しく校庭を走って部室の前にやってきた。
あれ、大石が俺より遅いなんて……しかもあんな焦った大石、珍しいなぁと俺が驚いた顔をしていると、奴は真剣な顔で俺を見た。
「英二! ……俺は、ものすごく忙しい! そう、伝えておいてくれないか!」
そしてそれだけを言うと、俺の鼻先をかすめてバタンと部室の中へ消えていった。
「はぁー? なんじゃ、そりゃー?」
俺はわけがわからなくて、一瞬部室の前で呆然としてしまった。
忙しいって?
伝えるって?
誰に?
俺がそんな風に若干混乱した頭を整理しようとしていると、軽くてせわしい足音が聞こえて俺の背後で止まった。
振り返ると女の子がいた。
彼女はちょっと眉間に皺をよせて困ったような不安そうな、そんな顔をして大石が消えていった部室の扉を見つめていた。
知ってる知ってる、この子。
同じクラスだもん。
「どーしたの、さん」
俺が声をかけると、彼女はまるで初めて俺の存在に気付いたというように顔を上げて目を丸くした。
「あ、菊丸くん。あの……大石くん、部室かな?」
俺は、大石の言葉を思い出した。
なんとなく、奴の言葉の意味を察した。
「ああ、うーん……ちょっとミーティングで忙しいみたいなんだよね。うん、すごく忙しいから当分出て来れないんじゃないかな」
俺が言うと、彼女は留守番を言いつけられた子犬のようにみるみるしょんぼりしてゆくのがわかる。
ふわふわっとした髪に、丸い額、大きな目は、丁度ロングコートチワワみたい。
「そうなんだ、わかった、ありがとう菊丸くん」
その、一人ぼっちにされた子犬みたいな彼女がちょっと気の毒になって、俺は景気付けにと、彼女の前でぴょんぴょん飛び上がって大きく手を振って見せた。
「残念無念、また来週ーってね!」
俺がおどけて言ってみせると、彼女は目を大きく見開いてひどく悲しそうな困ったような顔をするのだった。
「え、そうなの? 大石くん、来週までずっと忙しいの?」
彼女……さんは真剣な顔で俺に聞いてきた。
俺は大きく振り上げた手のやり場に困り、ゆっくりと下ろす。
「いや、あの……今のはまあノリっていうかぁ……本当に来週じゃないと顔合わせられないって訳じゃないよ。ええと、明日とかだったら、大丈夫なんじゃないかなー」
さすがの俺も少々困惑して彼女に説明した。
「そうなんだ。うん、ありがとう菊丸くん」
彼女はぺこりと俺に頭を下げると、その場を去って行った。
俺は彼女の後姿を見送ると、ようやく部室に入った。
「おーいしー!」
俺が勢い良く部室に入ると、既に着替えを済ませた大石はハッとしたように俺を見た。
「……彼女、行ったか?」
俺が肯くと、大石はほっとしたように胸をなでおろした。
「相変わらず、モッテモテじゃん、大石ー!」
からかって言うと、大石はぎゅっと眉間に皺を寄せて俺を睨む。
「英二、からかうな。俺は本当に困っているんだからな」
俺はロッカーからジャージを出しながら、大石を振り返った。
「彼女、さんだろ? 大人しいけど、まあまあ可愛い子じゃん」
大石は大きく首を横に振る。
「そういう問題じゃないんだ。……すごく、変わってるんだよ」
そして大きくため息をついた。
「……これは他言しないと約束してほしいんだが……実は先週、彼女に好きだって告白されて一度きちんと断っているんだ。それなのに、その後もちょっと……なんていうかいろいろとあって、正直参ってる」
「ふーん、でも大石、そういうのって初めてじゃないだろ? 上手くあしらいなよ」
「なんていうか、ちょっと……他の子と違って、手ごわいんだよ……」
大石は難しい顔をしながら言うのだった。
「へー」
俺はさっきの彼女の様子や彼女との会話を思い返して、一体大石はどんな目にあってるんだろうなんて考えると、大石にはすごく申し訳ないんだけど、なんとも言えない好奇心がわいてきてしまいニヤニヤ笑ってしまいそうなのを押さえるのが大変だった。
大石、真面目だからさ。
ここで俺が笑ってしまったりしたら、本気で怒っちゃうしね。
でも、この真面目な大石とこれまたひどく真面目そうなさん、一体どんなやりとりをしてるんだろう?
俺は大石に背を向けて着替えをしながら、声を殺してクスクスと笑った。
そんな事があった翌日、俺は授業を受けたりしながら、今最も大石を悩ませている女の子、さんを目で追った。
まあとにかく、大人しい子なんだ。
そもそも俺も会話したの、昨日が初めてだし。
そして昨日の会話でもわかるように、当然ものすごく真面目な子だ。
授業もすごく真面目に受けてて、休み時間も机に向かっててあんまりしゃべらなくて、とにかく大人しくてぜんぜん目立たない女の子。
あんな子が、一体どうやって大石をあんなに焦らせているんだろう。
俺の興味は尽きなかった。
さて放課後に部活部活ー、と俺はまたでたらめな歌を歌いながら走って部室に向かうと、鍵がまだ開いていなかった。珍しい、大石が鍵を開けるの遅れるなんて。
でも、きっとすぐに来るだろうと思いながら、俺はその辺りを見渡した。
すると、部室の近くの木陰から大石の声がした。
そしてその向かいには……、いた! さん!
俺はそっと、二人の会話が聞こえるところまで近づいた。
「ええと、俺が今読んでる本……? 『誇大自己症候群』っていう新書の……」
大石はえらく疲弊した様子でぼそぼそとしゃべっていた。
彼女はそれを聞くと熱心にメモを取っていた。まるで乾みたい。俺はニシシと声を殺して笑う。
「『誇大自己症候群』、と……。大石くん、その作者の本、好きなの? 他にも読んでる?」
「いや、そういうわけじゃなくて、ちょっと内容が面白そうだったから」
「そうなんだ、わかった。私も読んでみる。読んだら、あらためて大石くんの感想を聞かせてもらってもいい?」
「……うん……」
「あと、この前大石くんが読んだって言ってた『感情力』、私も読んでみたんだけどね」
ひたすら一方的に大石に質問をしたり、自分の話をしたり、さんはとにかく必死に真剣な顔。
対する大石も真剣に困った顔。
「……ねえ、さん。さんが俺とつきあいたいっていうのは、先週きちんと断ったよね。……それとね、こうやっていろいろ聞かれたりするのも、困るんだ。俺、忙しいし」
おお! さすがに真面目な大石、きっちりと面と向かって言ったーっ!
「……ええと、じゃあもっと質問内容なんかを簡潔にして短くして、時間を取らせないようにする」
対するさんも、なんとも真面目な答え。
あー、こりゃ、あれだ。
超真面目同士、磁石のプラスとプラスみたいなもんだねーと、俺は大石が気の毒な反面、おかしくて仕方がなかった。だって俺、真面目同士ってもっと気が合うモンかと思ってたけどさ、そうか、こんな風にもなるんだなぁ。
ついつい、ぷぷっと声が漏れてしまった。
「……英二!」
そんな俺を大石はめざとく見つけた。さすが黄金コンビのパートナー。
「さん! 俺、部室の鍵開けないといけないし、本当にいそがしいから、じゃ!」
そして俺の腕をつかむと、部室に走った。
大石にひっぱられて走りながらちらりと振り返ると、そこには捨てられた子犬のような顔をしたさんがメモを手にじっと立っていた。
「英二! 見てたんなら、助けてくれてもいいじゃないか!」
普段なら、『覗き見するなんて』っていうところで怒りそうな大石がこんな風に言うのだから、よっぽど困っていたんだろう。
「ごめんごめん、なんかどうしたらいいか、わかんなくてさー」
大石はため息をついた。
「万事あんな感じなんだよ。普通、女の子ってさ、その……例えば俺の事を知りたいとしても、もう少し遠まわしに段取りを踏んで会話して、とかだろ? 彼女はとにかく俺を見つけると、ずんずんずんと一直線にやってきて、もうひたすら俺の事をいろいろと聞いてきたり、自分の事を話したりなんだ。ことこまかに。気持ちはありがたいんだけど、つまり、苦手なんだよ、ああいう感じ」
なんたって、磁石のプラス同士だからねえ、なんて俺は心の中で考えてしまう。
でも、きっと大石の、優しいけれどああいい風にはっきり言うところ、そんなところも彼女は好きなんだろうなあと、俺はふと思ったりした。
「……巻き込むつもりはないけど、英二、ああいう事があったら、次は助けてくれよな」
珍しく大石がそんな事を言う。
「うん、わかったよ」
俺は素直に返事をした。
そして、先ほど俺と大石に取り残された彼女の顔を思い出す。
ほら、あれだね。
さんは本当に、大石を好きで好きで仕方がない子犬みたいだ。
迷い犬の『ポチ』って感じがする。
そんな発想がやけに楽しくて、俺はニシシと笑ってしまった。
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2007.7.11